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バブル景気


ヨミ: バブルケイキ
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バブル景気とは、日本における1986年1991年まで続いた戦後最大の好気である。


概要


このバブル景気は当時は戦後の高度経済成長を支えた『いざなぎ気』を上回る好気と言われ、日本経済と言われるようになり、日本経済においてアメリカに次ぐ大と同等のを持つようになり、際的な立場において先進国として肩を並べるに至るまでの経済成長を遂げた。

しかし一方では大に並んだのはあくまで経済に過ぎないとして、日本人に執着する浅ましさが次第に社会から疎まれるようになり、エコノミックアニマルという蔑称も付けられることになった。

日本人はこのバブル景気を日本というもの、日本人自身を省みて新しい時代を考えるようになる。


バブル景気の前触れ


バブル景気の始まりは1985年のプラザ合意がきっかけであるが、それまでの経緯の方が大きい。


米ドル変動相場制


バブル景気の予兆は1971年のニクソショックと言われるドル変動相場制への移行である。このニクソショックアメリカがかつて1944年のプレトンウッズ体制で1オンスあたり35ドル金本位制アメリカ世界中のを握ることで通貨価値をアメリカが握って基軸通貨としていく体制が崩れた。

これによって日本戦後以来1ドルあたり360円という固定相場が崩壊。日本戦後神武気、岩戸気で戦前経済準を上回るまでに経済が復していた。その後のいざなぎ気における高度経済成長期を経て当時は戦後における奇跡的とまで言われた経済成長を遂げ、その高度経済成長を支えたのはアメリカ向けの輸出であった。そのためアメリカにしてみればこの1ドル360円の固定相場は日本の輸出側にとって有利過ぎる相場であり、この時期はアメリカは極度の貿易赤字ベトナム戦争での戦費による財政赤字双子赤字に陥っていた。

この状況を打破しようと動いたのがドル変動相場制への移行である。


急激な円高


このニクソショックを経ての変動相場制への移行は2年かけて検討が行われたのちに実施され、まずは1971年にスミソニアンレートと言われるドルを切り下げた固定相場に移行、日本為替相場は1ドルあたり308円とされ、1973年変動相場制へと全に移行される。

日本はこの当時はオイルショック戦後初めてのマイナス成長を記録して高度経済成長は終焉を迎えていたが、それでもベトナム戦争の特需でアメリカ向けの輸出は減らなかったため、オイルショックが過ぎると再び経済は成長基調に乗り、高度経済成長期ほどではないにしても順調に経済が成長していく安定成長の時代に入った。

そのためベトナム戦争終結後の1977年あたりからは急速に円高が進み、それまでは1ドル260円前後で推移していた為替相場は数年で1ドル200円を割り込むまでになった。

安定成長期

ベトナム戦争も終わってアメリカ向けの特需が鈍り、オイルショックも終わって石油の安定輸入が再開、高度経済成長が終わった後の日本戦後これまで積み上げてきた経済成長により物価が急上昇していた。そんな中でも民生活は物価上昇以上に向上し、カラーテレビエアコン、マイカーなどの生活電が庭に充実してきて、民の多くが経済成長を実感するようになっていた。

貿易摩擦とジャパンバッシング

この安定成長はアメリカ向けの輸出、日本製の自動車半導体アメリカで大きな需要があったことによる安定した貿易黒字があったことによる。一方のアメリカは対日貿易赤字が続く貿易摩擦が深刻化、特に自動車産業はアメリカ自動車最大手のゼネラルフォードを脅かし、1970年代後半にはアメリカにおける自動車産業のであったミシガン州デトロイト自動車工場が閉鎖になった。デトロイトでは失業者が溢れて低所得者であった黒人の労働者をはじめとする貧困による暴動では荒れ果てて企業も撤退してしまい、一大都市スラムに陥るほどになるまで日本経済が影を及ぼすようになった。

