31 ななしのよっしん
2020/02/18(火) 21:42:49 ID: 22umyL3TQk
うむ、先入観に振り回されるのは史学的には良くないぞ。さて、2022年までの大河には落選であった
だが長らく戦国幕末中世近代以降で江戸時代の大河化はなく、機は熟しつつある
史学界の研究も急進展し牧之原市も熱心に誘致運動を行っている訳で
渋沢翁も義時殿応援しつつも、はこっそり田沼大河こそ経済史のだと応援し続けるぜ
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32 ななしのよっしん
2020/03/20(金) 00:03:28 ID: cxCEBRk7hZ
田沼意次人生を考えると浅間山噴火コロナウイルスが凄くダブって見える
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33 ななしのよっしん
2020/03/20(金) 00:32:24 ID: DJpLcwZqLJ
藤田まこと版のドラマ客商売の田沼はかっこよかったな
幹二朗が演者ってのもあったがあの格なら大河も問題ない
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34 ななしのよっしん
2020/06/08(月) 14:02:09 ID: 4tZiWKWsl7
>>30
ちょっと感覚はわかる
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35 ななしのよっしん
2020/07/06(月) 13:51:54 ID: 3ydb/bCHgr
>>32
自分もよそで天明の打ちこわしの記事をたまたま読んでるうちにここに来てしまった。
どこか田沼意次の絶頂と転落が今の首相内閣ダブる。

結局、お金、取引、商売を突き詰めると、貨幣の登場は利便性が上がった代わりに、抽性も上がった。
つまり物々交換の商取引より、気持ちや心、感情を一緒にのせ辛くなった、感じられにくくなった。
そこが貨幣取引や貨幣重視、数字重視経済が、どれだけ普及してお世話になっても軽蔑される原因じゃないかと思う。
取引の数字の上下や数学数式にも、人の感情や情緒、心が宿っている。それがわかる。という人はそれほど多くないと思う。

この品物は二千円で「よい」とした、よいと自分で納得した、了承した、心の表れとして、二千円の表示になった。
というような、数の生まれる以前にまず心がある、ということを知らないのが失敗の原因ではないのかな。
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36 ななしのよっしん
2020/09/30(水) 03:04:33 ID: iokYWckh+5
少なくとも、本人自体はには清廉だったとは言われてるな。心付けなんかは当時の社会常識だし、今でいうなら紹介料や(多忙な中で時間をつくって会ってもらった)手間賃のような感覚だし。
まあ、相良田沼は意次一代で急拡大しすぎたから人材や使用人の教育が間に合ってなかったというのはあるかもだが。
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37 ななしのよっしん
2020/09/30(水) 11:37:31 ID: OMjHeG6acw
田沼が清廉だったとかはネットデマ

そのソース歴史学者の大石だが、田沼の悪評は作られたもので、田沼贈収賄記録はないなどとしているが、同時に大石はだからと言って意次が清廉潔政治家だったとは断定できないし、当時の政治の常としての賄賂や、特に現代で言うお歳暮程度の贈収賄はよくあったとも述べている。

要するに、田沼の悪評は誇とは言っているが賄賂を受けたらなかったとまでは言っていない。ネットはそこを拡大解釈している。

なお、心付けやお歳暮などは定信の時代でも賄賂扱いはされない。寛政4年の触書では”近年、年中恒例の進物の数を減らしたり、質を落としたり、なかには贈らない者もいる”と非難している。さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている。

田沼賄賂と非難されたのはそういうのでない賄賂
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38 ななしのよっしん
2020/09/30(水) 11:40:47 ID: OMjHeG6acw
なお、大石の後に他の歴史学者が出した本は、普通田沼賄賂を貰った記録とされるものが書かれているので、田沼贈収賄記録はないという話はあくまで大石個人の説で、田沼に対する共通認識というわけではない。そうしている学者もいるという程度の話。
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39 ななしのよっしん
2020/09/30(水) 11:53:19 ID: OMjHeG6acw
そもそも、ここも他のネット田沼は過大評価されすぎて、歴史学者のでもない事実根の暴走した説明がネットに溢れすぎ……

