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東北本線には1958年から常磐線経由で特急はつかりが運行されていた。このはつかりは特急を名乗っていたものの、東北本線北部に非電化・単線区間が多く残っており、蒸気機関車牽引の客車特急では上野から青森まで約12時間かかる有様であった。
また、ほぼ同時期に東海道本線で運行を開始した電車特急こだまは電車ならではのスピードと、冷暖房完備の快適な車内によって人気が出ていた。
おりしも同年に東京で第1回アジア鉄道首脳会議が開催されていて、1960年に第2回の会議も東京で開くことが決定されていた。そこで次回会議の目玉として非電化路線向けの特急形車両を制作しようということになり、開発されたのが本形式である。
当初は新式の大出力エンジンと直結2段式トルクコンバーターを搭載したキハ60系を元にする予定であったが、キハ60系そのものがエンジンもトルコンも開発が難航したため計画は失敗。そこで、すでに実績のあった準急・急行用キハ55形のエンジンとトルコンに、こだま型電車151系の客室と足回りを組み合わせたありものでのやっつけ仕事実情に合わせたものになり、急ピッチで開発が行われた。東海道本線ほど高級志向の需要が求められなかったため、1等車のカーペットが省略されたりカーテンが幕式といった具合に少しグレードが落とされているほか、パーラーカーなどの特別仕様車はなかった。また、東北方面にはホームのかさ上げがされていない駅も多く、それに対応するためステップ付きのデッキ、CTC化されていない線区に備えてタブレットキャッチャーといった地方向けの装備も施されている。そして、タブレット受け渡しへの対応のためにこだま型電車ほどには運転席を高く出来ず、ボンネット内に冷暖房用の発電機付きエンジンを積んだために、その排気管も取り回しする必要があるなどのデザイン上の制約をクリアするため、独特のボンネットスタイルとなった。これはそのいかめしさと愛嬌が伴う出で立ちから「ブルドッグ」の愛称で親しまれた。
一応第2回会議には間に合い、各国の強い関心を得ることに成功した国鉄であったが、上述した突貫作業により制作されたたため、いざはつかりに投入してみると様々なトラブルが発生した。
これらのトラブルが多発したため、マスコミからは「はつかりがっかり事故ばっかり」などと叩かれることになった。国鉄側もこれらの事態を重く受け止め、特にこう配がきつい奥中山の前後の御堂駅と小鳥谷駅で夏場運転停車を行い、エンジンの点検や冷却の確認を行うようになった。
それでも従来の客車に比べればはるかに高速で快適な気動車特急は好評で、国鉄は昭和36年のダイヤ改正で2次車を製造、全国各所に特急を増発することになった。この2次車ははつかり運用の際に問題となった個所の設計を変更されており、特に先頭車は貫通型となり使い勝手が良くなった。この先頭車がまた独特の優美さを湛えた稀代の傑作デザインとなり、後継のキハ181系やキハ183系、キハ185系に至るまでの貫通型先頭車のデザインコンセプトとして引き継がれることになる。このことから1次車と2次車の間を別の形式と考えている人も多く、その場合前者をキハ81系、後者をキハ82系と呼ぶ。
1968年のはつかり電車化以降はつばさに転用され、それも大出力エンジン搭載のキハ181系に置き換えられたのちは紀勢本線のくろしおに転用、1978年の381系電車投入によりボンネットスタイルの1次車は廃車となった。2次車以降も各地で電化や後継のキハ181系気動車、キハ183系気動車投入などにより徐々に活躍の場を減らし、最後まで定期運用に残っていたJR東海の特急南紀にも1992年にキハ85系が投入されて撤退した。
北海道ではおおぞら、おおとり、北海、などに充当されたほか、「フラノエクスプレス」「トマムサホロエクスプレス」に改造された。三笠市の三笠鉄道記念館に6両編成まるまるが保存されている。
東海地区では分割民営化後のひだが1990年、南紀が1992年まで使用された(車籍上は2009年までニートレインであった)ほか、3両が「リゾートライナー」に改造された。また、リニア・鉄道館にキハ82が展示されている。
関西地区では山陰方面のあさしお、まつかぜ、紀州方面のくろしおなどで活躍し、上述の1次車キハ81は3号車が引退後に交通科学館(後に交通科学博物館)に展示され、同館の閉鎖にともなって京都鉄道博物館に移設して展示されている。
九州地区でもかもめ、有明、おおよど、にちりんなどで活躍したが、交流による電化が早めに進んだため、1980年には撤退した。
唯一四国地区にだけは配備されたことがない。これは最初から特急列車がキハ181系で運転開始されたためだ。
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