元正天皇

1 ななしのよっしん
2014/05/11(日) 03:16:05 ID: ifth/8w28c
一応、即位の根拠は『母親天皇だから』じゃなくて、
『祖天皇父親皇太子だったから』らしいけれど

後、正式な歴史書にも残るほどの美貌の持ちだったらしいね
他の女は容姿に関する記述はないのに……
2 ななしのよっしん
2016/07/17(日) 23:17:06 ID: naxCJOB/A1
追記された分、あまりにも一方的な論調すぎる気がする
古代史なんてわからないことばかりなのに「当然」だの「自然」だの
あと皇子は皇太子なのでただの皇族ではない

ついでに言うと、継嗣条にあるのは「嫡」であって「長子」ではないはず
女子の継嗣を認めたといえるかは怪しい(同条の「三位以上」に天皇が含まれるのかはともかく)
3 何処某
2016/07/18(月) 12:22:14 ID: SUtBCmfLRr
>>2
確かに皇太子とその他皇族は全然違う…。ごありがとうございます

が、の文武天皇の事情をざっくり調べてみたところ天皇の子と皇太子の子じゃ受け入れられやすさにと地の隔たりがあることが分かり、男系継承に益々「?」という疑問符がついてしまった次第。
元正天皇の即位の際に文武天皇並の反対意見があれば単なる元明天皇ゴリ押しという解釈で済むだろうがそのような事実はあっただろうか。御検証の程、お願いいたします。

あと、「嫡」という字の意味を見てみたが「正妻から生まれた子」以上の原義を見出せない。「嫡子」と書かれていたがこの字で女系が自動的に排除されたかどうかは判断しかねる。
4 ななしのよっしん
2016/07/23(土) 20:15:20 ID: SuB9INoM4U
「男系天皇父親天皇の血を引いていることと規定した場合は、この限りではない」・・・って、いやいや、男系天皇ってのはまさに「父親天皇の血を引いていること」だと思ってたんだが。
父親天皇そのものでなければ男系とは呼べない」のだとしたら、歴史上何人もの天皇が男系天皇ではないことになるぞ?

あと、継嗣の継嗣条は本当に皇位継承に関する規定なのだろうか?
「三位以上の継嗣については」という書き出しになっていて、「天皇の継嗣については」とは書かれていない。「三位以上」というのは人臣を念頭に置いた書き方なんじゃないかと。

そもそも、の中に皇位継承の順位が書かれているのだとすれば、「皇太子」という制度は全く意味がいことになる。
必ず天皇の長子が継承するのだとすれば、天皇がわざわざ詔で皇太子名する必要などいではないか。

要するに、元正天皇父親皇子が天皇の子であるから、れっきとした男系なんですよ。
「女から女に継承された」ということのは取るに足らない問題であって、単に元正天皇が皇位継承資格を持っていた、ただそれだけのことだと思うよ。
5 何処某
2016/07/24(日) 10:28:50 ID: SUtBCmfLRr
>>4
宮部香織著「法における皇位継承 ―女規定の解釈をめぐって―」

によると(「継嗣 三位」で検索で出てくる)、どうも三位以上~の項は天皇以外の継承に関する法のようだ。
少し考えてみたが、継嗣天皇と皇族だけを対にしたものではなく、彼らにとっては(内)親王の定義と隔世の許容度を示すに限ったものな気がする。だから各々の天皇が「皇太子」を定義して後継者争いをなくすよう努めていたんだと思う。
あと天皇の子じゃなかったら男系でないとかそういうことをいってるわけではない(書いたのじゃないから判らんけど…)。単に受け入れられやすさが天皇>祖天皇と言いたかったつもりだけどなぁ。その解釈だと文武天皇が…

さて、文武天皇の即位の際に底的に軽んじられてきた皇子の血がなんで元正天皇の即位の際に急にクローズアップされるんですかねぇ…そこが分からん。
6 4
2016/08/12(金) 14:45:41 ID: SuB9INoM4U
>>5
わざわざどうも。
(私としては現状の記事内容に文句を言いたかっただけなんですが…)

文武天皇の即位(というより立太子)で揉めたのに対して元正天皇がすんなり即位できたという話は、
天皇の子と皇太子の子とでは受け入れやすさが違う」なんて難しい考え方をしなくても、
もっと単純に説明できるのでは?