といっても、ガチ歴史本とか読む気もないだろうから、とりあえず較的信頼できる内容の読みやすい、やる夫スレでも紹介しとくわ


田沼時代の政策-①  https://yaruok.blog.fc2.com/blog-entry-10027.htmlexit

田沼時代の政策-②  https://yaruok.blog.fc2.com/blog-entry-10090.htmlexit

田沼時代の政策-③  https://yaruok.blog.fc2.com/blog-entry-10098.htmlexit
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40 ななしのよっしん
2021/06/19(土) 03:30:47 ID: YOTpfIbLa5
>>39
やる夫スレ作者の思考によって偏りやすいんですけど…
そもそもが書いたか分からない物持ち出して較的信用できるとは…?
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41 ななしのよっしん
2021/06/19(土) 05:10:30 ID: OMjHeG6acw
>>40
上のスレに書かれた内容は江戸史の第一人者である東京大学名誉教授藤田覚氏の著書をソースとして書いているもの。ネットでよく転がっているデマ真実としてっているものとはぜんぜん違う。

田沼・定信関係の著書は何冊か読んできたが、田沼意次についてりたいなら、氏の著書である「田沼意次:御不審をること、身に覚えなし」ぐらいは最低限読んでおいた方がいいよ
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42 ななしのよっしん
2021/06/22(火) 05:49:34 ID: zVSlojMB0s
昔はネット有能という評をまるっと信じていたが、調べてみると無能とは言い切れないけど案外小粒な政治家という印

ヒストリエなどでは昔、田沼仲間や俵物の輸入制度を定めて大けしたみたいに言っていたけど、実際は仲間の制度化は吉宗時代、俵物は新井白石が制度化したらしく、蘭学の活性化も吉宗自由化したから発展しただけで田沼は特に何かしたと言うわけでもないみたい。
そもそも仲間の税収も少額で、長崎貿易の額も吉宗時代の三分の一以下らしく、ネットテレビの言ってることはいい加減だなと思った

まあ、最近まで革命信長をいつまでも史実のように放送してたテレビに期待するなと言う話ではあるが
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43 ななしのよっしん
2021/06/22(火) 06:04:47 ID: 22umyL3TQk
まあ、何でもかんでも一人の英雄が全てを作ったというのはがあるからな

ただ、近代国家日本という成果が存在する以上、かがそれを作ったのは確かだ
大久保利通たちが明治維新後に何もかも作った、というのはやっぱり理がある
江戸時代以前に其の原を作った人はいると思うよ
徳川吉宗がそうかというと、デフレ対策に倹約を進めてますますデフレを進行させるなど疑問

では田沼意次なのかというと、まだ経済史の評価も揺れているみたいだけどね
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44 ななしのよっしん
2021/06/22(火) 10:17:37 ID: OMjHeG6acw
そもそも田沼の再評価路線って戦前歴史学者の善之助が、”座・専売制度などの商業を利用した功利政策や、新田開発・鉱山開発の推奨などは元は享保期に行われた政策であり、同じ政策をとった吉宗が称賛され田沼が酷評されるのは理屈に合わない”と批判したのが始まり。
つまり田沼吉宗の政策は同方向性であり、田沼の政策は吉宗の政策の発展というのが今の史学の共通見解なんだよね。

なのに、昨今の巷では田沼吉宗逆の革新政治家とか言う論調がネットでは流とか極端から極端に結論が言ってるというか……。なんというか世間は1か0かとしか言わないよね。田沼吉宗を愚物か天才のどちらかとしか認識しないというか。
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45 ななしのよっしん
2021/06/22(火) 10:36:35 ID: OMjHeG6acw
なお、吉宗田沼の政策が同方向性なのと同様に、田沼の政策を否定したといわれる松平定信経済政策も昨今では田沼の政策と連続性があると今では言われている。