そうなるとアメリカ内では日本経済の影に著しい嫌悪感を持つアメリカ人が増加して対日ナショナリズムが再燃。当時は戦後30年で太平洋戦争での兵役経験者が多く生きていたため、こういった元アメリカ兵の老人が戦前の対日意識をらせ、アメリカ民は日本への怒りを爆発させた。

日本製の自動車を買ったうえでワザと破壊して日本に対する強硬姿勢をアピールするジャパンバッシングアメリカの大手メディアで一斉に報道されると全でこれをマネする日本製品の破壊、不買運動が行われるようになり、日本アメリカの貿易摩擦の影日本人アメリカ人のマインドにまで浸透した。


バブル景気の始まり


ベトナム戦争が終わっても日本経済アメリカ向けの輸出が好調で日本アメリカ向けに自動車半導体の輸出によって対日貿易黒字は順調に伸び続け、安定成長のもとで民生活は向上していった。一方でアメリカ経済は前述のデトロイトでの工場閉鎖をはじめとする自産業の衰退によってアメリカ自身の税収にまで影するほどにアメリカ経済の下支えが揺らぎだし、貿易摩擦が深刻になっていた。

アメリカ日本との経済組みを抜本的に見直し、ヨーロッパと協調しながら経済体制の再構築を考えねばならなくなった。


プラザ合意


1985年9月22日アメリカ西ドイツフランスイギリス日本の当時の先進5ヶ中央銀行総裁を集め、先進国の間での新たな経済組みを作るべく新協定の構築を協議した。

アメリカニューヨークにあるプラザホテルで上記5ヶ中央銀行総裁が協議し、アメリカ以外の4ヶアメリカがそれぞれアメリカドルを協調して売買することで意図的にアメリカドルを下げるドル安政策を行うことでアメリカの貿易赤字を減らす合意がされた。バブル景気のキッカケとなるプラザ合意である。

つまり日本をはじめとする4ヶドルアメリカに売り、アメリカが4ヶ通貨を買うという協定である。これによってアメリカドルに対して4ヶ為替相場が10~12%切り上げられることになった。

そうすることでアメリカ日本経済アメリカ向けの輸出で絶好調な一方で自経済が衰退して産業が疲弊する状態が変わるのである。ドルが下がることで日本円高になって輸出のけが減って輸出が減り、アメリカ円高日本からの輸入が減ることで自産業は立ち直り、経済の衰退が抑えられるのである。

一見、アメリカの都合優先で日本が単に損するだけのように見えるが、日本経済が高度経済成長期以来、絶好調だったのは一貫してアメリカ向けの輸出が堅調に伸び続けていたためである。アメリカが買ってくれたから日本の売上が良かったようなもので、アメリカ経済に支えられた経済成長に過ぎなかったという側面はアメリカにしてみれば自産業を崩壊させて経済が衰退するまで日本を育てたようなものである。当時のアメリカでは日本との貿易摩擦で保護貿易復活を訴える保守系の対日強硬が台頭し始めており、自由貿易を守るためにヨーロッパと協調して日本に対して経済組みを変えることでドル高を善するように譲歩を迫ったのである。

日本アメリカ頼みの経済成長であったことは良く分かっており、そのためにアメリカ経済の基盤が揺らぎだしていたことから日本に非があることは承知していた。そしてアメリカに保護貿易の動きが出たら戦後の高度経済成長を支えた経済が柱から折れて崩れることから、一見不利に見える協定に合意したのである。


バブル景気の突入


プラザ合意が締結すると次の日にはくも為替相場が動き、数日で一気に20円も円高が進み1ドル220円台に、その年のうちに1ドル200円まで円高が進んだ。次の年は1986年のうちに1ドル150円まで急速な円高が進み、1987年には1ドル140円。実に合意から僅か1年で78円も円高ドル安が進んだのである。

