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ステイゴールド


ヨミ: ステイゴールド
掲示板をミル!
204カキコ!

ステイゴールドとは、1994年まれの日本の元競走馬・種である。

名の由来はスティーヴィー・ワンダーの楽曲から。香港での名表記は『黄金旅程』。
競馬ファンからは名を略して『ステイ』『ステゴ』とあだ名されることが多い。


概要



血統・性格面の特徴


言わずと知れた大種サンデーサイレンスマイルCSなどを制した「弾丸シュートサッカーボーイの全ゴールデンサッシュ、は日でGⅠを輩出したディクタスという良血
からスピードを、からスタミナとパワーを、両者から旺盛な闘争心を受け継ぐことを期待できる血統であり、それらは後の現役生活で明されることになる。

が、ステイゴールドはそれ以外のものも受け継いでしまった。

SS産駒はご存じの通り、優れたを発揮すると同時に、気性のしさが大きな特徴である。ディクタス産駒もこの点においては人後に落ちず、前述したサッカーボーイは特にそれが顕著だった。
そんな配合から生まれたステイゴールドも、例に漏れず気性面で難を抱えていた。
に乗りかかろうとする、あまつさえ噛みつきにもいく、厩舎の中でも油断すると蹴りが飛んでくる、 やたらと左にヨレる、と思ったら今度は右に行った、上の熊沢重文を振り落とす人間房の前を通っただけで突進して威嚇するetc…とにかく気性面では問題点が目白押しだった。

ステイゴールドを管理する池江泰郎調教師の下で調教助手をしていた池江泰寿(後に調教師となりステゴの代表産駒ドリームジャーニーオルフェーヴルを管理する)にコイツやったら食うんじゃね?」と言わしめ、そのいとこでステイゴールドの担当厩務員だった山元重治氏を「とにかく自分が一番エラいと思ってる。自分の中のマイルールを絶対曲げようとしない(笑)とあきれさせた。とにかく独尊を地で行く俺様っぷりだったそうな。

こうした性格もあり、下級条件時代、後にコンビを組む武豊が初めてステイゴールドに騎乗した際には、
競馬に集中できていない」とまで言われてしまった。

反面、身体には中々のものがあり、後ろ足二本のみで立ち上がってもフラつかない、小柄な体格にもかかわらず、調教時に体重60kg(レース時の騎手は大体50kg台、場合によっては40kg台)の人間が乗っても走ってのけたなど、の高さを示す逸話もある。

また、性格面についても、厩務員の山元氏は「(面倒は面倒だけど)猛ではない」といい、熊沢も「何がOK、何がNGということをはっきり表現しているだから、それがわかってしまえばかえって扱いやすい」ともる。要するに、ステイゴールド自身の中ではしっかりとしたルールがあって、ただ意味もなく暴れるということはなかった、その意味では「賢い」であったとも言える。


現役時代①善戦マンと呼ばないで(1996~1998年)


96年、旧3歳(現2歳)12月デビュー。2戦膜炎を発症した影で出世が遅れ、6戦の4歳(現3歳)5月にようやく初勝利を挙げる。ちなみに3戦には右回り京都コースで左に旋回し落競走中止、調教再審という暴れっぷりを見せつけている。

を現したのは4歳のから。初勝利に続いてすいれん賞(4歳500万下)を勝利。さらに1戦を挟んだ阿寒湖特別(900万下←ここ重要)を勝って弾みをつけ、上がりの一としてクラシック最後の一冠・菊花賞戦線に挑む。
トライアルGⅡ京都新聞杯では4着と好走、優先出走権は逃すも営や好みのファンに期待を抱かせる。 が、格上挑戦で出走した本番では、マチカネフクキタルの8着といいところなく敗れた。
その後は97から98にかけて自己条件と格上挑戦で4戦し、4戦連続2着。この4戦の中にGⅢダイヤモンドステークスでの2着があったため、本賞が加算され晴れオープンとなる。
その後、GⅡ日経賞での4着を経て、ステイゴールドは本格的に古G1路線へと駒を進める。

天皇賞(春)では、クラシック冠で終えていた大器メジロブライトが遂に戴冠。
メジロライアンが果たせなかった天皇賞制覇を成し遂げる。ステイゴールドはその陰で2着。

グランプリ・宝塚記念では本格化した稀代の快速サイレンススズカ優勝悪や急な乗り替わりに苦しみながらも、この年の緒戦から続く連勝街道G1勝利という大輪のを添えた。
ステイゴールドはその陰で2着。何気にススズにあと一歩まで詰め寄り、前年度代表エアグルーヴに先着する。

