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ジャン=ポール・サルトル


ヨミ: ジャンポールサルトル
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ジャン=ポール・サルトルとは、フランス哲学者である。


概要


サルトルは20世紀を代表する哲学者である。代表作は『嘔吐』と「存在と」。ニーチェやフッサールの現学を受け継ぎ、実存義の大家として知られる。

思想であるだけでなく実際的な政治活動にも熱心であり、ソ連毛沢東義を支援したり、労働者の革命活動を支援するなど左翼の側面も持つ。

サルトルと共産主義

戦前のサルトル

サルトルは彼の生きた時代におけるマルクス義思想のその圧倒的影を形容し、「20世紀では乗り越えられない哲学」と言いマルクスにのめり込んだ。

サルトルの思想の根幹は「人間自由意志の尊重」にある。より詳しくいうのならサルトルはマルクスの弁法から、人間というものを「自分の自由意志によって古い自分を否定して、常に新しい自分を作っていく存在」と考えていた。彼は「私は自分に逆らって考える」と述べている。このような弁法的思考法を持っていたサルトルは、古い社会を否定し変共産主義革命思想に共感を示し続けていた。

しかし二次戦前サルトルはマルクス義を認めつつも、人間の意志を否定し、全体義に陥ったソ連と、ソ連を後ろにした共産主義運動とは相容れなかった。従って戦前サルトルはマルクス義に共感を持ちながらも、かなり距離を置いた批判的立場に立っていた。

サルトルの古い友人にニザンという作家がいた。ニザンは戦前からフランス共産党に在籍していたのだが、独ソ不可侵条約をきっかけに共産党のやり方に疑問を持ち、脱退する。しかし共産党はそれまでニザンの知名度を散々利用していたにもかかわらず、ニザンを裏切り者呼ばわりした。友人の批判される姿を見ていたのもあって、サルトルは組織としての共産党のありかたに対して最初は一貫して批判的であった。

1946年にサルトルは『物論と革命』を執筆してマルクス義の物論を神話として批判する。更に1948年、共産主義に傾倒する純義の暗殺者を描いた戯曲『汚れた手』を世に出した。この2作を見た共産党激怒し、サルトルにしく論駁した。共産党系の作家サルトルを「ファシスト人類の敵」だとか『万年筆の姿をしたハイエナ』などと罵倒した。

サルトルは、同じく1948年、ダビッド・ルーセという作家を中心とした政治組織、民革命連合(RDR)の発足に協した。この組織は、硬直した共産党とは違う新しい社会主義の組織をし、ソ2大営から独立したヨーロッパを築き上げようとした。しかしこの組織はルーサルトルの考え方の違いからわずか1年で解散し、共産主義とは一線を画した政治政党を作る試みは挫折する。

戦後のサルトル

サルトルは戦後しばらく経った1952年朝鮮戦争によりフランスでも反ソ連、反共産党が高まり始めた頃に、インドシナ戦争反対のビラを撒いたことで有罪判決を受けた兵の釈放運動共産主義に協したことをきっかけに共産党に接近し、同年出版された『共産主義者と平和』という論文の中でソ連共産党を擁護した。サルトルは朝鮮戦争をきっかけにした共産主義批判によって資本主義を守ろうとする保守の勢いが強くなることを危惧したのである。

サルトルが共産党に近づいたことによって、同時に彼は昔からの友人を多く失い、後に論敵として再開する。レイモン・アロンはサルトルと別れ、後々に『知識人の片』という共産主義批判論文を出版し、二人はの仲になる。また、同じく旧友のモーリスメルロ=ポンティアルベールカミュサルトルの前から姿を消し、二人とも同じくサルトルとは後に論敵となる。

サルトルは1952年以降数年間、世界を精的に訪れ、共産党催の平和集会などに出席し、ソ連および共産党を支持する発言を行っている。世界的に大きな影を持っていたサルトルが共産主義に傾倒したことは後々に批判材料になったが、サルトル自身は自らを共産党の『批判的同伴者』と呼び、あくまで党とは別の第三者として、協できる所は協するのみである、というスタンスをとっていたつもりであった。

1956年ソビエト連邦共産党20回大会において、当時のソ連導者フルシチョフが3年前に死んだスターリンの個人崇拝と独裁を批判、いわゆるスターリン批判を行った。これがきっかけになり同年ハンガリー首都ブタペストで知識人、学生、労働者による反ソ、反政府暴動が勃発し、ナジ政権は一党独裁のしと、ソ連軍撤回要等の妥協を強いられる。後にソ連ハンガリーに武介入しナジ政権は倒壊。変わったカーール政権はソ連軍事を武器に、民衆を武弾圧し、数人の死者と20万人の亡命者を生み出した。これが世に言うハンガリー動乱である。

サルトルはこの時ソ連の武介入を批判する側に立つ。ソ連の介入を肯定したフランス共産党を厳しく批判し、『スターリンの亡霊』というソ連批判の論文を発表する。サルトルはこの論文をきっかけに共産党から距離を起き始めるが、一方で暴動を批判しつつも理想の共産主義国家建設のためには必要な『回』であったと述べており、全に共産主義とは袂を分かっていなかった。

共産党との別離

サルトルが全に共産党と手を切るのは1968年フランス5月革命がきっかけであった。5月革命とは学生を中心としてベトナム戦争反対や大学管理への反発を訴えていた運動エスカレートした結果、パリ学生カルチェ・ラタンにて警官隊と大突したことにより、それに応じた労働者が一斉にストライキを行った事件である。ド・ゴール大統領は沈静化に失敗し退パリは解放区と呼ばれ、「異議申し立て」を合い言葉に既存秩序を否定した。彼らの思想的根拠は当然マルクス義だが、5月革命では資本主義の打倒と共に、既成左翼スターリニズムとして批判した。この為彼らを旧左翼と区別して新左翼ニューレフト)と呼ぶ。

サルトルは「学生大学に対抗しう一の関係は、大学を潰すことである。その為の方法は路上に出ること」と述べ、5月革命を支持した。このことによりサルトルは、フランス共産党との仲を全に決裂させる。同じ年の1968年8月にはソ連がプラハ謳歌していたチェコスロヴァキアに侵攻し、独立阻止しようとする、いわゆるチェコ事件が勃発。この時もサルトルはいちソ連侵略を弾劾し、これも、ソ連との全な別れとなる。

晩年のサルトルと共産思想

その後サルトルは1970年代に、フランス毛沢東義に傾倒していたグループプロレタリア』の影を受け、毛沢東義に傾いていく。当時のフランスでは、衛兵と呼ばれる若者たちが社会のあらゆる既存秩序を破壊する文化大革命に共感し、毛沢東義に走る者も多かったのだ。サルトルもその一人であったが、フランス共産党の時と同様、自身は毛沢東義ではなく、あくまで外からの協、というスタンスを貫いていた。

しかしフランス毛沢東リーダー逮捕されてしまったことにより、毛沢東は頓挫する。サルトルも法廷に、労働者にと色々努したが暴革命然と行う毛沢東義は民衆の支持を得られず結局組織は解体。その後サルトルは民衆の意志を反映する『リベラシオン』という新聞を発行するがサルトルの健康状態は悪化したことにより運動は難航する。

晩年のサルトルは病気に悪化し、ついに失明に至る。しかし彼は病を押して様々な集会、討論会、デモに参加し、ベトナム共産党からの亡命者(ボート・ピープル)を支援したり、ソ連への抗議とするモスクワオリンピックボイコットを支持したしと左翼という組みに縛られず、自由運動を続けた。


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最終更新日: 14/02/12 22:09
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