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みんなの党とは、かつて存在した日本の政党である。略称はみんな。
みんなの党 | |
みんなのとう - Your Party | |
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基本情報 | |
公用語名称 | みんなの党 |
国・地域 | 日本 |
本部所在地 | 東京都千代田区 |
成立年月日 | 2009年8月8日 |
解散年月日 | 2014年11月28日 |
機関紙 | 月刊みんなの党 |
国際組織 | -- |
シンボル | -- |
公式サイト | your-party.jp[外部] |
政党・政治団体テンプレートボックス |
2009年8月、渡辺喜美・江田憲司の2人を中心として結成された。徹底した新自由主義的経済政策と行財政改革を正面から掲げる経済右派政党であり、二大政党である自民党・民主党の双方から距離を置く「第三極」の先駆けでもあった。
歴史認識などのイデオロギー論争には積極的に関与せず、もっぱら行革や経済政策を訴えるスタンスにより民主党政権に失望した無党派層・中間層に訴求。後に日本維新の会が台頭すると一時期主導権を奪われたが、同党が右派イデオロギー路線への傾倒や橋下徹共同代表の失言などで無党派層・中間層の支持を失うと再浮上し、特に東日本では同党を上回る支持を得ることに成功した。
選挙の度に勢力を拡大し、2013年の参院選後には国会議員36人・地方議員約300人・党員約1万人を抱える中堅政党にまで成長を遂げた。ところがこの頃から第三極路線を放棄して親自民路線に転換しようとする渡辺代表と、第三極路線を維持して野党再編に繋げたい江田幹事長の対立が生じ、党内は混乱。
同年末に江田派が集団離党して結いの党を結成すると、直後の2014年3月に渡辺に巨額の不正借入疑惑が浮上。渡辺は代表辞任に追い込まれ、各種調査での党の支持率は結成以来最低の水準にまで落ち込んだ。
後任の代表となった浅尾慶一郎は第三極・野党再編路線への回帰による党の立て直しを図ったが、親自民路線の維持を求める渡辺派の反発も根強く、離党者が相次ぐなど党内は分裂状態に。同年11月に衆議院の解散が決まっても党内抗争は収まらず、結局同月19日の両院議員総会で多数決により党の解散が決定された。
最後まで党に残っていたメンバーのうち、衆議院議員は無所属に転じた浅尾と民主党に移籍した中島克仁の2人のみ再選を果たし、渡辺を含む残りの6人は落選した。参議院議員は一部が次世代の党に移籍し、残りは無所属のまま会派「日本を元気にする会」「無所属クラブ」に分かれて活動している。また地方議員のうち渡辺派の一部は地域政党「闘う改革の会」を設立する動きを見せている。
▲麻生内閣(当時)を批判して自民党を離党した渡辺喜美衆議院議員が2009年2月、無所属の江田憲司衆議院議員と共に立ち上げた団体「国民運動体 日本の夜明け」がみんなの党の前身にあたる。
後に自民党から山内康一・広津素子両衆議院議員が、民主党から浅尾慶一郎参議院議員(当時)が参加し、国会議員5人で政党要件を満たせるようになったため、正式に政党発足の運びとなった。党名は渡辺が「絆」を主張したのに対し、江田がサザンオールスターズの曲名を元ネタに「みんなの党」を提案。多数決で江田の案が採用された。
結成からわずか3週間後に行われた2009年8月の総選挙において、みんなの党は公示前から1議席増の5議席を獲得した(浅尾が参院から鞍替えしているため国会議員数は増減なし)。なお比例東海・近畿両ブロックで本来貰えるはずの議席を有資格者不在(比例名簿の登載者は居たのだが、重複立候補した小選挙区で得票率10%を下回り復活当選資格を失ってしまっていた)で取り損ねており、本来なら7議席を得ていたはずだった。
この選挙では比例11ブロック中7ブロックにのみ候補者を立てて約301万票(得票率4.3%)を得ており、全11ブロックに候補者を立ててみんなの党を僅かに1000票上回るだけだった社民党を実質的に追い抜く形となった。
