211 ななしのよっしん
2019/02/11(月) 08:59:58 ID: Q/kaWjWv4J
数かに一回のペースで数万導人動員して敵対者を各個撃破していくこの頃の秀吉マジチート
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212 ななしのよっしん
2019/10/04(金) 18:36:41 ID: LBE77/pqig
この時期はは石川数正が出奔したり
家康が一時的に重病を患ったリ
真田昌幸に手痛いしっぺ返しを
喰らったりとかなり徳
追い込まれてた時期があったけど
天正大地震近くの豊臣の拠点が
どえらい被害に遭ったのに対し
側は較手k時少ない被害
助かったのが秀吉が徳征伐を
断念した理由ともいわれてるね
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213 ななしのよっしん
2020/11/28(土) 12:33:44 ID: amTY+sEntk
上手く和して下人になれたのは大きいけど
後の結果だけ見ると武で圧倒して徳を始めとする大大名の
ここでそぎ切れなかったのは痛かったようにも思える
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214 ななしのよっしん
2021/10/30(土) 14:54:32 ID: TTfFRgZfaX
三好長慶の頃から五畿では呼び捨てが逆に敬意を示す表現になっていき、秀吉政権で全に広まりかけた
が後に下取った家康は採用しなかったので定着しなかった
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215 ななしのよっしん
2022/01/16(日) 02:30:10 ID: aUphiCMvnp
センゴクでも少しだけ触れられていたが、織田信雄羽柴秀吉の対立の遠因に
1583年に生まれた信雄の嫡男である織田秀雄の存在はもっととりあげてもいいかも。

督は常に息子に譲りたがるのが人の性。それは秀吉も同じ。
生まれたばかりの息子秀雄に、当代行になった織田信雄督譲渡したいと
考えるのも至って自然だろう。そのときに本来清会議で決められた
織田督継承者である三法師こと織田秀信との対立が生まれる。

この一連の戦いの講和において、一説に秀吉織田督を織田信雄に認める条件を提示をしたという。
秀吉と信雄の対立に、秀信をあくまでも当におきたかった秀吉と、
織田督を息子である秀雄に継がせて行きたかった信雄の対立があったのではなかろうか
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216 ななしのよっしん
2022/01/16(日) 02:38:15 ID: aUphiCMvnp
ちなみに織田秀雄の幼名は「三法師」。
センゴクでは「三法師君は既におわしましてよ」と言われ、
秀吉から替え玉を疑われていた(ほぼ因縁に近い描写ではあったが)。

しかし同じ名前子供が既にいるのに、三法師と名付けるのはかなり挑戦的ではある。
織田信長の「吉法師」「三郎」から取った、織田正嫡を意味する
名前になっていたのであれば、事実上、「三法師こと織田秀信」に代わり
三法師こと織田秀雄」を織田に据えたいと考えるのは、
父親であればそう考えてもおかしくないかと思う。後年、羽柴秀次も同じことを秀吉にやった。
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218 ななしのよっしん
2023/06/02(金) 04:27:49 ID: yfaT7nCgMS
秀吉の野心などという、あやふやかつデウス・エクス・マキナな理由よりも
後見人となった織田信雄が甥っ子より自分の息子に継がせたかったっていう
応仁の乱再来の動機の方がしっくり来るんだよな。

最初筋を通そうとした秀吉が後から秀次事件で信雄と同じことやるまでがセット
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219 ななしのよっしん
2024/02/10(土) 00:24:42 ID: RUThRPThCf
織田自体は信雄筋ってのが秀吉時代からで秀信は実は宗から外れてたみたいで…
「清州会議」の結果三法師織田督として立てられ信孝の後見を受けるが信孝が三法師を擁して秀吉と対立
秀吉丹羽長秀池田恒興らとともに三法師織田督を剥奪、信雄を新たな督に立て岐阜を攻撃
三法師は羽を名乗らせ(羽柴秀勝の跡継がせる形に)織田相続権すら消滅
後に淀殿周りは秀頼も宗を外されて、例えば木下に行かされるってのを恐れてたとかかな(小早川秀秋存命時は挿げ替えられる恐れもなくはなかった…?)
信雄は単純に秀吉>信雄という構造が気に入らなかった、政治的優位性を奪還したかったって感じがしっくりきそう(戦になったのはそれこそ取次への危が発端ってのは大坂の陣と一緒だし)
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220 ななしのよっしん
2024/04/09(火) 21:58:00 ID: 9xyNhjHfWM
織田秀信が宗から外れるきっかけになったのはまさに小牧長久手の戦いが原因だと思うよ。

この戦いの後の織田信雄は権大納言→内大臣に昇進していて、とくに内大臣は
まさに秀吉の跡を継ぐ形で就任している。織田一門で当時信雄に肩する官位を
持っている人物がいないし、小牧の和の内容からしても
「信雄側にも当然メリットがある」条件があるのが普通
それが「信雄に対する織田の確約」だったんじゃないかな。

これを後々秀吉が御しやすい織田秀信にまた挿げ替えるところがあれだけど。
(今度は織田秀信豊臣政権序列3位になり、織田で並ぶものがなくなる)
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