天皇賞(秋)では絶対的な存在であったサイレンススズカレース中にまさかの故障発生、帰らぬとなる。
悲鳴と怒号が渦巻く中、伏兵の8歳(現7歳)オフサイドトラップが後味の悪い勝利を手にする。ステイゴールドはその陰で2着。

G1レースを3戦連続2着である。特に大本命事故で消えた天皇賞(秋)は、言い方は悪いがG1を勝つまたとないチャンスだった。
これをみすみす逃したことで、競馬ファンのステイゴールドに対する評価はほぼ決まってしまう。

惜しいところまで行くが詰めが甘い善戦マン。ナイスネイチャロイスアンドロイスの系譜に連なるネタである。
「名前はゴールドなのにシルバーコレクター」、「ゴールドの前でステイ」などと揶揄されながらもネット住民から、並みの小柄な体が可らしいと女性ファンから、大レースでかなりの割合で馬券に絡んだめ馬券師からと、幅広い層に人気を博し始めた。

その後ジャパンカップでは10着と掲示板を外すも暮れのグランプリ・有馬記念では3着に入りシーズンを締めくくる。GⅠでの好走が立つも自己条件戦も含め勝利かった。
これに「勝ちいがこの結果。やはりは有る」と翌年の飛躍に期待する者もいる一方で有馬で3着・・・やはりナイスネイチャ!?と別の意味で今後の活躍に思いを馳せる者もいたとか何とか。


現役時代②ねんがんの じゅうしょうタイトルを てにいれたぞ!(1999~2000年)


明けて99年。旧6歳となったステイゴールドは緒戦の京都記念こそ着外となるも、ステップレースの日経賞と天皇賞(春)では掲示板に復帰。
その後は金鯱賞、鳴尾記念(当時は初開催のG2)、宝塚記念3戦連続3着。ファンは惜しいレースにやきもきし、複勝馬券師は懐を温め、馬連馬券師は「どうして3着にこだわるんですか?2着では駄なんですか!?」と憤慨し(この年の宝塚で2着はキツいって)、ネット住民はネタ的な意味で予想をはるかえるポテンシャルに身震いした。

京都大賞典を経て挑んだ天皇賞(秋)ではレコード更新する勢いで末脚を発揮する強い競馬を見せるも、更に0.1速く駆けたスペシャルウィークを前にクビ差涙をむ。なおステゴはこの時12番人気で2着という走であり、スペ様は自身が勝ったレースで3度馬連万馬券を製造した。
その後JC有馬記念掲示板外に敗戦。結局、99年シーズンも前年に続き惜しいところで勝ちを上げることはできずに終わった。

2000年にはステイゴールドも7歳(現6歳)。人間で言えばアラサーに当たる世代に突入していた。同期の多くはターフを去り、彼自身も残された時間は少なかった。
この年もAJCC2着、京都記念3着、日経賞2着、天皇賞(春)4着と惜敗を繰り返し、「もうステイは勝てないままなの? 重賞は取れないの?」「でもそれはそれで美味しい気がする」・・・そんなも囁かれだした中、営は苦渋の選択を行う。騎手の交代である。
宝塚記念へのステップ・GⅡ目黒記念に挑むにあたり、これまでの戦だった熊沢重文から、トップジョッキー武豊へ乗り替わりを決断した。

武はこれまでの戦であった熊沢を慮って複雑な心であったが、レースでは見事起用に応えてみせる。
の降りしきる重馬場の中を後方待機で進むと、最後の直線で良血マチカネキンノホシを捉えて、そのまま突き放す。そのまま引き離すこと1と1/4身。ファンはついに、ステイゴールドが重賞で先頭に立ってゴールする間を撃したのだった。

レース数にして実に26戦、時間にして約2年と8カぶりの勝利である。
このレースまではGⅠの複勝圏内に6回入っていたがな勝ち:阿寒湖特別(900万下)」だった。
この勝利に会場となった東京競馬場では土曜開催にも関わらずG1並みの拍手と歓が巻き起こり、レースを中継していた中京競馬場でも拍手を送る者が絶えなかったという。

しかし宝塚記念以降はこれまでと打って変わって上がコロコロ変更された影もあってか不振に陥り、この年はGⅠで馬券に絡むことが出来ずに終わる。


現役時代③~そして伝説へ~(2001年)


