諸葛亮
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181
ななしのよっしん
2012/10/24(水) 22:00:44 ID: VBMxogSYxF
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182
ななしのよっしん
2012/10/31(水) 13:25:59 ID: AqAxEjhc0j
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183
ななしのよっしん
2012/11/04(日) 08:31:59 ID: qjItlr4kpK
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184
ななしのよっしん
2012/11/05(月) 14:44:33 ID: QYE2MfPs0a
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185
ななしのよっしん
2012/11/05(月) 21:14:41 ID: VBMxogSYxF
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186
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 12:30:41 ID: erLIZu9HP5
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諸葛亮が清廉な曹操って…清廉さに大した違い無いよ。
ちなみに政治手腕は諸葛亮の方が曹操より上だと思うんだよな。
政略の発想や起案自体は曹操の方が上、というか諸葛亮の政策の大半が曹操の政策摸倣だったわけだが、摸倣出来るということは理解していたということで、あの時代に曹操の政略に外部からついていけただけで天才。
軍事に関しては諸葛亮が国のトップとは言っても、それってただ人材がいなかっただけで能力が高かったわけじゃないし、後漢最高の軍略家だった曹操とはまた事情が違う。
蜀漢は人材いなかったせいで政治家の諸葛亮が軍事にまで出張ってたけど、あの時点で方面軍を任せられる人材がいて、諸葛亮が内政による国力回復に専念出来たなら、蜀漢はもっと持ちこたえられたはず。
龐統失って名士勢力取り込めなかったのと劉備の裏切り放蕩生活が人材不足の最大要因だろうなぁ。 -
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187
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 12:45:11 ID: erLIZu9HP5
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188
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 19:10:21 ID: x/P+f9Sksp
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189
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 21:50:34 ID: 2yOmGIO02C
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190
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 23:35:45 ID: x/P+f9Sksp
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191
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 23:41:39 ID: 1JAWvgDpPl
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192
ななしのよっしん
2012/11/09(金) 23:49:52 ID: erLIZu9HP5
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193
ななしのよっしん
2012/11/10(土) 00:04:19 ID: 2yOmGIO02C
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194
ななしのよっしん
2012/11/10(土) 00:25:15 ID: 1JAWvgDpPl
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195
ななしのよっしん
2012/11/10(土) 00:39:05 ID: erLIZu9HP5
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196
ななしのよっしん
2012/11/10(土) 00:56:26 ID: x/P+f9Sksp
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197
ななしのよっしん
2012/11/10(土) 01:05:25 ID: erLIZu9HP5
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たしかにそうですね
そもそも諸葛亮のこと関係なくなってるし -
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198
ななしのよっしん
2012/11/10(土) 19:42:36 ID: 3Xq4yLtT59
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199
ななしのよっしん
2012/11/13(火) 01:44:04 ID: VBMxogSYxF
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つまり>>189と>>193の人は、議論する気ナシで短文を書き込んでるのか。
ま、諸葛亮の話から逸れてしまうから、この件は置いといて・・・。
>>186
そうでしょうか?
曹操は清濁併せ呑む(己が濁流だから?)けど諸葛亮にはそれがないし、
それに関連して諸葛亮は信賞必罰を徹底しようと努力していたが、
(泣いて馬謖を斬るや法正との関係は別の議論として)
曹操は割とアバウトな処断をする事が少なくなかった気がします。
これはどちらが良い悪いとかではなく、双方が似ているとしながらも違いを語る
上で、自分は諸葛亮を「清廉な曹操」と表現したんですが。
ただ、諸葛亮の曹操政策模倣や軍略の話は自分も同意します。
あと、自分が言った補佐役の話は、龐統・法正が生きていればって事です。
まあ彼ら生きてても蜀の天下はないだろうけど(この点は>>188と同意見)、
諸葛亮が文字通り必死になる事はなかっただろう、と。 -
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200
ななしのよっしん
2012/11/13(火) 05:23:30 ID: 3Xq4yLtT59
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>>199
曹操って結構キレてやっちまったぜって話多いよね、やっぱあの人怖いよ
龐統、法正が生きていたら大人しく孔明の補佐に徹してくれたかどうかは疑問だけどね
特に法正の性格と、劉備からの信任ぷり考えると最悪蜀が割れかねないんじゃないかなーと
まぁ仮定の妄想は置いといて、諸葛亮は清廉潔白な人格者というのは当然で
それ以上に、凄絶な生き方や姿勢で、周囲の人間を引き付ける類の人間だったんじゃないかと
更にその事を蜀の戦意高揚のために盛んに宣伝されてたんじゃないかと邪推してしまう
事実上の皇帝代理人の独裁者なのに、皇帝から民草まで
存命中もその死後も最大級の敬意を払われてる人間って、ちょっと現実離れしてて怖くなるレベル
単に公正で正論を言うだけの人間ではそうはならない -
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201
ななしのよっしん
2012/11/13(火) 08:01:28 ID: erLIZu9HP5
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202
ななしのよっしん
2012/11/13(火) 10:04:29 ID: x/P+f9Sksp
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203
ななしのよっしん
2012/11/14(水) 22:33:45 ID: VBMxogSYxF
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「清廉」とか「人格者」と書くと、
なんとなく優しい人っぽいイメージがあるが、
孔明は自分にも他人にも厳しい人。
特に自分に対しては、常に限界越えを求めていた節があります。
(それゆえ専門外の軍事でも、結局は一流と呼べる成果を出した)
下に対して己が苛烈な手本となる、みたいな?
