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サンデーサイレンス(Sunday Silence)とは、元競走馬・元種牡馬である。イニシャルからSSとも呼ばれる。
1986年3月25日生、2002年8月19日没。
父:Halo(ヘイロー) 母:Wishing Well(ウィッシングウェル) 母父:Understanding(アンダースタンディング)
生涯競走成績:14戦9勝
主な勝ち鞍:ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ブリーダーズカップ・クラシック
表彰など:エクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬(1989)、米国競馬名誉の殿堂入り(1996)、ブラッド・ホース誌選定「20世紀のアメリカ名馬100選」第31位(1999)
種牡馬成績:13年連続リーディングサイアー(1995~2007)、14年連続リーディングブルードメアサイアー(2006~2019)
サンデーサイレンスはアメリカのケンタッキー州ストーンファームで産声を上げた。父ヘイローは1983年の米リーディングサイアーを獲得した(サンデーが活躍した1989年にもう一度獲得する)名種牡馬。母のウィッシングウェルはGII勝ち馬である。そういう風に聞くとなかなか良い血統のように思える。
しかし、ヘイローは人を噛み殺そうとしたことがあるくらいの荒馬で、種牡馬時代には人を噛まないように口に籠を付けられた程だった。このためか、リーディングを獲得するくらいでありながらそれ程高く評価されていなかった。
更にウィッシングウェルは英国三冠牝馬ラフレッシュの末裔といえば聞こえは良いが母から高祖母までの4頭が未勝利馬・不出走馬で母系に活躍馬がまるでおらず、父のアンダースタンディングも丈夫なだけが取り柄だったような超地味種牡馬。なんで活躍したのかが不思議というような血統であった。後にサンデーサイレンスの運命を決することになったのは、主にこのウィッシングウェルの血統の悪さであった。
ちなみにウィッシングウェルも「キチガイなんじゃないか!?」と競走馬時代の調教師が言ったほど気が荒かったそうだ。……この父母から生まれたサンデーサイレンスの気性は……お察しください。
サンデーサイレンスは、実は生まれた時の評価が著しく低かった。華奢だったのと、後脚がX字に曲がっていたからである。このため「あんなひどい当歳は見たことが無い」「見るのも不愉快」「あいつにバラのレイが似合うとしたら墓に入った後だけ」ケンタッキーダービー優勝馬にはバラのレイがかけられる(そのため「Run for the Roses」という異名がある)。つまり「(ケンタッキーダービーを勝つような)一流になれる馬じゃない」というような意味。などと言われるありさまで、活躍した後にも「サンデーサイレンスの馬体の欠点は目を瞑って済むような軽いものじゃなかった」「同じ見た目の馬が1000頭いればそのうち999頭は重賞どころか未勝利も勝てない」「あれは突然変異だ」などと言われている。
血統も悪く馬体も酷く、おまけに気性も仔馬の頃から凶暴そのもの。おかげでセリでは売れ残り、母馬の馬主にも買い取りを拒否されるありさま。更にウイルス性の下痢で生死の境を彷徨ったり、セリからの帰り道、馬運車の運転手が心臓発作を起こして車が横転(サンデー以外の馬と運転手は皆死亡)したりと「この馬、呪われてるんじゃね?」と思えるような不運に見舞われる。とにかく悲惨な牧場時代を過ごしたサンデーサイレンス。性格が荒むのも無理は無い。
ストーンファームを経営するアーサー・ハンコック氏は母馬の馬主以外にも色々と売り込みをしたが、結局誰からも購入されなかった。しかし、仕方なくハンコック氏所有のままチャールズ・ウィッティンガム調教師の元に入厩すると、しばらくして「あの黒い奴は走るぞ!」という報告が届いた。そしてレースでも大活躍を挙げ、まるで期待していなかったハンコック氏を大層驚かせることになるのだった。