世紀は変わり2001年。前年の重賞制覇に気を良くしてか、ステイゴールドはこの年も現役を続けていた。

年齢表記は7歳で変わらず。JRAの制度革の一環として、齢を従来の数えから満表記に変更したため、2年の「7歳シーズン」になったのである。
これで1歳若返った気にでもなったのか、ステイゴールドは初戦のGⅡ日経杯を藤田伸二の手綱で勝利し重賞2勝を挙げる。

そして勢いに乗って海外に遠征。ドバイシーマクラシックへの参戦を決定した。
ドバイワールドカップサポートレースであるドバイSCは当時の格付けではGⅡながら、高い賞もあってか欧州の強も参戦。中でも前年のドバイSCで英ダービー凱旋門賞を下しレコード勝利を上げたファンタスティックライトが連覇を狙ってこの年も出走したのは、特筆すべきことであろう。
苦戦が予想されると同時に、もしかししてステゴなら2、3着に入って笑いをとるのではと期待されたが、 これがなんと、ファンタスティックライトハナ差で下す大金星を挙げる。
しかもこれは、日本調教に限ればサンデーサイレンス産駒、初の海外重賞制覇である。日本調教の、と前置きをつけたのは、1999年日本産でフランス調教サンデーピクニックが当時のGⅢレオパトル賞を勝利していたからである。この快挙を、海外に輸出されたに先んじられるあたりもステゴらしい。

恐らくこれが現役最後の年。このままの勢いでGⅠも制覇を、と期待が高まったが、内復帰初戦の宝塚記念では4着。GⅡ京都大賞典では『あの』テイエムオペラオーから1位入線を奪うも、直線で例の左にヨレる癖を出して斜行し進路を妨、審議の結果失格する。この際に接触したナリタトップロード渡辺騎手は落トップロードもハ行を発症して天皇賞を回避するという後味の悪いレースとなった。
本番の天皇賞(秋)でも再び左に行きたがった影で惨敗。ジャパンカップでは左への斜行癖対策を重点的に行い、まっすぐ走らせることには成功したが4着に終わった。

50ラストラン、GⅠ香港ヴァーズでようやく悲願のGⅠ制覇。
日本産の日本調教による初めてのGⅠ制覇という快挙の上、その年(2001年)の香港際競争は4レース中3レース日本調教が制覇。
当時実況に対応していなかった2ちゃんねる競馬鯖落ちする事態となった。

なお、その香港ヴァーズ動画競馬タグの最古投稿動画である。
ここまで本稿を追記させてもらったが、あえてそのレースの内容についてはらない。
是非とも動画上でその雄姿に触れてほしい。


引退後~それから~


海外重賞2勝の戦績が評価され、2001年JRA特別賞を受賞。これを手土産引退、繁殖入りする。
生涯成績50戦7勝。
最速の逃げサイレンススズカの栄と最期、世界飛翔するエルコンドルパサーの雄姿、
怪物グラスワンダーの復活とスペシャルウィークとの死闘、世紀末を制したテイエムオペラオーの凱歌と
メイショウドトウの逆襲、解放後初の外天皇賞アグネスデジタル
新世紀最初のダービージャングルポケットJC制覇――。
ステイゴールドの現役生活は、多くの名たちが紡ぎだす伝説と共にあった。
そして最後は自らも伝説を残して去っていく。その蹄跡の一つ一つが、名前の通り程であった。

当初、引退式は予定されていなかったが、ファンの嘆願とJRAの要請により急きょ開催が決定。
名の由来となった名曲を背にターフを去った。エルコンドルパサーが何か言いたげにこちらを見ている。
かくして、黄金旅程の第一幕は閉じられる。

としては最初こそ期待されていなかったものの、グランプリ連覇のドリームジャーニー三冠馬オルフェーヴル兄弟、GⅠ6勝のゴールドシップなどGⅠ勝利を数多く輩出。サンデーサイレンス系の後継種としての地位を確立した。産駒もやっぱり癖ばかりだなぁ…。

こうしてきに満ちた程を歩んでいた彼であったが、その終焉は突如訪れる。2015年2月5日午後に種付けをした後様子が一変。苫小牧市の社台ホースクリニックで診察を受け一度は房に戻ったものの、その後容態が急変し、ついに永遠の眠りに就いた。21歳。死因は大動脈破裂であった。一般的な競走馬寿命25歳前後)よりも数年く、夢半ばにして、彼のは幕を閉じた。


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最終更新日: 19/12/12 22:11
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