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ニジンスキーとは、
ヴァーツラフ・フォミーチ・ニジンスキーは、ロシアのバレエダンサーである。ミドルネームは日本ではフォミッチと表記されたり、そもそも省略されることもある。
1890年にウクライナのキエフで生まれる。サンクトペテルブルクの舞踊学校でバレエを学んだ後、ロシア・バレエ団創立者のセルゲイ・ディアギレフに見出された。ディアギレフは同性愛者であり、ニジンスキーと肉体関係にあった。
高い跳躍力と中性的な動きで観客を魅了し、ミハイル・フォーキン振付の「薔薇の精」でその跳躍力を存分に披露したとされる。残念ながら、ニジンスキーが演じる姿を収めた映像は存在しない模様。
ニジンスキー自身も振付を行なうようになったが、初めて振付をした1912年上演の「牧神の午後」では、自慰行為にふける牧神(ギリシア神話に登場する神パーン)を題材とし、これを露骨に表現したことで物議を醸した。しかし、結果的に同年だけで15回の上演を行い、次第に受け入れられてモダン・バレエの先駆けとなった。
翌1913年に振付した「春の祭典」では、バレエの基本である垂直ラインを無視し、内股で首を傾げる動作を取り入れた。初演では開演後に客席で意見が分かれ、上演の最中に乱闘が起こり、野次が飛び交うという大混乱を招いた。しかし、初演以降は混乱も起きずに受け入れられている。
同年の南米公演の途中、ニジンスキーのファンであったバレリーナのロモラ・デ・プルスキと結婚。嫉妬したディアギレフにガチ切れされてロシア・バレエ団を追放される。自身でバレエ団を結成するが、興行は不振に終わる。
第一次世界大戦時、ハンガリーで拘留される。1916年にディアギレフから振付師として呼び戻されるが、この頃に統合失調症を発症。
1919年のスイスでの公演を最後に、二度と舞台に復帰できなかった。また、スイス公演後から入院するまでの数週間で「ニジンスキーの手記」を残している。
その後は精神病院を転々とし、1950年に死去。亡くなる時に「薔薇の精」のポーズを取ったと言われている。
ニジンスキーの死後、ロモラ夫人が英ダービー(ダービーステークス)に招待され、夫の名をもつニジンスキーの二冠達成を見届けている。
あまりにも斬新な振付で上記のような混乱も招いたが、次第にモダン・バレエとして評価されるようになった。
曖昧さ回避にも記載のあるように、スケート選手のプルシェンコが「ニジンスキーに捧ぐ」という演目でニジンスキーの振付を取り入れて演じている(2003年-2004年シーズンのFS使用曲。ロシア杯では、芸術点において旧採点方式の満点であるオール6.0点を獲得)。
ニジンスキーとは1967年生まれのアイルランドの競走馬。いわゆる英国三冠を無敗で制し、現在のところ最後の英国三冠馬になっている。
父Northem Dancer(ノーザンダンサー) 母Flming Page 母父Bull Pageという血統。父は言うまでもなく超ウルトラ大種牡馬だが、まだフレーミングページと交配された時にはまだ種牡馬入り二年目で、ニジンスキーがセリに出された時には産駒はデビューもしていなかった。
それなのにニジンスキーは破格の8万4千ドルで落札された。これは当時のカナダ二歳馬のレコードだそうである。もちろん、ノーザンダンサーの競走馬時代の実績もあるのだが、実は母のフレーミングページからしてカナダのダービーにあたるクインズ・プレートとカナダオークスを制して年度代表馬に選ばれたほどの名牝だったのである。おまけに、2歳時に既に170cmも体高があったという見栄えのする馬体。そこをアイルランドのヴィンセント・オブライエン調教師に見初められ、チャールズ・W・エンゲルハード(アメリカの宝石王)に購買されたのだった。
「ニジンスキー」と名づけたのはエンゲルハードである。「北の踊り子」と「炎の一節」の子供に、ロシアの天才バレエダンサーの名を付けるとは見事と言う他無い。ニジンスキーは空中で静止すると言われた跳躍力と、中性的な妖しい表現力で伝説となったダンサーだが、同時に狂気を併せ持つと言われ、若くして精神を病んで後半生を精神病院で過ごし、不遇のまま没したという悲しい人物でもある。
「生まれ変わったら馬になりたい」といったとも言われている。その名を受け継いだニジンスキー。実は彼も狂気とまでは言わないが「炎のようだ」とまで言われるほど気性の激しい馬だった。気に入らないことがあると馬房から出てこない。後ろ足で立ち上がって威嚇する。調教でもまったく言うことを聞かず、オブライエン調教師は根気強く馴致をしなければならなかった。
しかしながら、デビューするとこれがもうモノが違う。ほとんど馬なりで5連勝。アイルランドとイギリス両国の2歳チャンピオンと評価され、既に英ダービーの大本命と目されるようになった。
3歳になり、一叩き(古馬相手だけど楽勝)して望んだ2000ギニーはこれもほとんど追われることなく抜け出して圧勝。ダービーはそれまでのレース振りから距離不安が言われたが、中団から圧倒的な脚で突き抜け史上二位のタイムで激勝。アイルランドダービーも3馬身差で勝利。
