7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します
ステイゴールドとは、1994年生まれの日本の元競走馬・種牡馬である。
馬名の由来はスティーヴィー・ワンダーの楽曲から。香港での馬名表記は『黄金旅程』。
競馬ファンからは馬名を略して『ステイ』『ステゴ』とあだ名されることが多い。
父は言わずと知れた大種牡馬サンデーサイレンス、母はマイルCSなどを制した「弾丸シュート」サッカーボーイの全妹ゴールデンサッシュ、母父は日仏でGⅠ馬を輩出したディクタスという良血馬。
父からスピードと瞬発力を、母父からスタミナとパワーを、両者から旺盛な闘争心を受け継ぐことを期待できる血統であり、それらは後の現役生活で証明されることになる。
が、ステイゴールドはそれ以外のものも受け継いでしまった。
SS産駒はご存じの通り、優れた能力を発揮すると同時に、気性の激しさが大きな特徴である。ディクタス産駒もこの点においては人後に落ちず、前述した母の兄サッカーボーイは特にそれが顕著だった。
そんな配合から生まれたステイゴールドも、例に漏れず気性面で難を抱えていた。
他馬に乗りかかろうとする、あまつさえ噛みつきにもいく、厩舎の中でも油断すると蹴りが飛んでくる、 やたらと左にヨレる、と思ったら今度は右に行った、鞍上の熊沢重文を振り落とす、人間が馬房の前を通っただけで突進して威嚇するetc…とにかく気性面では問題点が目白押しだった。
ステイゴールドを管理する池江泰郎調教師の下で調教助手をしていた池江泰寿(後に調教師となりステゴの代表産駒ドリームジャーニー・オルフェーヴルを管理する)に「コイツ、肉やったら食うんじゃね?」と言わしめ、そのいとこでステイゴールドの担当厩務員だった山元重治氏を「とにかく自分が一番エラいと思ってる。自分の中のマイルールを絶対曲げようとしない(笑)」とあきれさせた。とにかく唯我独尊を地で行く俺様っぷりだったそうな。
こうした性格もあり、下級条件時代、後にコンビを組む武豊が初めてステイゴールドに騎乗した際には、
「競馬に集中できていない」とまで言われてしまった。
反面、身体能力には中々のものがあり、後ろ足二本のみで立ち上がってもフラつかない、小柄な体格にもかかわらず、調教時に体重60kg(レース時の騎手は大体50kg台、場合によっては40kg台)の人間が乗っても走ってのけたなど、能力の高さを示す逸話もある。
また、性格面についても、厩務員の山元氏は「(面倒は面倒だけど)猛獣ではない」といい、熊沢も「何がOK、何がNGということをはっきり表現している馬だから、それがわかってしまえばかえって扱いやすい」とも語る。要するに、ステイゴールド自身の中ではしっかりとしたルールがあって、ただ意味もなく暴れるということはなかった、その意味では「賢い馬」であったとも言える。
96年、旧3歳(現2歳)12月にデビュー。2戦目に骨膜炎を発症した影響で出世が遅れ、6戦目の4歳(現3歳)5月にようやく初勝利を挙げる。ちなみに3戦目には右回りの京都コースで左に旋回し落馬競走中止、調教再審査という暴れっぷりを見せつけている。
頭角を現したのは4歳の夏から。初勝利に続いてすいれん賞(4歳500万下)を勝利。さらに1戦を挟んだ阿寒湖特別(900万下←ここ重要)を勝って弾みをつけ、上がり馬の一角として牡馬クラシック最後の一冠・菊花賞戦線に挑む。
トライアルのGⅡ京都新聞杯では4着と好走、優先出走権は逃すも陣営や穴馬好みのファンに期待を抱かせる。 が、格上挑戦で出走した本番では、マチカネフクキタルの8着といいところなく敗れた。
その後は97年冬から98年春にかけて自己条件と格上挑戦で4戦し、4戦連続2着。この4戦の中にGⅢダイヤモンドステークスでの2着があったため、本賞金が加算され晴れてオープン馬となる。
その後、GⅡ日経賞での4着を経て、ステイゴールドは本格的に古馬G1路線へと駒を進める。
天皇賞(春)では、クラシックを無冠で終えていた大器メジロブライトが遂に戴冠。
父メジロライアンが果たせなかった天皇賞制覇を成し遂げる。ステイゴールドはその陰で2着。
春のグランプリ・宝塚記念では本格化した稀代の快速馬サイレンススズカが優勝。道悪や急な乗り替わりに苦しみながらも、この年の緒戦から続く連勝街道にG1勝利という大輪の花を添えた。