天皇の頃までは、皇位は子よりも兄弟がいる場合は兄弟が優先されてきた。
(母親の出自とか年齢制限とかの結果としてそうなっただけかもしれない)
履中-反正-允恭、安康-雄略、顕宗-仁賢、安閑-宣化-明、敏達-用明-崇峻-推古、皇極-孝徳。
天皇申の乱を起こしたのは、(大友皇子が即位したかどうかはさておき、)
こうした兄弟優先という慣習があったからこそ、自分も即位できるはずだと考えたからではないか。
7 4
2016/08/12(金) 15:04:01 ID: SuB9INoM4U
>>6のつづき
ところが、天皇は、自身がそういう経緯で即位したこともあって、この兄弟優先という考え方は
争いの種になると考えた。
そこで、自分の次の世代の皇子たちとともにいわゆる吉野の盟約を行って、皇子が後継者であることを
他の皇子たち(しかも参加者のうち川島皇子と志皇子は天智天皇の子)に認めさせた。

天皇はここで初めて「親から(兄弟を飛ばして)嫡子へ」という新しい考え方を生み出した。
皇子が選ばれたのは皇后である持統天皇の子=嫡子だったから。

とはいえ、いきなりそんな新しい考え方が定着するはずもない。
大津皇子が天皇の崩御直後に謀反の疑いをかけられて死に至ったのは、
まさに大津皇子が皇子のライバルとなって再び皇位継承争いが発生することが懸念されたから。
8 4
2016/08/12(金) 15:34:38 ID: SuB9INoM4U
>>7のつづき
その皇子が死んでしまったので、「親から嫡子へ」を維持するためには持統天皇が立つしかなかった。
兄弟優先であれば高皇子が筆頭になるはずだが、本人は吉野の盟約に参加していた手前、即位できなかった。
ただ逆に言えば、文武天皇立太子の話が「高皇子の薨去後」に出てきたということは、
皇子が生きている間は即位の可性があると考えられていた、
つまり「親から嫡子へ」はまだ定着しておらず、「兄弟優先」がまだ残っていたということになる。

そして、文武天皇の立太子で揉めたのも同じ理由と考えられる。
皇子が所詮皇太子でしかなかった」からではなく、単純に「兄弟優先」の考え方が残っていたから、
天皇の他の皇子が立つべきだ、ということになって揉めたのではないか。

そこで懐藻の野王伝につながるわけ。
9 4
2016/08/12(金) 16:19:18 ID: SuB9INoM4U
>>8のつづき(連投すまん、こんなに長くなると思わなかった)
上記からすると、野王が言った「従来子孫相承して以って位を襲ぐ」というのは大嘘になるけど、
そうとも限らない。なぜなら、この頃既に歴史書(古事記日本書紀)の編纂が始まっていて、
神武天皇から応天皇あたりまではだいたい「親から嫡子へ」という流れで書かれているから。
他方、「若し兄弟相ぼさば、則乱れむ」は、申の乱があったばかりだから反論のしようがない。
この野王の言葉によって、「を定むる」=「兄弟優先」が否定されて「親から嫡子へ」で決着した。
あるいは、そこからさらに進んで「武・持統 統原理」が確立したと見てもよいかもしれない。

この原理によって、文武天皇の後継者は聖武天皇に決まったが、文武天皇がまたしても若くして崩御したので、
-持統と同じように文武天皇である元明天皇が即位した。
元正天皇が即位する頃には「親から嫡子へ」あるいは「武・持統 統原理」が既に定着していたので、
文武天皇のときほどには揉めなかった。
以上。(専門書とかは読んだこといのでWikipedia見ながらなのでガバガバかもしれない)
10 4
2016/08/12(金) 16:30:03 ID: SuB9INoM4U
何度もすみません。
>>9の「若し兄弟相ぼさば」は「及」が抜けていて「若し兄弟相及ぼさば」ですね。
あと、持統・元明・元正は「親から嫡子へ」の原則から外れているように見えるけど、
「女中継ぎにすぎない=本来の後継者は別にいるので問題なし」という立場です。

要するに、文武天皇の頃は「親から嫡子へ」と「兄弟優先」の対立があったけど、
元正天皇の頃になると「親から嫡子へ」が定着してしまっていた、という説明を試みてみました。
記事に反映させるかどうかは今後のご意見ご摘も踏まえて決めましょうか。
11 何処某
2016/08/14(日) 15:11:19 ID: SUtBCmfLRr
>>6>>10
成程。つまり、天皇の時代は兄弟優先だったが吉野の盟約・野王の進言を経て親から嫡子へと移ったいう背景があった、ということね。
ただ、今帰省中で資料を持ってないから分からんけど兄弟が優先された、というのは単純に子の年齢が足りないというのもあったという事情が強かったと思う。というのも飛鳥時代以前は天皇になるためには血筋や政治的実もさることながら四十路、若くても三十路の年季が必要だった。
安閑-宣化天皇は手皇女との子であるものの当時数23歳(程度)と非常に若い天皇への中継ぎ(当時譲位の概念がないとはいえ女と違い二人とも即位当時から高齢なのでこれは中継ぎと思う)として兄弟間の皇位を回した。
天皇の子世代が相次いで天皇になったのは孫世代の年齢が不十分であり、推古天皇即位時でも子世代の皇太子聖徳太子は数20歳と若い。
また、孝謙天皇即位時、子世代の中大兄皇子も数20歳と若い。
継体以前の天皇の年齢は分からないが「親から嫡子へ」を実行するにはその嫡子が若すぎて上手くいかず、結果兄弟継承が行われたのだと思う。
兄弟が継ぐと必然的に嫡子も変わるので、兄弟優先だと子世代への継承が不安定になるから、
私見としては、元より「親から嫡子へ」だったものの、年齢や政治的実も問われてた時代それが中々上手くいかなかったが、吉野の盟約、野王の進言を経て兄弟>年齢が年齢>兄弟になり、益々親子継承の色が強くなった、というもの。
実際持統天皇の譲位先の補は元は「天皇の子」だったしね(皇子の両親の兄弟は知らないけど…)。