キングジョージⅥ&クイン・エリザベスステークスでは馬なりで、直線で鞍上が相手を見ちゃう余裕があるというあきれたレースっぷりで優勝。ちなみに負かした馬は全部古馬で、必死に追い捲って二着したのは前年の英ダービー馬である。
あまりの強さにこの時点で早々に種牡馬入りシンジゲートが組まれたのも無理からぬ話。544万ドルは当時の世界レコードだった。
次の目標は当然、凱旋門賞だった。しかし、キングジョージから凱旋門賞までには二ヶ月以上。ちょっと間が空く。どうしようかと思っていたオブライエン調教師。そこに「是非、セントレージャーに出て三冠馬になってくれ!」という要望が聞こえてきたのである。
セントレジャーの行われるドンカスター競馬場の関係者だった。当時、既に三冠路線は形骸化しており、特に2920mも走らなければならないセントレジャーは中短距離がメインになりつつあった競馬の流れから外れてしまって、有力馬がことごとく回避する有様だったのである。実はニジンスキー以前にも二冠馬は何頭か出ていたのだが、どれもセントレジャーに出ていなかった。最後の三冠馬はバーラムという馬でなんと1935年の話だった。
ニジンスキーが出て三冠馬になれば話題になり、再びセントレジャーに陽が当たる時代が来るかもしれない。そういう目論見らしかった。オブライエン調教師は渋ったが、結局、馬主のエンゲルハードが了承してニジンスキーはセントレジャーに出走。直線抜け出してあっさり勝利。35年ぶりの三冠馬となったのであった。
どうみても楽勝だったのだが、騎手のレスター・ピゴットは直線が長く感じたという。やはり距離がニジンスキーには長かったのだろう。ニジンスキーはレース後馬体を減らしてしまい、回復に手間取ってしまう。
そして凱旋門賞。圧倒的な一番人気に押されたニジンスキーは直線で先を行くササフラを交わしたものの、伸びが無く、鞍上のピゴット騎手が思わず鞭を入れると、大きく左によれて体勢を崩し、ササフラに頭差差し返されてしまったのである。
無敗の名馬の敗戦はいつだって衝撃的だが、ニジンスキーの敗戦はアイルランドやイギリスで大ニュースになり、大きな議論を呼んだ。あれほど強かったニジンスキーが負けた理由はどう考えても、距離不向きであった過酷なセントレジャーの疲れだとしか思われず「セントレジャーに使うべきではなかった」という非難がオブライエン調教師の元に舞い込む騒ぎになった。この騒動のおかげでセントレジャーは「凱旋門賞を目指す馬なら出てはいけない」レースに成り下がってしまったのだった。逆効果にも程がある。
もっとも、凱旋門賞の後に出走したチャンピオンステークスでも二着に敗れているように、競走馬のピークを過ぎていたのだという説もあるので、一概にセントレジャーを悪者にするのもどうかと思う。そもそも、ニジンスキーは3歳時、4月から10月のチャンピオンステークスまで8戦も走っている。欧州の山坂ある競馬場で、厳しい2400m以上ののG1レースを5回も走っているのだ。そりゃ疲れるだろう。凱旋門賞ではなんか大汗かいて泡吹いているのが動画で確認出来る。
ニジンスキーはこれで引退。13戦11勝二着2回の連対率100%を達成している。動画で見た感じ、3歳前半の強さは桁違いであり、特にキングジョージの遊んでいるようなレースは一見の価値がある。
引退後、アメリカで予定通りに種牡馬入りしたニジンスキーは、期待通り。いやいや、544万ドルでもちょっと安かったか?というような大活躍をみせる。なにしろ、G1レベルのレースを勝った馬を書き出すだけでも大変というレベルである。意外な事に英国リーディングサイアーは一回しか獲っていないが、種牡馬入りした産駒も数知れず、一代で「ニジンスキー系」と呼ぶに相応しい一大勢力を築き上げるのである。
持ち込み馬として日本で走ったマルゼンスキーは桁違いのスピードで圧勝を続け「スーパーカーだ!」と日本中を驚嘆させた。種牡馬としても大活躍し、おかげでその後日本に大量にニジンスキー産駒が種牡馬として輸入される事となった。ちなみに、マルゼンスキーはニジンスキーに体型や雰囲気がそっくりである。
ラムタラはニジンスキーの死後活躍。英ダービー、キングジョージを制し、ニジンスキー産駒がそれまでどうしても獲れなかった凱旋門賞も制して父の無念を晴らしたのだった。ニジンスキー最後の傑作というに相応しい名馬である。後に日本に輸入され(ry
なお、種牡馬入りしたときにアメリカに同名の種牡馬(1958年 トムフール産駒)がいたため、区別のために馬名の後に「II」を付けられた。そのため、厳密にいえば「ニジンスキーII系」と呼ぶのが正確ではあるのだが、1958年産のニジンスキーはおそらくさほど活躍しなかったため、単に「ニジンスキー系」とされている。
1992年、25歳で死亡。超一流の競争成績と種牡馬成績を併せ持つ世紀の名馬であった。サラブレッドの歴史が続く限り、その名は血の中に残り続けて消えることは無いであろう。
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