ステイゴールドはその陰で2着。何気にススズにあと一歩まで詰め寄り(ただしこの時はいつもの大逃げスタイルではなく騎手が変わっており「引き付ける競馬」をしていたのだが)、前年度代表馬エアグルーヴに先着する。
天皇賞(秋)では絶対的な存在であったサイレンススズカがレース中にまさかの故障発生、帰らぬ馬となる。
悲鳴と怒号が渦巻く中、伏兵の8歳(現7歳)馬オフサイドトラップが後味の悪い勝利を手にする。ステイゴールドはその陰で2着。
G1レースを3戦連続2着である。特に大本命馬が事故で消えた天皇賞(秋)は、言い方は悪いがG1を勝つまたとないチャンスだった。
これをみすみす逃したことで、競馬ファンのステイゴールドに対する評価はほぼ決まってしまう。
惜しいところまで行くが詰めが甘い善戦マン。ナイスネイチャ、ロイスアンドロイスの系譜に連なるネタ馬枠である。
「名前はゴールドなのにシルバーコレクター」、「ゴールドの前でステイ」などと揶揄されながらもネット住民から、牝馬並みの小柄な馬体が可愛らしいと女性ファンから、大レースでかなりの割合で馬券に絡んだ馬券師からと、幅広い層に人気を博し始めた。
その後ジャパンカップでは10着と掲示板を外すも暮れのグランプリ・有馬記念では3着に入りシーズンを締めくくる。GⅠでの好走が目立つも自己条件戦も含め勝利は無かった。
これに「勝ち鞍は無いがこの結果。やはり力は有る」と翌年の飛躍に期待する者もいる一方で「有馬で3着・・・やはりナイスネイチャ枠か!?」と別の意味で今後の活躍に思いを馳せる者もいたとか何とか。
明けて99年。旧6歳となったステイゴールドは緒戦の京都記念こそ着外となるも、ステップレースの日経賞と天皇賞(春)では掲示板に復帰。
その後は金鯱賞、鳴尾記念(当時は初夏開催のG2)、宝塚記念と3戦連続3着。ファンは惜しいレースにやきもきし、複勝馬券師は懐を温め、馬連馬券師は「どうして3着にこだわるんですか?2着では駄目なんですか!?」と憤慨し(この年の宝塚で2着はキツいって)、ネット住民はネタ的な意味で予想をはるかに超えるポテンシャルに身震いした。
京都大賞典を経て挑んだ天皇賞(秋)ではレコードを更新する勢いで末脚を発揮する強い競馬を見せるも、更に0.1秒速く駆けたスペシャルウィークを前にクビ差涙を呑む。なおステゴはこの時12番人気で2着という激走であり、スペ様は自身が勝ったレースで3度目の馬連万馬券を製造した。
その後JCと有馬記念は掲示板外に敗戦。結局、99年シーズンも前年に続き惜しいところで勝ち鞍を上げることはできずに終わった。
2000年にはステイゴールドも7歳(現6歳)。人間で言えばアラサーに当たる世代に突入していた。同期の多くはターフを去り、彼自身も残された時間は少なかった。
この年もAJCC2着、京都記念3着、日経賞2着、天皇賞(春)4着と惜敗を繰り返し、「もうステイは勝てないままなの? 重賞は取れないの?」「でもそれはそれで美味しい気がする」・・・そんな声も囁かれだした中、陣営は苦渋の選択を行う。騎手の交代である。
宝塚記念へのステップ・GⅡ目黒記念に挑むにあたり、これまでの主戦だった熊沢重文から、トップジョッキー武豊へ乗り替わりを決断した。
武はこれまでの主戦であった熊沢を慮って複雑な心境であったが、レースでは見事起用に応えてみせる。
雨の降りしきる重馬場の中を後方待機で進むと、最後の直線で超良血馬マチカネキンノホシを捉えて、そのまま突き放す。そのまま引き離すこと1と1/4馬身。ファンはついに、ステイゴールドが重賞で先頭に立ってゴールする瞬間を目撃したのだった。
レース数にして実に26戦、時間にして約2年と8カ月ぶりの勝利である。
このレースまではGⅠの複勝圏内に6回入っていたが「主な勝ち鞍:阿寒湖特別(900万下)」だった。
この勝利に会場となった東京競馬場では雨天・土曜開催にも関わらずG1並みの拍手と歓声が巻き起こり、レースを中継していた中京競馬場でも拍手を送る者が絶えなかったという。
しかし宝塚記念以降はこれまでと打って変わって鞍上がコロコロ変更された影響もあってか不振に陥り、この年はGⅠで馬券に絡むことが出来ずに終わる。
世紀は変わり2001年。前年の重賞制覇に気を良くしてか、ステイゴールドはこの年も現役を続けていた。