実際に巷の評判とは違い、寛政の革において講じた経済政策は、仲間、南二朱判、貸付など、実は田沼政権のそれを継承、発展させたものが多く、経済音痴というのは不当。(紙幣政策などにいたっては紙幣を否定した田沼よりも近代的な紙幣政策をしたりもしている)

ようするに吉宗田沼→定信は別個の政策ではなく継承・連続した江戸時代近代化していく一つの進歩の流れなんだ。

吉宗の時代に海外知識の流入や商業の発達、身分制度の綻びや町人文化の兆しが産まれ、田沼時代にそれが芽吹き、経済の発達とそれから生した諸問題が噴出し、定信の時代に田沼時代の諸問題の対策への良かれ悪かれはあったものの法制度の整備が進み、民政という考えが生じ、寡婦対策や児童手当といった近代的な社会概念が生まれた。

江戸のどの時代も歩みが遅いときもあったが基本的に近代へと進歩していっている。
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46 ななしのよっしん
2021/06/22(火) 16:32:25 ID: 22umyL3TQk
藤田覚の『田沼時代』を読んだけど、意次が吉宗コピーみたいなはしてないね
むしろ全体的に抑圧的な江戸社会で、初めて自由化が進んだ革新的な時代が田沼時代だ、としている
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47 ななしのよっしん
2021/06/22(火) 16:45:15 ID: 22umyL3TQk
通説的な田沼意次の政策の特徴は、こんな感じじゃね

吉宗以前の政権はの収穫と売却を武士生活基盤にしようとしていた。だから吉宗は不安定化する相場に悩まされコメ将軍と呼ばれた
田沼意次は商品作物の生産と流通が経済の中心になりつつあることを見抜き、これを財政の中心に取り入れたのが特徴である
意次の政策は充分に効果を発揮する前に失脚して終わった。しかし政敵の松平定信らは概ね意次の政策を引き継ぎ、経済近代化が始まっていく
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48 ななしのよっしん
2021/06/23(水) 02:25:58 ID: zVSlojMB0s
それにしても田沼をもっともを溜め込んでいたといわれる明和年間だけど、調べてみると明和年間はともに毎年赤字だったらしい。……どういうカラクリでこうなったのか分かる人いる?
吉宗時代より年貢率が高かった宝に溜め込んだの貯蔵が明和で赤字に折り返すから明和元年が一番を持ってたってこと?
だとするなら田沼の重商義の結果、蔵を一杯にしたとい話は間違いとなってしまうが
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49 ななしのよっしん
2021/06/27(日) 13:05:11 ID: OMjHeG6acw
>>48
藤田覚の「勘定奉行の江戸時代」の中で「"単年度の収支"ではなく、幕府の財政という面からみると、明和年間は備蓄の豊かな時期だった」と書いてあるから明和年間の年末収支は赤字だったけれども蔵には大して手を付けなかったじゃないかね。

なお、享保の末期1736~45の均年貢率が34.38。その後、次代の重に変わった後の10年間の均年貢率は37.64、そのまた十年後の年貢率も大差ない。なので一般のイメージと違い限界まで年貢率をあげたのは吉宗時代ではなく宝期の田沼時代だったりする。まあ、そこで限界が見えてきたので商業税にもを入れ始めるわけだけど。

なお、よくある誤解だが農の代わりに商人から税を取ろうとしたのではなく”農も含めたあらゆる層”から税を取ろうとした。年貢率はこれ以上あげないけど、農民がやる売りとかの才な稼ぎでもけが発生しているなら徴収した。
田沼の商業税の性質は年貢のように狭く深くではなく広く浅い税の導入。
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50 ななしのよっしん
2021/07/19(月) 03:07:12 ID: zVSlojMB0s
つまり、田沼が重商義でけて幕府の蔵にを溜め込んだというのはデマで、実際は田沼が政権を取った時、小氷河期だったのでピークに達してい吉宗時代の貯蓄を切り崩しながら幕府を運営したということですかね