2歳戦を2・1・2着で終えたサンデーサイレンスは3歳になると俄然本領を発揮する。一叩きを楽勝すると初重賞挑戦のサンフェリペハンデキャップ(GII)も出遅れを克服して勝利。この時点でケンタッキーダービーの有力候補に挙げられる。そしてサンタアニタダービー(GI)を11馬身というやり過ぎですよというような勝ち方で優勝。勇躍、ケンタッキーダービーに乗り込んだ。
……のだが、ここに奴が待っていた。
前年の最優秀2歳牡馬・イージーゴアである。父アリダーに母父バックパサー、母系も超一流という嫌味なほどの良血に加え、非の打ち所の無い馬体を誇ったこの光り輝く栗毛の馬は「セクレタリアトの再来」とまで言われて高い評価を受けていた。ケンタッキーダービーの1番人気もこの馬だった。しかもイージーゴアの馬主オグデン・フィップス氏はハンコック氏の父が代表を務めていた名門クレイボーンファームからハンコック氏が独立するきっかけを作ったハンコック氏の父が死去した際の後継者決めにあたり、ハンコック氏の叔父のセス氏を指名した顧問のうちの一人にフィップス氏がいた。ハンコック氏はこれに反発してクレイボーンファームと袂を分かつこととなった。人物であり、そういう意味でもこのレースは負けられない戦いであった。
しかし、5月だというのに気温6.1℃の極寒ケンタッキー州は5月にもなると最低でも15℃ぐらいにはなるのが普通である。、しかも降り続いた雨の影響で重馬場になるという悪条件となったこのレースで、サンデーサイレンスはスタート直後に横の馬を吹っ飛ばして好位を占めると、直線、またしてもノーザンウルフという馬に体当たりをかまし、左右によれながら抜け出すという荒っぽい走りで優勝。馬場のせいか追い込みきれなかったイージーゴアを2馬身半も負かしたのであった。この時点でウィッティンガム師は「この馬は三冠馬になる」と言い切ったという。
ところが、サンデーサイレンスは二冠目のプリークネスステークスを前に右前脚を跛行してしまう。元々東海岸を拠点とするイージーゴア贔屓の人々と西海岸を拠点とするサンデーサイレンス贔屓の人々の対立は激しかったが、ケンタッキーダービー後はそれが更に激しさを増し、「前走は馬場のせい」「実力はイージーゴアの方が上」という見方もあって、このレースでもサンデーサイレンスは2番人気に甘んじた。
そしてレース。向こう正面で既に馬体を合わせていたサンデーサイレンスとイージーゴア。そのまま二頭で抜け出すと直線ではびっしり叩き合いになる。お互いメンチを切り合い額をぶつけ合う様な競り合いはゴールまで続き、内イージーゴア・外サンデーサイレンスがほぼ並んでゴールイン。ハナ差サンデーサイレンスが競り勝って二冠馬に輝いたのだった。
これで三冠馬の期待が掛かったサンデーサイレンス。三冠目のベルモントステークスへ向かったのだが、ここで事件が起きた。ある朝の調教中、殺到していたマスコミのフラッシュ撮影にビビったサンデーサイレンスが、ウィッティンガム師の頭に蹴りを入れてしまったのだ。幸い調教助手が咄嗟に馬体を押しのけたために直撃することはなく、ウィッティンガム師は「私の頭は硬いから、蹴った方が蹄を痛めたかも」などと笑い草にしたのだが、もし直撃でもしていたらウィッティンガム師はかなり危なかっただろう。
さてベルモントステークスでは、サンデーサイレンスは初めてイージーゴアを上回る1番人気に支持された。ところがこのレースはイージーゴアがひたすら強かった。サンデーサイレンスはハイペースの中仕掛けを遅らせたイージーゴアに直線で置いてきぼりにされて8馬身差。三冠の夢は破れたのだった。
これで調子が狂ったのか、続くスワップスステークス(GII)では無理に道中で大逃げを打ったのが祟って単勝1.2倍の支持を裏切る2着。目標のブリーダーズカップ・クラシックに向け暗雲が漂った。しかし、休養と立て直しが上手く行って、スーパーダービー(GI)では6馬身差圧勝。ベルモントステークスからGI5連勝中だったイージーゴアとの4度目の対決の舞台へ向かった。
迎えたブリーダーズカップ・クラシック。「勝った方が年度代表馬」「10年に一度の大一番」とまで評されたこのレースだったが、サンデーサイレンスは主戦を務めていたパット・ヴァレンズエラ騎手がコカインの使用のためレース1週間前に騎乗停止となり、クリス・マッキャロン騎手に乗り替わるというアクシデントに見舞われていた。そんなこともあって1番人気はまたもイージーゴアだった。