さて、「天皇の子と皇太子の子とでは受け入れやすさが違う」より簡潔な説明だが、中々思い浮かばない。どう変えたらいいんだろう。
12 ななしのよっしん
2017/03/08(水) 04:16:33 ID: rlHJtYTiB8
かなり大幅に加筆させてもらったけど、調べれば調べるほどにこの時代の武の関係の複雑さが見えてきて混乱が増すばかり。
叔父姪婚や叔母甥婚のせいでこの人は智系の人なのかそれとも武系の人なのかと悩まされる。

持統天皇の立ち位置と元明天皇の立ち位置がすごく微妙なんだよね
持統天皇天智天皇で、天皇の妻、
元明天皇天智天皇で、天皇持統天皇息子の文武天皇の妻
持統天皇武の妻よりも智のとして智の血を残すために行動してたとかいう説まであるし、
だったら元明も同じことやったのではとか思いついて、ホントこのの話は闇が深すぎる。
13 何処某
2017/03/10(金) 01:15:43 ID: SUtBCmfLRr
>>12
追記お疲れ様です。いやはや、近親婚が当たり前の時世を々の価値観で見るのはすごく難しいですよね。
それでも、持統天皇の執念だろうが持統~孝謙の直系を意地でも貫かんとする姿勢が皇室の皇位継承の価値観たるものではないだろうか。
それでも元正より文武が先に即位したのはシナが強かったのかもしれないね。
14 ななしのよっしん
2017/03/14(火) 13:24:07 ID: MvTyFtHy1I
もしかしてが在位の頃から祭や都造りのプロジェクトを手伝われていて、元正への譲位はその流れだったのかな
聖武天皇政権後期から始まった混乱は元正上皇が鎮められて称徳天皇へ引き継ぐ地均しをされたし、もが異存なく従う権威者だったのかあるいは政治家としても優秀で実績のある方だったのかなと
男が気後れしてしまうような女傑で、その御姿に称徳天皇は幼い頃憧れを抱かれたのでは、と想像してみる
15 ななしのよっしん
2017/03/25(土) 19:09:34 ID: 6CxtTdnZj2
正直に言って

>>もし、「奈良時代に女系継承が行われたのだから、現代においても女系天皇を容認すべきだ」
>>という議論があるのであれば、それは上記の通り血統と継承を都合よく混同した
>>事実誤認の甚だしいものである。

の部分はあまり断定し過ぎない書き方のほうが良いと思うな
元明から元正への移譲だけを切り取ったなら女系に「見える」こと自体は事実なのだし
「男系男子」の言葉にあえて厳密な定義を設けずに来たこともまた事実なのだから

それに、ここを読んだ人が掲示板などで原理義者的に暴れ出しても困るし
日本的な「曖昧さ」を幾分含ませた文章の方が良いように思う


それにしても元明、元正周辺について調べる時にいつも感じるのだけど…
方の祖母以外は親も祖もみんな天皇に即位した中で
たった一人悲惨な最期を迎えた吉備内親王が何だか哀れで…
16 ななしのよっしん
2019/11/30(土) 08:46:12 ID: nWHTLaGFNI
というか当時に「男系男子に限る」なんて文言はいでしょ
男性優位の時代に男子長子が優先された(絶対ではない)というだけでは
17 ななしのよっしん
2019/12/07(土) 00:03:19 ID: B9/ioFrqDh
日本皇室は先例にないこと禁ルールなんで、文言になければOKとはならない
皇室典範に男系の男子と書いちまったのはヨーロッパスタイルされすぎたか
18 ななしのよっしん
2020/01/06(月) 18:34:50 ID: fzUBnyiidu
おーぷん2ちゃんねるのやつらがサザさんのたとえで得意になってるの見ると笑える
19 ななしのよっしん
2020/01/08(水) 09:45:37 ID: 6VikZNRvPa
日本皇室は先例にないこと禁ルールなんで、文言になければOKとはならない

だから継体天皇で揉めたんだな

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2020/11/28(土)11時00分 現在

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