だからやっぱり怖い人です、曹操とはまた違った意味で。
あとアレですね、陳寿は決して諸葛亮を「戦下手」とは言っていませんよね。
曰く
「臨機応変な軍略は得意ではなかったのか」
と。
考えてみれば当たり前で、彼は劉備死後の独裁体制を確立するまでは
己自身の判断で軍を操った経験がほとんど(確か3回未満)なく、
劉備に仕える前は在野の書生。
前線指揮官としては絶対的に経験不足なんです。
まあ、曹操だって軍歴は三十路デビューですけど。
そんな中で必死コイて脳味噌フル回転の限界越えで、いわゆる理詰め、
机上の空論とは違うあらゆるパターンを想定した理詰めの戦術を実地で試して
戦果を出したのではないか、と。 -
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204
ななしのよっしん
2012/11/19(月) 19:13:21 ID: 3Xq4yLtT59
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魏延の記事にもチョロッと書いてた事なんだけど
第一次北伐で、諸葛亮がアッサリ総撤退した理由が解らないんだ
街亭で馬謖が(それと列柳城の高翔が)大敗したと言っても
蜀軍本体は無傷であり、目標の隴西一帯の攻略は既に殆ど王手を掛けていた
だから張郃の郭淮の援軍と、正面からぶつかり作戦続行する選択があったにも関わらず、孔明は諦めている
この辺が解せない
そこまで損害が出たのがショックだったのか、損害が出たら作戦は完遂できないと判断したのか
でもこの北伐は最初という事もあり、魏側の防備が物心共に不十分で最も勝機があった
実際隴西の三郡(天水・南安・安定)は戦わず降伏し、魏軍の対応も後手に回ってる
逆にここで強引にでも突破しないと次は対策をうたれ、もっと厳しくなる
そういう事は孔明も解ってたはずだと思うんだが、なんで引いてしまったのか -
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205
ななしのよっしん
2012/11/20(火) 14:08:08 ID: FYsEFdkH/0
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206
ななしのよっしん
2012/11/20(火) 19:05:14 ID: QYE2MfPs0a
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207
ななしのよっしん
2012/11/20(火) 23:37:08 ID: eyB/t8PRG1
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208
ななしのよっしん
2012/11/21(水) 10:12:10 ID: QYE2MfPs0a
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209
ななしのよっしん
2012/11/22(木) 11:46:00 ID: 3Xq4yLtT59
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>>207
あーそうか、徐邈が南下するのは失念してたな。呼応した涼州の異民族の反乱鎮圧したのも徐邈だし
でも曹真が安定郡に至るのは、箕谷で交戦してた趙雲・鄧芝が退却してからだから、
それを蜀の撤退理由にするのは出来ないと思うけど
となると徐邈がどの程度の戦力を有してたかだけど、蜀軍が撤退する前に徐邈が安定郡を落とした(ごめんなさい、正史が手元になくて徐邈の働きの詳細は解らない)として
張郃・郭淮の軍と合わせてそれと対峙しつつ、隴西攻略を続けるリスクを避けたという事なのか
うーん、やっぱり慎重に過ぎる選択のように思えて、必ずしも賢明だったとは思えないんだよなぁ
結局どこかで博打を打たないと大戦果は得られないんだし
撤退時に付近の住民千余家を拉致したといっても、ここまで上手く行った戦果としてしては余りに寂しい…
勿論結果を知ってるからこんな事言えるんだけど、やっぱ陳寿の評価と、魏延が不満を持ったって話も理由あっての事だと思う -
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210
ななしのよっしん
2012/11/22(木) 12:02:33 ID: FYsEFdkH/0
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