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アレイシ・エスパルガロ


ヨミ: アレイシエスパルガロ

アレイシ・エスパルガロ[外部]とは、スペイングラノリェース[外部]出身のオートバイレーサーである。

1989年7月30日生まれ。

2005年からMotoGPへの参戦を始める。
2010年20歳の若さプラマックレーシング[外部]から最大排気量クラスへのフル参戦を果たした。
2015年スズキワークスへ移籍した。
2017年からはアプリリアワークスから参戦している。


ゼッケン、ヘルメット


ゼッケン41番を使用している。

アレイシが若い頃に宇井陽一[外部]125ccクラスで絶頂期を迎えており、井の走りに感銘を受けた。
アレイシはGPデビュー時から井の付けていた41番を使用している。
井と一緒に写る画像もちらほら上がっている。画像1[外部]画像2[外部]画像3[外部]画像4[外部]画像5[外部]

ヘルメット2015年までフランスSHARK[外部]2016年からはインドネシアKYT[外部]を使っている。

KYTインドネシアジャカルタに本社を持つTCK社によって生産されている。
イタリアSUOMY[外部]などと協関係にあり、デザインイタリア、生産はインドネシアで行っている。

レーシングスーツフランスIXON[外部]契約している。

黄色ピンクが好みの色で、気分によって使い分けている。2017年は黄色のゼッケン[外部]2018年はピンク色のゼッケン[外部]だった。

双子子供が生まれた後は、ピンクと黄色で染め分けたゼッケンを使うようになった[外部]ピンク黄色息子という意味。
 


経歴


125ccクラスに参戦開始するもすぐに250ccクラスへ移る

1989年7月30日スペインカタルーニャ州バルセロナ近郊のグラノリェース[外部]で生まれた。ここはカタルーニャサーキットのすぐ近くで、実家近くの学校にいるとサーキットからエンジン音がいつも聞こえてきたという。

2004年スペイン選手権(現在の名称はCEV)で史上最年少チャンピオンになった。その記録は2013年ファビオ・クアッタハッホ更新するまで続いた。

2005年15歳8ヶMotoGPへの参戦を始めた。この年は125ccクラスランキング16位だった。ちなみにこのときのチームセードルフ・レーシングチームといい、オランダサッカー選手クラレンス・セードルフ[外部]が所有していたチームである。MotoGP公式にもこのチームの記事がある[外部]

若い頃から身長が高かった(現在身長180cm)。ゆえに125ccクラスバイクでは小さすぎる。自分には大きなバイクが合うと信じ、大きなバイクカテゴリーに積極的に応募していった。

2006年BQRというプライベートチームから前半に125ccクラス、後半250ccクラスに参戦した。

2007年Blusensというプライベートチームから250ccに参戦。15位以上のポイント獲得が11回。
2008年Lotusというプライベートチームから250ccクラスに参戦。シングルフィニッシュが9回。
 

リーマンショックの影響でテストライダーになる。代役参戦に全てを賭ける

2009年シーズンCampetellaというプライベートチームから250ccクラスに参戦するはずだったが、リーマンショックの不気の影シーズン直前に契約破棄されてしまう。

この年はスペイン選手権でMoto2マシンテスト走行を繰り返しながら代役参戦を繰り返した。

第7戦オランダGPと第9戦ドイツGPは、ガボール・タルマクシ[外部]が抜けた後の250ccチームで代役参戦、4位と7位に入るという好成績を残した。

ちなみにガボール・タルマクシ[外部]は最大排気量クラスチーム・スコット[外部]シーズン途中から参戦していた。ハンガリースポンサーを引き連れ、資繰りに苦しむ同チーム救世主となった。資調達に難がある高橋裕紀[外部]を押しのけての参戦となり、不気時の厳しさを印づけた。

アレイシは2009年の第12戦インディアナポリスGPと第13戦のサンマリノGPで、ミカ・カリオ[外部]の代役を探していた最大排気量クラスプラマックレーシング[外部]に応募して、見事に代役参戦を果たした。最大排気量クラスマシンに初めて乗ると転倒するのがごく普通なのだが、転びもせず好走して13位と11位に入りポイントを獲得している。

