241 ななし
2015/07/07(火) 18:40:26 ID: 16b4O8/d+l
244年の勢の役で曹爽玄らが7万の軍で襲来した時には王平が時間を稼いで自滅を誘っている
蒋琬が病で費イが軍を解体・接収して内地におり中の兵は1~2万。
諸将は慌て、援軍が間に合わないのではないかと心配されている。
兵権握で政局の安定を図っいたのだろうけど
相手が曹爽でなければ中を失う危機的局面だったかもしれない。
良く統治されたようではあるけれど閥や官吏制度をめるような政略を持ち併せた人物も兵卒から成りあがる人物もにはいない
大赦連発してるし戦時にして法が固すぎたのかもね。
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242 ななしのよっしん
2015/07/07(火) 20:40:42 ID: az8J7NCWXS
勢の役に関して言えば曹爽軍事責任者じゃなかったら起きなかったかもしれない戦いだからなー。
そういえば姜維はこの時どこに配置されてたんだろう?
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243 ななしのよっしん
2015/07/07(火) 21:04:16 ID: L0KkrjEuHk
>>242
曹爽返り討ちにする前年に魏延と同じ州刺史に着任してるし、その後の動向から見ても中に駐屯してたんじゃないかな。
この頃はまだ黄皓に睨まれてないから、都と北方を行き来してたんじゃないかと。
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244 ななしのよっしん
2015/07/07(火) 22:59:57 ID: az8J7NCWXS
>>243
そこなんだよ、中付近、少なくとも北方にいると思われる姜維勢の役の時にどこにいたのかなと。
王平は別ルートからの侵攻に備えられるように軍を配置してたみたいだけど、姜維がどんな動きをしてたのかが気になる。
州刺史という高官ではあるものの、この時は蒋琬費禕の管理下に置かれていて援軍として中に向かった軍の中にいた可性もあったりする…かな?
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245 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 06:46:03 ID: U0NWJBPO/b
243年10月蒋琬は5年駐屯していた中から涪に軍を移してるので大司馬蒋琬司馬として蒋琬政権で軍中枢にいた姜維も涪にいたと思いますよ。

244年3月勢の役では費イが涪にいた諸軍を率いて中への援軍に向かってる事から、蒋琬中撤退に伴い政権中枢は蒋琬から大将軍・録尚書事となった費イに移っており、政権から干された蒋琬と子飼いの将軍であった姜維一手元に残った中軍と共に涪で留守番だったのではないでしょうか。

この後、姜維が表舞台に復帰するのは蒋琬死後、247年に費イの次官である宰相職の録尚書事に就いてからの事であり、蒋琬の後継者と見える姜維費イと政敵だったのでしょうね。
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246 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 12:44:36 ID: az8J7NCWXS
>>245
なるほど、ってことは王平が統括してた中諸軍と、姜維が所属してたと思われる蒋琬費禕が率いていた中軍とは、常時は揮系統が別ってことなのかな。
そして費禕姜維が政敵だとして、王平後漢中督になった胡済は費禕に近い存在だったみたいだし、姜維とは敵対閥だったかもしれないってことか。
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247 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 16:35:23 ID: L0KkrjEuHk
費禕姜維は敵対はしてなかったんじゃないかなぁ
意見の相違があったとしても、あくまで諸葛亮魏延程度の関係だったと思う(費禕が本気で姜維を邪魔に思ってたら、姜維事とはちょっと思えない)
そもそも姜維は高官についてからも軍事以外の中央の運営に参与した形跡がいし、蒋琬鄧芝姜維を評価しているが政治家外交官として自分の後釜に据えるように提言した形跡も
蒋琬にしても費禕にしても、有能でいざとなった時には遊軍として使える将軍くらいに見ていたんじゃないかね
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248 ななし
2015/07/08(水) 16:38:45 ID: 16b4O8/d+l
姜維が段鄧艾に大敗した時に援軍に現れなかったのがその胡済
姜維とともに胡済自ら立てた戦略
この死地にいてもの大敗でも姜維が失ったのは1万以下の兵で死者は5000名規模

