朝倉宗滴
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ななしのよっしん
2015/05/26(火) 10:55:37 ID: SAamt7Iphs
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ななしのよっしん
2015/06/01(月) 12:46:02 ID: Ht0gr+iA1Q
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ななしのよっしん
2015/06/17(水) 10:29:04 ID: sDswPxAeap
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ななしのよっしん
2015/07/14(火) 20:49:44 ID: OjYISMeV5+
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ななしのよっしん
2015/12/06(日) 22:02:06 ID: V0qkUqFgW7
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79って当時としては超長生きじゃね?
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ななしのよっしん
2016/02/07(日) 13:34:39 ID: ET59H2tML4
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ななしのよっしん
2016/03/07(月) 05:45:04 ID: GTRMXP8fKe
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ななしのよっしん
2016/06/29(水) 16:49:20 ID: g9CwEwUoF5
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ななしのよっしん
2016/06/30(木) 04:24:32 ID: Y++JS5dt5S
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ななしのよっしん
2016/10/28(金) 12:09:16 ID: SAamt7Iphs
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せめてあと20年生きてれば…
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ななしのよっしん
2017/01/02(月) 18:48:35 ID: dDYqTIb6Iu
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ななしのよっしん
2017/01/08(日) 22:16:18 ID: mIh3F3LS3H
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ななしのよっしん
2017/01/27(金) 01:19:46 ID: pWWYtBaggI
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ななしのよっしん
2017/03/17(金) 17:58:05 ID: OGo89t4OTA
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ななしよっしん
2017/05/03(水) 20:32:42 ID: brPSg27PtF
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ななしのよっしん
2017/05/21(日) 13:00:40 ID: yT0iMEkuaP
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ななしのよっしん
2017/06/12(月) 22:06:05 ID: tl2EZZW7C7
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ななしのよっしん
2017/08/03(木) 08:47:18 ID: WxKdDo9rJS
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49
ななしのよっしん
2018/02/17(土) 14:34:59 ID: ET59H2tML4
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元々朝倉家と六角家が同盟関係
そこへ当時混乱していた近江北部を京極家が再統一し、朝倉家と六角家が警戒
浅井亮政はその京極家に楯突いた存在なので、当初は朝倉家にとって支援する価値があった
ところが京極家に取って代わった浅井亮政が好き勝手を始めて六角家の勢力圏に侵攻、朝倉家と六角家が苦労して鎮めようとしていた美濃の内乱に介入
番長が小谷城を占拠したのはその頃
朝倉家と六角家の同盟関係は続いたけど、その後も戦場では連携しなかった
浅井家がいたせいで、朝倉家と六角家の勢力圏は離れていたから
その浅井家は後に六角家に従属はしたが、信長包囲網が始まるまで戦場で六角家や朝倉家に協力したことは一度もない
逆に浅井家の勢力圏が邪魔して、朝倉家と六角家は三好長慶との戦いでは同じ戦場に立つことができなかった
番長が小谷城を占拠した時に浅井亮政、久政を捕らえて殺していれば歴史は変わったかもしれない -
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ななしのよっしん
2018/02/17(土) 14:59:14 ID: Z+Lzw8kVKf
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ななしのよっしん
2018/05/09(水) 21:41:53 ID: frnGqyBuMz
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・九頭竜川の戦いでおよそ30万(恐らく誇張有り)の一向一揆軍をわずか1万弱で撃破
・勢いに乗る浅井亮政に対し、北近江に城を築くことで彼を牽制(これがキッカケで朝倉・浅井の誼が生まれる)
・失脚した細川高国の支援するために京へ進出し、畠山・三好連合軍を撃破。王手寸前まで局面を進める(しかし高国とは不仲になり帰国。これが原因で主力を失い、高国は後の戦いで不利になり大物崩れの間接的な原因となる)
・長尾景虎(後の上杉謙信)に呼応して、加賀の一向一揆を鎮めるべく侵攻し、3城をたった一日で落とす(しかし一揆軍が後日反撃してきたので勝負ならず)
・上杉謙信は朝倉家と同盟を結んでいたが、宗滴が死んだことにより彼は川中島の戦いで武田信玄と和睦を結ぶこととなった
・宗滴の死後、朝倉家は一揆軍との戦いで戦果を挙げれなくなり、結局幕府の仲介で和睦する羽目に
戦果も華々しいけど、敵味方問わずここまで影響を与えたのは十分すごいことだと思う。ある意味戦国大名朝倉家は彼によって栄え、そして彼の死によって終焉を迎えたのだと感慨深く感じた -
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ななしのよっしん
2018/05/13(日) 19:26:33 ID: Fe2Oa50Hh9
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ななしのよっしん
2018/07/17(火) 21:51:31 ID: ECSbvUNAJ2
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ななしのよっしん
2018/10/20(土) 13:35:38 ID: tl2EZZW7C7
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ななしのよっしん
2019/01/20(日) 20:59:21 ID: NT0Pzny6/l
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ななしのよっしん
2019/03/17(日) 10:08:24 ID: iBRP/wKg/O
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ななしよっしん
2019/10/16(水) 23:17:29 ID: brPSg27PtF
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ななしのよっしん
2019/11/26(火) 10:53:00 ID: JpCkmoeVUc
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>>49
この時期1554まで畿内では将軍細川六角VS三好の代理戦争だからね
管領を切り捨てないと和睦できない状態だけど、将軍を抱えてる上に都から追放されても管領の権威がでかいから、これが混乱した一面があったと思う
だから六角が管領代になれたんだが
おまけに三好長慶側は細川に長慶の父親が見捨てら切り捨てられて自害した
もはや親の敵なわけで収拾がつかなかった
中央ではドロドロした内紛でそれを浅井が利用して朝倉を背景に後背地を安定してるので六角をガリガリ削っていったわけでめちゃくちゃですよ
久政の息子の長政を見捨ててるし=政元がすでに生まれてるし
一歩間違えれば(長政が殺されてれば)お市の方は浅井に行かなかったかも -
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ななしのよっしん
2020/03/10(火) 19:07:41 ID: 6BQXjeASWt
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ななしのよっしん
2021/04/29(木) 18:29:19 ID: VLaoZI0U+J
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