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アイネスフウジン


ヨミ: アイネスフウジン
掲示板をミル!
21カキコ!

アイネスフウジンとは、1987年まれの競走馬57ダービーである。

「ナカノコール」であまりにも有名。


概要


シーホーク テスコパール テスコボーイという血統。シーホークモンテプリンスやウイナーズサークルなどを出したステイヤーの名種である。

アイネスフウジンは牧場時代から人懐っこく、大人しいだったそうである。牧地のを食べ尽くすほど旺盛な食欲が育てた体は迫満点で、当初から大きな期待を集めていた。

この期待戦を勤めることになったのは、中野栄治騎手だった。

ぶっちゃけて言うとこの中野騎手。当時の競馬ファンはほとんど知らなかった。というか、知らなくても問題がい。そんな騎手だった。だって、人気薄を走させたりはしない騎手だったから。騎乗フォームが美しい騎手だと評価されていたらしいが、そんなことはファンの間ではまったく知られていなかった。

当時、既に減量がきつくなり過ぎ、騎乗機会も減り、引退寸前。そんな彼にたまたま巡って来たのがアイネスフウジンの手綱だった。厩舎関係者の間で騎乗技術が評価されていたことと、加藤調教師が騎手にもチャンスを与える義だった事がこの巡り合いを生んだのだった。

デビュー三戦で初勝利。すると、次走は強気に朝日杯三歳ステークスG1)へ向かった。謀な挑戦、とも思われたが、アイネスフウジンはここを、マルゼンスキーの「不滅のレコード」1分344と並ぶタイム叩き出して優勝する。まさかこんなに強いとは思われていなかった一勝が、マルゼンスキー一本気で走って出したというレコードに並んだことは競馬ファンを大きく驚かせた。

当然、クラシック戦線でも活躍が期待されるところである。しかし、この年のクラシック戦線は、期待が続々登場する、今思っても胸アツな戦国クラシックだったのだ。メジロライアンハクタイセイ、ホワイトストーン、ダイタクヘリオスメジロマックイーンメジロパーマーも、には名だったが同世代なんである。アイネスフウジンはメジロライアン弥生賞をもぎ取られ、絶対王者とは言えくなってしまう。

皐月賞ではスタート直後に他と接触。これがいて逃げに失敗し、それでも首差には残ったものの、ハクタイセイの二着に敗れた。

この騎乗は物議を醸した。「中野では大舞台は苦しいのではないか?」という意見が出たのである。この時、皐月賞ハクタイセイの上が勝ったにも関わらず南井騎手(ちなみにこの人は中野騎手同期)から武豊騎手に乗り変わっていた。メジロライアン騎手横山典弘騎手。若いスター二人が乗るライバルべてアイネスフウジンの上は確かに地味で実績も劣る。乗り代わりがあっても不思議はいところであった。

しかし、加藤調教師は「皐月賞の負けは中野のせいではない。中野は変えない!」と宣言する。

こうなれば今度は中野騎手加藤調教師の信頼に応える番であった。中野騎手ダービーフェスティバルでこう言った。

「アイネスフウジンを一番人気にして下さい。ダービーを一番人気で勝つのが夢です。自信はあります」

ファンはこの言葉を信用せず、アイネスフウジンは当日、三番人気だった。血統的には距離が伸びて良いのアイネスフウジンが人気を落としたのは、明らか騎手人気の差であったろう。中野騎手は「借してでもアイネスフウジンを一番人気にしてやりたい」と言ったそうである。

そして快晴東京競馬場。約20万人という恐るべき数の観衆が見守る中、アイネスフウジンと中野騎手は一世一代のレースを展開するのである。

スタートして、ハナを切ったアイネスフウジン。首を下げた独特のフォームで飛ばして行く。1000mで1分を切るハイペース中野騎手は時折後ろを確認しながら、後続を離さぬよう、詰められぬように逃げる。

このため、気が付かないうちにハクタイセイを始めとする先行ハイペースに巻き込まれ、なし崩しに脚を使ってしまっていた。4コーナーを回って更に伸びたアイネスフウジンを先行勢は見送るしかい。しかも、あまりのハイペース群はなが~くなっており、メジロライアンなど追い込み勢ははるか後方。

人馬一体素晴らしいフォームで伸びるアイネスフウジンと中野騎手。最後の最後で必死に飛んできたメジロライアン完封して、栄ゴールを通過したのだった。タイムダービーレコード2分253である。

ゴールを通過した直後、ゴーグルを外した中野騎手は「ざまぁみろ!だってジョッキーだ!」といたという。

向こう正面でを止めた中野騎手はしばらくそこで佇み、そしてゆっくりスタンド前に帰ってきた。

すると、満員(形容ではなくマジで立錐の余地もい満員で、行った連中は皆一様に「地獄だった」と言ったくらい。コミケじゃなかったらしいよ)のスタンドから「ナカノ」「ナカノ」「ナカノ」とが上がり始め、それが連なって「ナカノコール」が沸き起こったのであった。競馬はそれまであまりスポーツだとは見做されておらず、ましてや騎手援をおくるのはゴール前で馬券が外れそうになった時に限られていた。「ナカノコール」は当時、前代未聞の出来事だったのである。

この間、競馬ギャンブルから本物のスポーツになったのだという意見も多い。

アイネスフウジンはこの後、脚部不安を発症。遂に癒えずに引退した。ダービーゴール後、向こう正面で立ち止まったのは中野騎手が泣いていたからではなく、アイネスフウジンが引っくり返ってもおかしくないほどヘロヘロだったからなのだという。ダービー燃え尽きたと言われたは他にもいるが、その言葉が最も似合うのはアイネスフウジンだと思う。

入りしてからはそれほどパッとしなかったが、とどかにゃいで有名なファストフレンドを出すなどダート路線で結構活躍したが出た。晩年は宮城県で種生活を続け、2004年死亡17歳だった。晩年まで多くのファンが訪れ、人懐っこさを見せていたという。

アイネスフウジンのダービーは、競馬ブームの一つの頂点であった。同時に、バブル気の絶頂期でもあった。どちらもこれ以降、ゆっくりと下り坂に入り、現在でも回復の兆しがい。アイネスフウジンの1998年、会社の資繰りの悪化を苦にして自殺した。それを聞いて、バブル崩壊と競馬人気の衰退の徴的な出来事だと思ったものである。

ダービーを逃げ切ったは78回を数えるダービーの中で僅かに11頭しかいない。その11頭中、メイズイコダマカブラヤオーミホノブルボンサニーブライアンと二冠が5頭もいる。物凄い実でなければ出来ないことなのである。そんな勝ち方で、スター続出世代1万2千頭の頂点に立ったアイネスフウジンはもっと評価されるべきだと思うのだがどうだろう。彼の出したダービーレコード東京競馬場修するまで破られる事はかった。

中野栄治騎手は、ダービー以降、いよいよ減量がきつくなり、1992年には未勝利に終わるなど苦労した後、引退調教師になってからはトロットスター高松宮記念スプリンターズステークスに勝っている。今後の活躍をきっとアイネスフウジンも見守っていることだろう。


血統表


*シーホーク
1963 
Herbager
1956 鹿
Vandale Plassy
Vanille
Flagette Escamillo
Fidgette
Sea Nymph
1957 
Free Man Norseman
Fantine
Sea Spray Ocean Swell
Pontoon
テスコパール
1976 
FNo.4-d
*テスコボーイ
1963 鹿
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
ムツパール
1965 鹿
*モンタヴァル Norseman
Ballynash
マサリュウ トサミドリ
ユキツキ

主な産駒



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最終更新日: 19/11/20 06:21
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