前年には王径を破って数万の損を与えて3の民をに移住させている
この敗戦で鄧艾に隴西開発を進められて大軍での攻めが可になり
滅亡の遠因を作る事になっている
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249 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 16:58:53 ID: U0NWJBPO/b
>>246
蒋琬が開府して中に駐屯した際、中前後左右の軍は蒋琬揮下となっており、後典軍・安将軍であった中太守王平蒋琬揮下となっています。諸葛亮費イの時代もそうですが開府した際、中は幕府の揮下に収まっているようです。

蒋琬から費イへの権交代が行われた際、蒋琬の大司馬府は解体され、王平は前監軍鎮北大将軍となり蒋琬揮下を離れて中督になりました。左右後の軍も蒋琬の手元から離れ、蒋琬姜維揮出来る軍はかろうじて保持できた中軍のみになっていたでしょうから大将費イは左右後の軍を揮して中に向かったのでしょう。
費イの時代に姜維が1万の軍しか扱えなかったのはこの時保持出来た中軍のみしか揮できる戦を持っていなかった為なのかもしれません。

胡済については資料が乏しくわからないですね。費イが暗殺され陳祗姜維が実権を握り北伐を行っていた時代、敵対的な人間を本拠の中督に据えるとも補給の失敗を責めず姜維のみが責を負ったとも考え辛いです。
陳祗費イ取り立てられたけど姜維と協関係でしたし、胡済もどちらかといえば協的な関係だったのではないでしょうか。
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250 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 17:03:51 ID: az8J7NCWXS
>>247
そうなると蒋琬費禕姜維に対して大権を与えようとはしていなかったことになるのかな?
費禕が推挙した陳祗姜維との関係は悪くなかったようだし、仮に費禕姜維の関係が悪かったとしても、費禕と近い人物が姜維と敵対関係にあったとは言えないってことか。

>>248
の戦いにおける戦略考案に胡済が関わっていたってのは初耳だな。
>>220でも書いたけど、地図や当時の情勢見る限りでは、姜維が遠征中に立案した作戦実行のために軍を出すように要請を受けた胡済が援軍に間に合わなかったようにしか見えないんだけど。
の敗戦の責任が胡済にあるとしたら、馬謖のやらかしと同等以上のやらかしなのに、処分された形跡がいどころか督中を引き続き務めるのはおかしいと思う。
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251 ななし
2015/07/08(水) 17:10:11 ID: 16b4O8/d+l
>>247 政をエン→費イとしたのは孔明
費イ息子を娶っているし劉禅息子がせている
張嶷らには降将を重用しすぎると批判されていて
費イがあり閥などにこだわらない人物でも周りはそのように扱っておらず、後継争いが面下で起こっていたのは伺える。
なお、姜維は陳シの死後4年は北伐を起こさずその間
に降った尹賞、梁緒が昇進。同じく友人の梁虔は宦官の長に就いている(3名とも滅亡前に死去)
その後は中で軍の再編をしている隙に諸葛瞻董厥樊建ら元々の益・荊州閥に政局を抑えられ、失脚を恐れて成都に戻らなくなった。
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252 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 17:15:30 ID: az8J7NCWXS
>>249
なるほど、で督中を務めた魏延呉懿王平、胡済は政権トップの人物が中にいない時の防衛長官を務めていたと捉えるべきってことか。
>>247で書かれてるけど費禕姜維の関係は諸葛亮魏延の関係と同様明確な上下関係があっただろうし、方針の違いがあっても費禕の意見の方が優先されただろうから、姜維費禕の政敵に成り得なかったかもな。
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253 ななし
2015/07/08(水) 17:35:14 ID: 16b4O8/d+l
>>252 孔明費イ蒋琬董允)揚儀(胡済)魏延姜維)の関係を考えると政敵足り得ると思う。

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254 ななし
2015/07/08(水) 17:39:12 ID: 16b4O8/d+l
>>250 降格はしていないものの姜維の献策で寿の守りに移されている
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255 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 17:53:03 ID: az8J7NCWXS
>>253
軍事に関してだったら姜維にも発言があっただろうけど、政に関して姜維がどれだけの権を持っていたか、どれだけ権の行使ができたかを考えると、費禕と対抗できるほどの勢にはならさそう。
費禕政権下では、董允蒋琬と同年に死んでるし、胡済に楊儀ほどの権かったと思う。
費禕の後釜になった呂費禕が推挙した陳祗の方が中央での発言はありそう。