年齢表記は7歳で変わらず。JRAの制度改革の一環として、馬齢を従来の数えから満表記に変更したため、2年目の「7歳シーズン」になったのである。
これで1歳若返った気にでもなったのか、ステイゴールドは初戦のGⅡ日経新春杯を藤田伸二の手綱で勝利し重賞2勝目を挙げる。
そして勢いに乗って海外に遠征。ドバイシーマクラシックへの参戦を決定した。
一応、突拍子のない話ではなく、トゥザヴィクトリーのドバイ挑戦の現地での調教併せ馬としての話もあったので「それなら一緒に」と考えた結果である。
ドバイワールドカップのサポートレースであるドバイSCは当時の格付けでは国際GⅡながら、高い賞金もあってか欧州の強豪馬も参戦。中でも前年のドバイSCで英ダービー馬、凱旋門賞馬を下しレコード勝利を上げたファンタスティックライトが連覇を狙ってこの年も出走したのは、特筆すべきことであろう。
当のファンタスティックライトは調子が今一つだったものの、それ以上にステイゴールドは遠征による疲労のためただでさえ小柄な馬体が更に痩せ細ってしまっていたため「せめて無事で帰ってきてくれ」とまで心配され、苦戦が予想されると同時に、もしかししてステゴなら2、3着に入って笑いをとるのではと期待されたが、 これがなんと、ファンタスティックライトをハナ差で下す大金星を挙げる。
これは、日本調教の馬に限ればサンデーサイレンス産駒、初の海外重賞制覇である。日本調教の、と前置きをつけたのは、1999年に日本産でフランス調教のサンデーピクニックが当時のGⅢクレオパトル賞を勝利していたからである。この快挙を、海外に輸出された馬に先んじられるあたりもステゴらしい。
恐らくこれが現役最後の年。このままの勢いでGⅠも制覇を、と期待が高まったが、国内復帰初戦の宝塚記念では4着。GⅡ京都大賞典では『あの』テイエムオペラオーから1位入線を奪うも、直線で例の左にヨレる癖を出して斜行し進路を妨害、審議の結果失格する。この際に接触したナリタトップロードの鞍上渡辺薫彦騎手は落馬。トップロードもハ行を発症して天皇賞を回避するという後味の悪いレースとなった。
本番の天皇賞(秋)でも再び左に行きたがった影響で惨敗。ジャパンカップでは左への斜行癖対策を重点的に行い、まっすぐ走らせることには成功したが4着に終わった。
50戦目のラストラン、GⅠ香港ヴァーズでようやく悲願のGⅠ制覇。
左のヨレ癖が直ったと思っていたら右にヨれ内ラチにぶつかったという。最後までネタに事欠かない馬である。
日本産の日本調教馬による初めてのGⅠ制覇という快挙の上、その年(2001年)の香港国際競争は4レース中3レースを日本調教馬が制覇。
当時実況に対応していなかった2ちゃんねるの競馬板が鯖落ちする事態となった。
なお、その香港ヴァーズの動画が競馬タグの最古投稿動画である。
ここまで本稿を追記させてもらったが、あえてそのレースの内容については語らない。
是非とも動画上でその雄姿に触れてほしい。
海外重賞2勝の戦績が評価され、2001年度JRA特別賞を受賞。これを手土産に引退、繁殖入りする。
生涯成績50戦7勝。
最速の逃げ馬サイレンススズカの栄光と最期、世界に飛翔するエルコンドルパサーの雄姿、
怪物グラスワンダーの復活とスペシャルウィークとの死闘、世紀末を制したテイエムオペラオーの凱歌と
メイショウドトウの逆襲、解放後初の外国産天皇賞馬アグネスデジタル、
新世紀最初のダービー馬・ジャングルポケットのJC制覇――。
ステイゴールドの現役生活は、多くの名馬たちが紡ぎだす伝説と共にあった。
そして最後は自らも伝説を残して去っていく。その蹄跡の一つ一つが、名前の通り黄金の旅程であった。
当初、引退式は予定されていなかったが、ファンの嘆願とJRAの要請により急きょ開催が決定。
馬名の由来となった名曲を背にターフを去った。エルコンドルパサーが何か言いたげにこちらを見ている。
かくして、黄金旅程の第一幕は閉じられる。
種牡馬としては最初こそ期待されていなかったものの、グランプリ連覇のドリームジャーニー・三冠馬オルフェーヴルの兄弟、GⅠ6勝のゴールドシップなどGⅠ勝利馬を数多く輩出。サンデーサイレンス系の後継種牡馬としての地位を確立した。産駒もやっぱり癖馬ばかりだなぁ…。