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ディズニーとは、アメリカの大手エンターテイメント企業ウォルト・ディズニー・カンパニー、同社の創業者ウォルト・ディズニー、同社による映画・音楽・キャラクター・テーマパークなどのコンテンツ及びそれらの総体としてのブランドを指す
ウォルト・ディズニー・カンパニー (The Walt Disney Company,WDC) とは、アメリカのメディア・コングロマリットである。日本法人はウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社。
ディズニーはアニメーション映画およびテーマパークで有名だが、「アメリカ3大ネットワーク」のABCを傘下に収め、同放映局や自社TVチャンネルにおける番組放映及び放映番組の制作なども行うメディア・コングロマリットである。本社所在地はカリフォルニア州バーバンク市サウス・ブエナ・ビスタ・ストリート500番地。従業員は子会社含め約20万人。2018年現在のCEO(最高経営責任者)はボブ・アイガー(ロバート・アイガー)
現在、以下の5つの事業を展開している。
1923年10月16日設立:ディズニー・ブラザーズ・カートゥン・スタジオ
1926年1月:ウォルト・ディズニー・スタジオに改名
1929年12月:ウォルト・ディズニー・プロダクションズに改名
1995年7月28日:完全子会社としてDCホールドコ・インク設立
1996年2月9日:DCホールドコ・インクがウォルト・ディズニー・カンパニーに改名、もともとのウォルト・ディズニー・カンパニーはディズニー・エンタープライゼズ・インクに改名。ディズニー・エンタープライゼズ・インク(旧ウォルト・ディズニー・カンパニー)はウォルト・ディズニー・カンパニー(旧DCホールドコ・インク)の子会社として再編成。
1901年12月5日、ウォルト・ディズニー(本名ウォルター・イライアス・ディズニー)はイリノイ州シカゴにて母フローラと父イライアスの4男として生まれる。当時一家は貧しく、父イライアスは何度も事業を失敗し、仕事を変えながら引っ越す生活を繰り返していた。父イライアスはとても厳格で子どもも厳しく育てていたので、ウォルト自身幼少期にはあまり良い思い出がないようである。例外はミズーリ州マーセリンに住んでいた時期で、ウォルトにとって幼少期の重要な出来事はほとんどこのマーセリンの街で起こった、と後年回想している。大人になってもこの時期の経験は心に残り続けていたらしく、ディズニーランドの玄関口であるメインストリートUSAはマーセリンの街並みをモデルとしている。(TDLのワールドバザールもそうである)
1914年に第一次世界大戦が始まると、ウォルトも他の多くのアメリカ人同様に、国粋主義に傾倒し、愛国心が芽生えていた。17歳の時には軍にも志願したが、17歳では若すぎると断られたので、今度は年齢を詐称し、赤十字の救急隊に入隊、フランスに派遣され後方支援を行う。第一次世界大戦が終わり帰国すると、父の会社に用意されていた就職口を蹴り、地元の広告会社でデザイナーとして働き出す。ここで出会ったのが天才アブ・アイワークスである。2人は仕事でもプライベートでも親密になり、「アイワークス・ディズニー社」という広告デザイン会社も立ち上げたが、すぐにウォルトは「カンザスシティ・スライド社」にアニメーターとして雇われることになり、アイワークスを置いて行ってしまう。
1921年になると、ウォルトは独立し「ラフォグラム社」というアニメ会社を設立する。 しかしウォルト・ディズニーは、アーティストとしての才能は抜群でも、経営者にはお世辞にも向いているとは言い難い。それがまず災いしたのがこのラフォグラム社であろう。ウォルトは作品を作るに当たり、芸術家として妥協を許さなかったので、制作資金を湯水のごとく使い、会社はすぐに財政難に陥る。途中、アニメーションの中に実写を組み込むという斬新なアイデアを出し、ルイス・キャロル原作「不思議の国のアリス」を用いてアリス・コメディを制作したが、時すでに遅し。銀行はもはや融資をしてくれなくなり、1922年、ラフォグラム社は1年足らずで倒産する。
さすがのウォルトも半ば諦めかけていると、ウィンクラー社の社長であり、ニューヨークのディストリビューターでもあったマーガレット・J・ウィンクラーからアリス・コメディに関する契約を結びたいと連絡が来る。このチャンスを逃すまいと、ウォルトは兄のロイ・オリヴァー・ディズニーを説得し、1923年10月16日、2人で「ディズニー・ブラザーズ・カートゥン・スタジオ」を共同設立。ディズニー社誕生の瞬間である。(今から考えれば、このときウォルトが1人で独走せずロイの助けを借りたのはファインプレーであった。ロイは堅実な性格で経営能力もあったので会社の財務などを担当し、予算面からウォルトを支えたのだ)加えて、ウォルトはアブ・アイワークスも誘う。これも今から考えれば超絶ファインプレーだ。
ウィンクラーとの契約により、1924年3月1日に最初のアリス・コメディである「Alice’s Day At Sea」(アリスの海での1日)がリリースされ、その後3年間は「アリス・コメディー」シリーズを制作し、人気を博した。プライベートでは当時ディズニー社で働いていたリリアン・バウンズとの社内結婚も果たす。1926年には社屋もハイペリオン通りに新設し、社名を「ウォルト・ディズニー・スタジオ」に変更。