で、年貢はこれ以上取れないけど赤字で苦しかったので、なりふり構わず吉宗時代に制度化されていた仲間制度を拡大したと。まあ、田沼革新的な思考をしていたというよりなんかリアルですね
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51 ななしのよっしん
2022/01/06(木) 10:57:54 ID: osCmUsk3IC
世界的にもしい、農業税はほぼ全て物納。武士の録も原則現物支給。の出来高や相場に全てが左右され振り回される。
考えてみれば、江戸時代経済財政がいびつだったわけで。
財政に窮すればすぐに年貢を上げろとなって、しわ寄せは全部農民に。
それをめようとした発想は、評価されていいと思うのだが。もう百姓から取るのは理。なら、商人に負担を願おう。もちろんただとは言わない、見返りはある。合理的。
幕末の雄革にしたって、ほとんど重商義だし。
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52 ななしのよっしん
2022/01/09(日) 06:51:06 ID: OMjHeG6acw
いや江戸時代も物納一辺倒ってわけじゃないぞ。地域によっては納をしていたところもあれば、多くのところでは物納と納の両方で税を納めさせていた。

また田沼の商業税強化は江戸時代としてはエポック的だと評価されるところだが、世間が認識してるほどには合理的でも先進的でもない。近代的な税金ではない。

仲間は独占による特権のけへの"礼"であって所得税とは程遠く額も定額少額だった。

商人への特権付与での収入増加策も実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊の方が立つようになって撤回に追い込まれるケースも多発していた。
そして幕府に運上の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。

結局のところ田沼時代の増えた商業税って商業全体にかかった税金ではなく商人田沼からもらった特権からのけの"一部"を渡すという形なので、商業の発展からの税収増加ではなく新たな庶民からの搾取からのだった。

田沼から独占も特権ももらってない商人田沼以前と変わってない。
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53 ななしのよっしん
2022/01/09(日) 07:18:36 ID: /m9m0waECp
田沼意次には詳しくないんですが、私が江戸時代の税制をネットで調べてみると、
基本的に商人からは税金を取っていなかったという話があるんですよね

江戸時代税金ってのは農民からのお米の徴収、本途物成が基本であり、
時代が下るにつれて商人からの銭の徴収も行われたようですが、
それは臨時税としてであり、常設の税ではなかったとかなんとか
なぜそんな税制だったんでしょうかね?

貫高制から石高制への移行を進めたのは織田信長のようですが、
同時に彼は強権的な商人を潰し、自らの法(政治)に従う商人を残したとされます
当時(戦国末期江戸初期)の商とは行政法人みたいな地位だったりしたんでしょうかね?
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54 ななしのよっしん
2022/01/09(日) 07:27:43 ID: D6kK2aptGJ
検地が教科書にのるレベル革なんだから、
商人の売上や利益を把握する仕組みなんてないわ

よし、思いついた
なろう系江戸期の窓際太郎を書いて一発あてよう
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55 ななしのよっしん
2022/01/09(日) 07:30:12 ID: /m9m0waECp
私が中世とか江戸時代とかの「商」が「行政法人」にあたるのではないかと考えた理由としては、
そもそもにおける商の発達が平安時代の税(租庸調)の運搬に起因すると想像してます

租庸調などの徴税物を運搬に従事する人は元々は官への従事者であり、
それらの人は問丸などと呼ばれ、のちに商人へと変貌していったかと思います
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56 ななしのよっしん
2022/01/09(日) 07:49:05 ID: /m9m0waECp
レスすみません

>太検地が教科書にのるレベル革なんだから、
>商人の売上や利益を把握する仕組みなんてないわ

実際どうなんでしょうかね?詳しい人がいたら聞いてみたい所ですね

>>55追記として、中世などの商が行政法人的という説自体が私の想像によるところが大きいのですが、
江戸中期以降の商は行政法人的ではなかったと思います
ただし、「商」に変化があったとして、大半の官は前例を踏襲するしか出来なかったのではないでしょうか?