スタート立ち遅れたイージーゴアを尻目に3~4番手の好位を占めたサンデーサイレンス。軽い手ごたえで先頭を伺いながら直線へ。イージーゴアは手応えが悪く、騎手はおっつけっぱなし。ああ、これは楽勝だなぁ……と思ったら、突然伸び始めるイージーゴア。余裕ぶっこいてたマッキャロン騎手もこれには仰天。泡を食って追い出しに掛った。追い込むイージーゴア。伸びるサンデーサイレンス。しかし、最後はサンデーサイレンスがイージーゴアを首差抑えて、コースレコードで勝利したのだった。
この年はエクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれており、また同年の年間獲得賞金は北米記録であった。この頃、かねてからサンデーサイレンスに目をつけ「あの馬を日本に持ってくる」と息巻いていた日本の吉田善哉氏によって、所有権の25%が250万ドルで購入されている。
この後も現役を続行したのだが、レース後しばらくして、激走が祟ったのか剥離骨折などの故障を発症。翌年6月に迎えた復帰戦のカリフォルニアンステークス(GI)を単勝1.1倍の支持で勝利したが、続けて出走したハリウッドゴールドカップ(GI)では*クリミナルタイプの2着に敗退。そしてサンデーサイレンス・イージーゴアの再戦を主目的に組まれた8月の特別招待競走・アーリントンチャレンジカップを目標に調教をしていた矢先、靭帯の損傷が発覚。剥離骨折でこの少し前に引退したイージーゴアの後を追うように引退となってしまった。
通算成績は14戦9勝2着5回(うちGI6勝)。
イージーゴアとの名勝負は現在でもアメリカ競馬界の語り草である。対戦成績ではサンデーサイレンスの3勝1敗だが、サンデーサイレンスは小回り中距離が得意で、イージーゴアは大飛びなステイヤーであったため、対決の舞台に得意条件が多かったサンデーサイレンスの方が有利だったとも言われる。ちなみに、2頭の勝負は常に人気薄の方が優勝するという結果に終わっている。
期待出来ない雑草馬から年度代表馬へというアメリカンドリームを体現したような競走生活、日本のオグリキャップを思わせるストーリーからファンの人気も高かった。競馬場で売られるTシャツ(流石にぬいぐるみはなかったらしい)などのホースグッズの売り上げも、ライバルのイージーゴアのそれより断然高かったのだそうだ。だが馬券は別だった。
真っ黒な馬体にシャドーロールの姿は産駒のジェニュインを思い浮かべてもらえば分かり易い(シャドーロールの色が違うけど)。脚運びが滑らかで、いつ手前を変えたのかも分からない程だったそうである。加速しながらコーナーをこなせる器用さもあった。そしてあまりの酷さに騎手が怒って騎乗拒否を起こすほどの気性難と引き換えに得た、無類の勝負根性。どれも後に産駒に良く伝える事になるこの特徴が、デビュー前の評価を覆した「突然変異」に繋がったのであろう。
1996年、ライバルのイージーゴアに1年先んじてアメリカ競馬殿堂入り。20世紀のアメリカ名馬100選では31位。ここでも34位のイージーゴアに勝っている。
▲サンデーサイレンスの持ち主ハンコック氏はアメリカでの種牡馬サンデーサイレンスの成功を信じ、種牡馬入りのために1000万ドル(1株25万ドル×40口)のシンジケートを組んだ。ところが、血統的な評価があまりにも低かったことで種牡馬としてはさっぱり人気がなかった(株買い付け希望が3株、種付け希望の牝馬が2頭しかいなかったそうである(ノ∀`))。これではサンデーサイレンスの成功はおぼつかないし、自分の借金も膨らんでいてまずいということで、当初からそんな儚い話など知らぬかのように熱心に購入を打診してきた吉田善哉氏が更に850万ドルを上乗せして所有権を全て購入。全部で1100万ドル(16億5000万円)の巨額を投じて日本に導入されることとなり、初年度からいきなり25億円(4150万円×60口)という当時史上最高額のシンジケートを組まれて来日した。吉田氏はアメリカで「日本のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」と笑いものになったそうである。
しかし、これがサンデーサイレンスの、そして日本競馬界の運命を大きく変えることになる。