こうなるとアメリカ向けの輸出で大きく利益をあげていた巨大企業は収益が下がり、気も安定成長が鈍り始めてきた。政府円高の打開策として内需拡大を大々的にするようになった。内需拡大の方策として内の通貨の供給量を増やし、定歩合(当時は自由利ではなかった)を7から5に、5から2.5へと低利政策に移行し銀行企業に融資しやすい土壌を作り、民も利の低下で貯蓄の利子が減った。このことから民の間で消費喚起のムードが高まり、政府の内需拡大の動きに応じて内産業も内向けの製品やサービスを次々と打ち出して民に消費を楽しむ雰囲気を作り出した。


空前の好景気


政府日本銀行を通じて利下げに乗じた融緩和に対応するため通貨供給量を大幅に増やした。

1985年から1990年にかけては経済通貨供給量、いわゆるマネーサプライは年間10以上のペースで増え続けていき、平成2年のバブル景気のピークのときにはバブル前の実に2倍に近い量の通貨中に出回っていたことになる。こうなると経済が溢れて余る状況になり、物価も上昇した。しかし物価は高くても民の消費マインドは高く、高くても物が売れるため内産業は順調に業績を伸ばしていた。


海外旅行ブーム


急速にして前代未聞の円高は当時の日本人にとって高根のであった海外旅行を庶民が楽しめるレベルにまで押し下げた。旅行会社は人気ヨーロッパアメリカ西海を中心に1週間程度を途にしたパックツアー旅行プランを次々に発表し、5泊7日で60万円~70万円と当時としては破格の安いパックツアーに多くの一般人が参加し、憧れのパリ、常ハワイニューヨークを堪した。

日本人観光客の蛮行

この日本人海外旅行ブーム旅行先となったアメリカヨーロッパでは日本人観光客の蛮行が連日報道され、日本人イメージを著しく悪いものにしてしまった側面もある。多くの日本人にとって初めての経験であり、一生にそう何度も行けることのない重な体験ということ、の恥は掻き捨てという思考なのか、先で羽を外して問題を起こす日本人観光客が続出し、現地人から嫌悪されて日本人とはこういうものというイメージを作り上げてしまった。とくに有名な問題行動としては以下のものがある。

  1. イタリアローマ元老院議場の大理石を削り取って土産に持って行った。
  2. イタリアローマ教会で懺悔をしている市民しがってフラッシュを焚いて撮影しまくった。
  3. フランスの高級ブランドショップに集団で押しかけて騒ぎまくった挙句に爆買い。
  4. フランスルーブル美術館で展示品に肩をかけたり手を触れたりしながら記念撮影。
  5. ハワイでは日本人向けの観光ホテルづくりのために原住民居住地が潰された。

他にも観光スポットや白人の容姿の良い人物をアイドルと勘違いして問答用に写真を撮りまくったり、現地の習慣である飲食店やホテルなどでチップの支払いを拒否したりと、ココが外であるということを忘れて好き放題に振舞っていく日本人観光客が後を絶たず、1987年アメリカの雑誌であるタイム誌に観光地を荒らすニューバーバリアンとまで言われるほど欧人から嫌われた。


異常な地価高騰


本来の2倍近い量の通貨中に流通するようになったことで中では通貨が余るようになり、その余った通貨は一般市民は消費を楽しんだ。しかし中に余り、多くの企業が高い業績をあげて企業経営が良くなって富裕層がを持つようになれば、そのは消費に使われるのではなく投資や投機に回るのはいつの時代も同じである。が稼げそうなことに投資して持っているを増やしたいという欲望である。

しかしプラザ合意から定歩合は3分の1近くまで下がっていて銀行の定期預では利子が安くて溜める旨味い。まだ当時は外貨為替法によって外貨の取引は厳しく制限されていて当時の東京銀行をはじめとするごく一部の認可銀行以外では外貨を取り扱えなかったため海外投資は難しい。そんなバブル景気当時の日本では土地をはじめとする不動産に投機が向いたのである。


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最終更新日: 21/10/06 05:56
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