総選挙後の首班指名選挙では民意を尊重して民主党の鳩山由紀夫代表に票を投じるなど、当初は民主党政権に是々非々で対応する姿勢を見せていた。しかし政権が迷走を始めると、民主党、更には自民党とも一線を画するスタンスを明確にし、民主党政権を離れた無党派層の受け皿として期待を寄せられるようになった。
2009年12月に左派系無所属の川田龍平参議院議員を加えて参議院への再進出を果たすと、翌年7月の参院選では比例区で約794万票(得票率13.6%)を得るなど躍進し、公明党を上回る10議席を獲得して改選第3党となった。なお公明党が国政選挙で改選第3党の座を失ったのは1998年の参院選以来12年ぶりのことだった。
2011年3月に福島第一原子力発電所事故が起きると、党の主要政策に脱原発を取り入れた。直後の統一地方選では都道府県議選で41人、市区町村議選で184人を当選させ、関東の都市部を中心に勢力を拡大。大阪維新の会・減税日本などの新自由主義系地域政党と共に高い注目を集めた。この頃が党の最初のピークであった。
2011年11月の大阪W選で橋下徹・松井一郎両名を支援するなど、当初みんなの党と大阪維新の会は良好な関係を築いていた。しかし翌年9月に国政進出を図る大阪維新が日本維新の会を結成すると、みんなの党内ではより勢いのある日本維新の会に移りたがる議員や候補者(桜内文城・杉田水脈など)が続出。このうち比例選出議員の移籍についてはみんな側も議員辞職を求めて激しく反発し、両党の間に感情的なしこりが生じる結果となった。
更に日本維新の会が原発推進や国粋主義的イデオロギーを掲げる太陽の党(旧たちあがれ日本)を吸収すると、政策的な不一致の高まりから両党の連携・合流案は暗礁に乗り上げた。結局両党を中心とする第三極勢力は、不十分な連携体制のまま2012年12月の総選挙になだれ込んでいった。
選挙の結果、みんなの党は公示前から10議席増の18議席を獲得。ただ比例区での得票は約525万票(得票率8.7%)と2年前の参院選から5ポイント下落し、得票率20.4%で54議席を獲得した維新に大差を付けられた。維新も太陽の党吸収による政策の変化と無党派層・中間層の一部離脱により、100議席とも言われた選挙前の情勢予想を大きく下回ったものの、それでも第三極の盟主の座は一旦日本維新の会に明け渡すことになった。
日本維新の会は総選挙の比例区で旧太陽の党・日本創新党のメンバーを優遇したため、総選挙後はこれらの右派政党出身のベテラン・中堅議員が国会議員団を取り仕切るようになり、党の政策・綱領は大きく右傾化した。一方でみんなの党はあくまで経済政策・行財政改革・脱原発などを前面に押し出し、維新に対しては旧太陽派を切って路線を修正しない限り、これ以上の連携や合流は難しいとの態度を取った。
2013年5月に橋下が慰安婦制度に関する発言で批判を浴び、更に維新の西村眞悟衆議院議員が韓国人へのヘイトスピーチに及んで党を除名される騒動を起こすと、同月21日付でみんなの党は維新との協力関係解消を宣言。関係修復の条件として「先の大戦における大日本帝国側の侵略性を認めること」を挙げたが、これは維新内の橋下派はともかく、旧太陽派はおよそ飲めない条件であり、共闘関係を構築できないまま再び選挙戦へと突入した。
プレ参院選にあたる6月の都議選でみんなの党は6議席増の7議席を獲得。1議席減の2議席で惨敗した維新と明暗が分かれた。翌月の参院選では比例区で約476万票(得票率8.9%)と総選挙からほぼ横ばいの数字で、得票を半減させた維新をなお下回ったものの、都道府県選挙区で善戦を見せ維新と並ぶ8議席を獲得した。
比例区での得票を比較すると、近畿以西の西日本23府県では維新に全敗する一方、東日本の24都道県では12勝12敗と全くの互角で、得票数は約27万票上回った。特に関東7都県で6勝1敗と圧勝し、約47万票ものリードを得た。こうして地方選挙の状況も踏まえ、第三極内では「東(関東)のみんな、西(関西)の維新」という勢力分布が構築されつつあった。この頃が党の第二のピークであり、結果的に最後のピークとなった。