石高制という税制をめたのは明治維新によるものみたいですし、歴史的に、
税制を抜本的に変えるには、政体自体が根底から変わるくらいの思い切りが必要なようです
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57 ななしのよっしん
2022/01/09(日) 07:59:25 ID: OMjHeG6acw
>>53
江戸時代商人に現代的な税はとられなかったけど、当時の商人り取られなかったというわけでもなく、大規模なものだと御用とかがあったりする。
御用とは幕府や諸は財政上の不足を補うために町人や農らに対して「永遠に借りておくぞ!」をすることで、困難感じで何年も税でやってきたと思ったら一気に何万両も取られたりする(幕末は連発した上に借も踏み倒されたので倒産が多発した)


で、なんでこんなに一遍にを取り上げるのかというと市場金銀の流れを止めないようにするためではないかという説がある。

江戸時代は、現代の銀行のように貯を別のかに融資することで市場に還流される仕組みがく、商人が蔵の中にを貯め込むとその分、流通する貨幣が減り、市場全体が冷え込む。

寛政の革の棄捐保の利子年賦返済などの借棒引き政策があったりするが、保の時の勘定奉行の発言に「延享3年から寛政9年までは52ヵ年、寛政9年から今年までは47ヵ年になります。およそ50年に一度、借を破棄する措置を実施しないと、かえって世上の金銀が流通しない原因となってしまうと存じます」などという記録が残っていたりする。

御用、借の棒引き、貨幣鋳などと幕府は商人から一遍にを取り上げたりするがこれは、退蔵された貨幣を期限切れの旧貨幣したり大量の公共事業のためにを吐き出させたり、借を棒引きするなどとすることで市場金銀放出させるための手段であり、富裕層や商業資本に対する貯蓄課税である………………………………などという説を出している研究者もいる。


まあ、ようするにそこに溜まった泥はゆっくり定期的にではなく一気に強くかき回さないと流れないってことかもね。
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58 ななしのよっしん
2022/01/10(月) 06:21:13 ID: 22umyL3TQk
歴史界ではありがちなんだけど、
世間では外道のように言われているが実は田沼は凄い偉人だった
世間では偉人のように言われているが実は田沼は酷い外道だった
を言い合っているだけだと歴史学ではなくマウント遊びになってしまう件
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59 ななしのよっしん
2022/01/10(月) 06:28:51 ID: YYE9flKKtW
そうは言っても歴史学逆張りしたもの勝ちなところあるし
北条氏政王莽の再評価(笑)とか
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60 ななしのよっしん
2022/01/10(月) 06:58:08 ID: OMjHeG6acw
実際のところ史学における田沼って稀代の大悪人でもなければ稀代の大政治家でもないんですよね。なんだかんだ良くも悪くも手なことしたように言われがちだが、成功例だけ見ればやってることは堅実というか。
(逆に言うと失敗例はとっぴな策ばかりなので妥当な結果というか)

長崎貿易も仲間も世間でいう程、新でも大成果もあげていないけど少なくとも長崎貿易は赤字からわずかだが黒字になってるし仲間吉宗に続く今後の商業税収の発展という立場であるならば広く浅く増やすのも必要なメスですし。

ただ、この人の評価が大きく分かれ勝ちなのは、よくある江戸時代政治家というには山師の分気質な強すぎなのが原因じゃなかろうか。考えなしに、だが前例に囚われず政策を乱発した結果、大失敗も多くしているけど、まかり間違ったら時代に合わない成功を出した可性もあったんじゃないかという妙な期待も感じ得ざる得ないガチャみたな性質が評価を分けてるというかw
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