ただ、上(諸葛亮費禕)亡き後、違う方針で軍事行動を行った(行おうとした)ってことなら魏延姜維は似通ってるとは思う。
後の政権中枢(蒋琬費禕楊儀陳祗)の協を得られたって部分で魏延姜維は違ってると思う。
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256 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 18:05:04 ID: az8J7NCWXS
>>254
それは中の防衛体制の変更によるものじゃないか?
防衛ラインを下げたことにより、その防衛体制を揮する胡済の配置も下げたってことじゃないか?
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257 ななし
2015/07/08(水) 18:36:10 ID: 16b4O8/d+l
防衛体だった中の体制を攻勢体に切り替えて
防衛においては内側まで相手を引き込んで壊滅させる考えのようだし
そのようにもとるのが流の考え方だけれども
姜維は後半の北伐ではそれまでの戦略とは違って自らの手勢といえる軍を動かしている
揮系統を変えてより速確実な命系統を立てたとも考えられるし
それまでの体制を否定したともいえる
世論が味方に付かなかったから
将がいないから仕方なしに
とか色々な要因があったし一意に解釈はできない。
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258 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 19:01:36 ID: az8J7NCWXS
寿(葭)はが滅亡する時姜維が最後まで抵抗した閣の背後にある要所だし、姜維が軍権を握る以前から北方戦略においてかなり重要な地だったから、そこで防衛部隊監督をするのはかなりの要職だと思うけどな。
確かにこの時期のの人材不足は尋常じゃないし、胡済に代わる人物がいなかったとも考えられる。
でも張翼廖化といった歴戦の諸将を守将に据えて胡済を別方面に配置することもできたのに、防衛の要職を任せ続けてるってのも事実な訳で。

結局のところ段の戦いや胡済に関する記述が少なすぎて推測でるしかないんだけど、胡済が末期においてそれなりの実者だったってのは事実だと思う。
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259 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 20:47:55 ID: L0KkrjEuHk
の大敗時に胡済が罰せられなかった理由

【推測1】胡済が姜維べ物にならないくらい朝廷内をっていた
軍事トップ姜維諸葛亮を倣って降格したなら、胡済は馬謖の例に倣って斬首されても良いくらい。特に罰せられた記録いのは、軍事ではナンバー2の姜維が憚るくらい胡済が有者だったから。
【推測2】胡済は費禕の意思を継ぐ反攻勢だった
費禕しかった胡済は費禕の方針に背く姜維の攻勢に反対するメンバーだったので、わざと姜維敗北させ(だとすると張翼べて陰湿だ…)たが、われた。
【推測3】の賞罰体制の問題
当時のの賞罰体制が、将軍が敵に大敗したくらいじゃ降格されるほど厳しいものではなくなっていた。諸葛亮ごっこをする脅威だけが浮いていた。

こんなところかねぇ。
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260 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 21:03:57 ID: az8J7NCWXS
>>259
の戦いの戦略自体が非現実的だった、って可性はいかな?
作戦が破綻した理由が胡済が上邽に現れなかったというのは事実だとして、そもそも姜維と胡済が上邽で合流することが非常に難しかったってパターン
これなら作戦失敗の理由が胡済が上邽に現れなかったことにある、かつ姜維作戦立案者として責任を負い自分だけ降格したとしても筋が通ると思うんだけど。
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261 ななし
2015/07/08(水) 22:18:31 ID: 16b4O8/d+l
略で諸葛亮ではなく琬の死を歴史の大きな転機と捉えている点は?
丞相大将軍の一頭体制だったのが、琬が失脚した後は多頭体制で皇帝政でないと実現しない尚書宦官の活動が活発化。
 琬・費禕志の同巻収録で、諸葛亮が後継補に名を挙げたとする益部旧雑記の説があって同類と見る向きがあるものの、三國志本文では諸葛亮が後継名したのは琬のみ
 諸葛亮の直属の部下琬と、劉禅近侍で権の中枢にいた費禕だと朝廷との関係や政治姿勢が違っていたのでは?
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262 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 23:39:50 ID: az8J7NCWXS
>>261
関係あるかは分からないけど、蒋琬劉備の入前に仕官してるから費禕董允楊儀べより諸葛亮に近い存在だったかもしれない。