アリス・コメディーに続き、1927年に制作した「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」(しあわせウサギのオズワルド)シリーズも大人気となるが、なんと翌年の1928年、契約上、オズワルドの著作権は、ウォルトではなく、ウィンクラーの夫でありウィンクラー社の共同経営者でもあるチャーリー・ミンツにあることが発覚。ミンツは今後オズワルドをウォルト抜きで制作すると決め、ディズニー社の社員の引き抜き工作まで行う。ほぼ全ての社員が引き抜かれたが、アブ・アイワークスはウォルトを裏切らず引き抜きに応じなかった。アイワークス・ディズニー社のときはウォルトは自分を置いてカンザスシティ・スライド社に行ってしまったのに、アイワークスさん、健気…(しかもアイワークスは事前にウォルトに「ミンツが我々の引き抜き工作をしている」と忠告していた。にもかかわらず、楽観的なウォルトはそれを全く信じなかったらしい…)
絶望状態だった中、もうオズワルドの失敗は繰り返さぬと生み出した新キャラクターこそ、あの世界一有名なネズミ「ミッキーマウス」である。ちなみに、オズワルドもミッキーも、デザインを完成させたのはウォルトではなくアイワークスである。実はデザイナーとしての純粋な画力やセンスはウォルトよりもアイワークスのほうが上というのが多くの人の一致した見解である。つまり、皮肉にもミンツが唯一引き抜きに失敗したアイワークスこそが、(ウォルトを出し抜くために)ミンツにとって一番必要な人材だったのだ、アイワークスさんを引き抜けなかった時点で勝負は決まっていた…
ミッキー出演作として、まずは「プレーン・クレイジー」「ギャロッピング・ガウチョ」の2作を制作する。この2作はサイレント映画(無声映画)であるが、当時の映画界はちょうどサイレント映画からトーキー映画(音声のある映画)に移行しようという時代だった。そこでウォルトはトーキー映画を作ろうと提案し、制作されたのが「蒸気船ウィリー」である。したがって制作順ではプレーン・クレイジーが初だが、公開順では蒸気船ウィリーが初作品である。一般的には、初公開作品である蒸気船ウィリーがミッキーのデビュー作とされる。1928年11月18日、蒸気船ウィリーが公開されると、瞬く間にミッキーはスターへの階段を駆け上がっていく。デビュー翌年の1929年から世界恐慌が起こったことも当時のアメリカ人がミッキーのような悪役を倒し成功する典型的なヒーローに惹かれた理由の1つだろう。
ミッキーが人気になると、ディズニー社は他社商品にミッキーを利用するライセンスを付与し、ライセンス料を受け取るというビジネスを開拓する。食器、歯ブラシ、時計、ラジオなど、いろいろな商品にミッキーがデザインされ、ライセンス料による収益は映画の興行収入と同じかそれ以上のものとなった。ご存知の通り、ディズニー社は現在でもこのビジネスを積極的に行っている。
ディズニー社はミッキーシリーズに並行して、1929年の「スケルトン・ダンス」(骸骨の踊り)以降、「シリー・シンフォニー」といわれる一連のシリーズを開始。1932年には、「シリー・シンフォニー」シリーズの1つであり、世界初のフルカラーアニメーション作品である「花と木」(Flowers and Trees)が公開。花と木は、ちょうどこの年から創設されたアカデミー賞の短編アニメ部門を受賞。以後、ディズニー社はアカデミー賞の常連となる。
1934年になると、ウォルトはグリム童話の1つ「白雪姫」を原作とした長編作品を作ろうなどという突飛なことを言い出す。当時のアニメは、ギャグを中心とした短編作品が主流であり、「ストーリー性」のある長編作品を作るという発想自体がほとんどなかった。そもそも長編作品を作るだけの予算・制作期間・人員が確保できないという事情もある。ウォルトは毎日のように白雪姫の話を聞かせ徐々に社員を説得し、制作にこぎつけるが、やはり莫大な予算と制作期間がかかることになる。公開前には「ディズニーの道楽」とも揶揄された。しかし、1937年12月21日、世界初の長編カラーアニメーション映画「白雪姫」が公開されると、観客は白雪姫の虜となり、それまで「自動で動く紙芝居」「子供だまし」としか思われていなかったアニメーションが芸術として認められ、計8部門のアカデミー賞を受賞し、莫大な制作費用を余裕で回収するさらに莫大な収益を上げることになる。
だが、白雪姫の大成功も束の間、この後、ウォルト自身やディズニー社に畳みかけるように危機が訪れる。
白雪姫の大成功の後、ウォルトとロイは両親に家をプレゼントするが、この家が欠陥住宅で、ガス漏れ事故があり、母フローラが死亡。一方、ディズニー社は白雪姫に続いて、イタリアの童話を原作とした「ピノキオ」と、クラシック音楽とアニメーションを融合させた世界初のステレオ音声映画「ファンタジア」の制作を行う。作品としてはどちらも名作だが、公開当時、既に第二次世界大戦が始まっており、海外への輸出がほとんどできなくなったことと、ステレオ音声映画を上映できるような音響設備のある映画館がほとんどなかったことで大赤字に。白雪姫で儲けたお金をほぼ使い果たす。事態はそれだけでは終わらない。