参院選で第三極内における存在感を高めたみんなの党だったが、同時に参議院の過半数を得た安倍内閣の長期政権化も確実になり、改めて第三極の今後の在り方が問われることになった。
こうした中、これまで通り第三極路線を維持し、民主党右派・維新橋下派と連携して自民党と対峙する経済右派の一大勢力を作ろうとする江田幹事長らと、第三極・野党連携路線に見切りを付けて自民党に接近し、部分的であれ政策の早期実現を目指そうとする渡辺代表らの路線対立が次第に表面化し始めた。
先に動いたのは渡辺だった。参院選当日に江田が維新橋下派の松野頼久幹事長と会談を持ったことを咎め、8月の両院議員総会で江田とその腹心の部下である柿沢未途政調会長代理を更迭。更にその2週間後には柿沢を離党に追い込んだ。抗争の動きは地方にも波及し、都議会では渡辺派と江田派が別会派を立てて争う事態となった。
そして同年末の特定秘密保護法を巡る審議で、渡辺らが法案成立に協力する姿勢を見せたことが決定的な引き金となり、江田派の国会議員14人(衆議院議員8人・参議院議員6人)が集団離党し、柿沢を加えて新党「結いの党」を結成。地方議員も江田の地盤である神奈川県を中心に約50人が結いの党に参加した。
結いの党に移籍したメンバーは政治思想的に中道・中道左派寄りの者が多かったため、分裂後のみんなの党は思想面でも右旋回し、2014年2月の党大会ではついに自党を保守政党と定義付けるに至った。安倍政権と歩調を合わせる場面も増え、安倍首相からはしきりに「責任政党」「建設的野党」と誉めそやされるようになった。
前身の国民運動体時代から5年間に渡って党を率い、親自民路線への転換にも主導的な役割を果たした渡辺代表であったが、2014年3月になって8億円にも上る巨額の不正借入疑惑が浮上。使途を問い詰められてなぜか「熊手」と回答する醜態も重なり、渡辺、更にはみんなの党のクリーンな改革派としてのイメージは地に落ちた。
渡辺の引責辞任に伴い代表に昇格した浅尾は当初親自民路線を維持しながら党の立て直しを図るとしていたが、党のイメージ悪化に加え、「自民政権に協力的な野党」という中途半端なポジションのために政権支持派からも不支持派からも積極的な支持を得られなくなり、各種情勢調査の支持率は軒並み0ポイント台にまで落ち込んだ。おまけに自民・公明両党の関係が良好なこともあり、肝心のみんなの党に対する政策的譲歩はほとんど得られなかった。
こうした中、同年5月になって日本維新の会の分裂が決定的になり、橋下派は結いの党と合流して新党を結成する運びとなった。元々「旧太陽派抜き」の維新との連携は第三極路線時代のみんなの党が望んでいたところであり、折からの党勢の低迷もあって、浅尾は次第に第三極・野党連携路線への回帰に傾いていった。
ところが渡辺はこの動きに不満を持ち、親自民路線の維持を主張して浅尾の代表辞任・離党を要求するなど、公然と反旗を翻し始めた。党執行部は浅尾派が固めていたものの、国会議員数では渡辺派の方が優勢であったため、党として明確な方向性を打ち出せない状態が続いた。更に和田政宗など党内右派に属する一部の議員が維新旧太陽派の新党「次世代の党」との連携に走り、離党者も相次ぐなど党内は無秩序状態に陥った。
崩壊寸前のみんなの党に致命傷を与えたのは、2014年11月に突如として決定された衆議院解散であった。自民党の圧倒的優勢が予測される中で、浅尾は生き残りのため「民主党への合流」という渡辺とは逆の方向で第三極路線を放棄しようとする動きを見せたが、渡辺派はもちろんそれ以外の勢力からも反発を受け断念。
次第に党内では「挙党体制で選挙に臨めないのなら解党した方がよい」との声が多数を占めるようになり、遂に11月19日の両院議員総会において解党案が議決に諮られた。渡辺派の国会議員や地方議員が抵抗する中、投票の結果13対6の賛成多数で解党が決定した(正式な解党日は11月28日)。
こうして第三極の先駆けとして日本の政治に一定の影響力を及ぼしてきたみんなの党は、党員の怒号と罵声が飛び交う中で5年3カ月余りの歴史に幕を下ろした。