あとは費禕諸葛亮蒋琬べ開府ができる官職を得てから開府が許可されるまでに時間がかかってるな。
蒋琬の死に前後して要職に就いていた文官武官が次々と死んでたのがしてるかもしれないけど、劉禅政をするようになったのも同時期。
断言はできないけど、こういったことが要因となってを据えて開府することができなかったのかもしれない。

まあ外征に積極的ではなかった費禕が開府をしたかったかは分からないけど。
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263 ななしのよっしん
2015/07/08(水) 23:41:08 ID: az8J7NCWXS
それと、劉禅による政を支える立場にあった陳祗による政権運営政治の腐敗の遠因だったかもしれない。
陳祗は政権の中枢にいたとは言え、費禕以前の政権担当者とべ権や実績が劣っていたのは間違いない。
その状態で政権運営するために、体的ではなくあくまで劉禅の補佐として政権運営をして、同時に宦官も利用していた。
陳祗の時代には宦官をある程度コントロールできてたみたいだけど、その間に腐敗の土壌が出来上がってしまったんだと思う。
陳祗バランス感覚によって何とか成立していた体制が、その死で簡単に崩壊、腐敗政治まっしぐらになってしまったんじゃないかな。
そんな陳祗費禕によって推挙されたのが董允死後、つまり蒋琬死後の時期であるから、246年が大きな転換期だったのは間違いないと思う。

ここまで書いて言うのもなんだが、この話題はちとスレチかな?
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264 ななし
2015/07/09(木) 00:32:20 ID: 16b4O8/d+l
姜維々だけじゃいかんともし難いとはいえ確かに大分逸れてしまったね。サンクス
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265 ななしのよっしん
2015/07/15(水) 09:53:15 ID: L0KkrjEuHk
三国志を読むと、陳寿姜維について、出兵によってを疲弊させたことだけでなく、中央の政に携わらなかったことを暗に自体を責めてる気がするんだよね。責めてるというと批判してるだけに聞こえるかも知れんが、姜維がちゃんと宮中で宰相をしていればあるいは…という念さを感じると言うか。
蒋琬費禕姜維が同じ巻にまとめられてるのを見ると「姜維諸葛亮の後継者」っていう演義の設定は、案外陳寿の望んでいた(だが果たされなかった)ことだったのかなぁと思ったりする。
全部妄想だけどね。
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266 ななしのよっしん
2015/07/15(水) 20:40:19 ID: az8J7NCWXS
>>265
官位だけ見れば姜維政を揮するべき立場だったしなぁ。
あと志の記述だけど、陳寿は衛将軍簿だった時期があるし、もしかすると姜維の直接の部下だったかもしれない。
姜維がどういう人物か直接見ていたからこそ、陳寿姜維政を担ってほしかったのかもな。
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267 ななしのよっしん
2015/07/29(水) 22:51:53 ID: IcnI9ekwR7
は凄いし決して悪人でもないけど大きな権限を持つとまずいってタイプの例だと思う
止められなくなって悪い方向にも突っ走りやすくなる
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268 ななしのよっしん
2015/08/05(水) 00:30:36 ID: CedPwm540C
でも実際のところ当時のにおいて姜維以上の将はいなかっただろうしなぁ。
以前の書き込みへの返答で知ったけど滅亡時に活躍する羅憲カクヨクなんかは軍事に関われる様な立場にいなかったし、劉禅自体が閻宇を担ぎ出した諸葛セン達に「北伐を任せられるのは姜維しかいない」って認識してるみたいですし。
姜維もあまり内政に関わる職自体に就いてなかったのかもしれませんね。
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269 ななしのよっしん
2015/08/05(水) 08:49:14 ID: L0KkrjEuHk
>>268
からも「姜維さえ捕まえればは終わりだ」と言われてるしね
実質上の北伐幕府である中の軍権を握ってる姜維なら宮中に乗り込んで黄権を殺して大権を手中にすることもできただろうに、それをしなかったのは自分に人望がいと考えていたのか、一武官である自分がそんなことをするのは許されないことだと思っていたのか、単に度胸がかったのか…
まぁお隣ではそんなクーデタがしょっちゅう起きてるから、とても真似できないと学んでたのかも知れないけど
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270 ななしのよっしん
2015/08/05(水) 14:21:14 ID: L0KkrjEuHk
×黄権
黄皓
殺す相手が違い過ぎる…
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