2009年の第16戦マレーシアGPと第17バレンシアGPになると今度はニッコロ・カネパ[外部]が負傷欠場、ラマックレーシングは代役としてアレイシに参戦を依頼した。またしてもアレイシは好走し、11位と13位でポイントを獲得した。

この代役参戦が評価され、2010年プラマックレーシング[外部]から最大排気量クラスフル参戦することが決まった。

代役参戦で結果を出して認められて出世するというのはもが思いつくシンデレラストーリーだが、なかなかそう簡単に実現するものではない。慣れないバイクに手こずり、手に転倒することが多い。ところがアレイシは見事な集中で適応し、転倒せずに好走を果たしたのだった。
 

最大排気量クラスとMoto2クラスでまずまずの成績を残す

2010年4月20歳8ヶMotoGP最大排気量クラスへのフル参戦を開始したアレイシは、ほとんどのレースチームメイトミカ・カリオ[外部]を上回り、ポイントを12回獲得した。

普通なら残留が決まるのだが、ランディ・ドプニエ[外部]ロリス・カピロッシ[外部]に押し出され、プラマックレーシング[外部]シートを失ってしまった。

アレイシにはすぐにが掛かり、Moto2名門チームポンス・レーシング[外部]から参戦が決まった。
2011年にはポンス・レーシング[外部]エースとしてゼッケン40番を背負い、表台1回を含むシングルフィニッシュ6回を記録する。身長180cmの彼にはMoto2マシンは小さすぎるようで、彼にしては今ひとつの成績になった。

Moto2が一番難しいカテゴリーだ。ちょっとのセッティングミスで20位にまで落ちてしまう」とコメントしたのはこの頃である。
 

アプリリアのARTマシンでCRTの王者になる

自分には大きいバイクが合っていると自覚しているアレイシは最大排気量クラス就職活動し、2012年からはアンヘルニエトチーム(旧称チームアスパー)[外部]CRTマシンであるARTマシンを走らせることが決まった。

CRTマシンプロトタイプフレームエンジンを載せたマシンのことである。
ARTAprilia Racing Technology略称で、アプリリアCRTのために作った会社である。
CRTART」という、イタリア人の駄洒落であった。

このARTマシンエンジンフレームアプリリアが用意するもので、なかなか完成度が高かった。エンジンパワーは今ひとつだがとにかく乗りやすい、というのがアレイシとランディART評だった。

アレイシとチームメイトランディ・ドプニエ[外部]は何度も好走を繰り返した。

2012年アレイシはシングルフィニッシュ2回を含むポイント獲得16回。
2013年アレイシはシングルフィニッシュ6回を含むポイント獲得16回。
 

ヤマハのマシンでついにポールポジションと表彰台を獲得する

2014年スイス内のイタリア語圏に本拠地があるフォワードレーシング[外部]に移籍した。

この年から、オープンマシンが出走可になった。マニエッティ・マレリ[外部]の低レベルな電子制御ソフトを使うことを義務づけられたマシンのことである。

アレイシが手にしたのは2013年版のヤマハマシンであった。開幕戦カタールGPでなんと4位を獲得する。これは最大排気量クラスにおけるアレイシの最高位だった。

第7戦オランダGPでは予選最速タイム叩き出しポールポジションを初めて獲得[外部]

第14戦アラゴンGPは、スタート時は曇天だったがが降ってのマシン乗り換えレースになった。旗が振られてからっ先にピットインしてマシン乗り換えアレイシは見事2位に入り、最大排気量クラスで初めて表台に上がった。

ちなみにこのレース、アラゴンに向かないヤマハマシンで予選もイマイチだったホルヘ・ロレンソめに乗り換えて優勝。アラゴンに向くホンダマシンマルク・マルケスダニ・ペドロサ乗り換えを遅らせてしまい濡れた路面で2台とも転倒リタイヤするという、大波乱のレースだった。

3位には2014年シーズンドゥカティワークスで絶不調だったカル・クラッチローが入っている。最後の直線でアレイシと接触しつつゴールインした[外部]マシンが2台並ぶとサイドスリップが効いて2台とも接近してしまうのだが、その好例である。

2014年オープンマシン勢でも首位に立ち、アレイシは実をしっかりアピールした。
 

ついにワークスライダーになる。スズキワークスに移籍


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最終更新日: 19/03/25 21:34
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