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ビワハヤヒデ


ヨミ: ビワハヤヒデ
掲示板をミル!
68カキコ!

94年、宝塚記念

ファン投票で集まった、14万8768の期待。

そのにとっては、重圧でなく、自信だった。

されるから強いのか。あるいはその逆か。

5身差の余裕、ビワハヤヒデ。

の強さは、スリルすら拒む。

――2013年宝塚記念CMより

 

ビワハヤヒデとは、1990年まれの競走馬。15連続連対を記録した名である。顔がでかい事で有名

寄りすぎ

これはでかい

[画像を見る]
この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
ビワハヤヒデ(ウマ娘)を参照してください。

概要


シャルード シフカス ノーザンダンサーという血統。イギリスからパシフカスが輸入される時におに入っていた持込である。購入した牧場としても、欲しかったのはパシフカスであって、おにいたその子供には大した期待をしていなかっただろう。は競走成績もアメリカの芝重賞を買った程度で血統背景もいとこにジョリーズヘイローがいる程度と乏しく、この時点でろくな活躍もなかった。ハヤヒデが活躍して日本に輸入されたが、特段日本競馬に適性があったわけでもなく、2世代を残したところで急死という不幸があったとはいえ、ハヤヒデの他に立った産駒はいない。は大種ノーザンダンサーG1勝ちのパシフィックプリンセスの間に生まれた良血ではあったが、自身の競走成績は全く芳しくく、イギリスに残してきたハヤヒデ3頭(いずれも名種の子)もろくに走っておらず、この段階でシャルードのような種を配合されていたのも、要はイギリスでは大しただとは思われていなかったということである。

ビワハヤヒデは、実は福島県生まれである。成田空港に到着したパシフカス北海道に運ばれる前に出産が近づき、急遽牧場福島に所有していた分場に運び込まれそこで出産を迎えたというタイミングの都合であったのだが、産地ではない福島まれのは非常にしい。出産い段階で子ともども新冠の本場へ移動しそこで育っている。

幼少時はなんか大怪を負ったことがあるというエピソード以外は立たないであったようである。入厩舎してからも体質が強くなく、それほど注されている訳でもなかった。

ところがデビュー戦は大差勝ちである。あっという間に3連勝。見た感じ、もさ~っとしていて体も地味。しかし朝日杯3歳ステークス共同通信杯は僅差二着。デビューから手綱を取り続けてきた騎手はここでついに交代となり、関西にもかかわらず関東トップ騎手岡部幸雄に騎乗が依頼される。乗り替わった若葉ステークスでは圧勝。クラシック戦線の大本命に名乗りを上げた。

しかし皐月賞ではりこむところを武豊騎手上のナリタタイシンの差し切りを許す。ダービーでは柴田政人上のウイニングチケットの恐るべきりと差し返しの前にこれまた二着。ナリタタイシンウイニングチケットとの3頭はBNWとか呼ばれたが、結局1・2・3着を独占したのはダービーが最後だった。

の惜敗に切れた濱田調教師は、にこれだけの活躍をしたのであれば普通は避暑を兼ねて北海道に休養放牧に出すところを、ビワハヤヒデを東に残して過酷な調教を施した。この1993年は全深刻な米不足をもたらす冷となったため、房の前に氷柱を立てて扇風機を送れば暑さは気にならなかった。おかげで細かった体はになって見違えるような筋肉ムキムキ状態に。さらに、精面も十分に成長したからと、レース時にはそれまでトレードマークだったいメンコを外すようになった(これによりそれまでメンコでごまかされていた「頭の大きさ」が下に知れ渡ることになる)。

になってライバル二頭は順調さを欠き、菊花賞神戸新聞杯を楽勝したハヤヒデの一強ムード。実際、5身差で圧勝。初タイトルを手にしたのであった。直前にメジロマックイーンが負傷引退を余儀なくされたことで、最強伝説の後継者とされることにもなる。

その勢いのまま有馬記念へ。この年は「史上初のG18頭出走」というメンバーが売りとなったが、絶好調を維持してここに臨んだというは少なく、その中で3歳だが安定感抜群のビワハヤヒデが一番人気だった。ところがここでは一年も休んでいたトウカイテイオー走に交わされて二着。しかし、1年を通じての安定した高パフォーマンスが評価されて年度代表に選ばれている。

4歳になり、京都記念を圧勝すると、古戦線はビワハヤヒデ独裁体制と言って良い状態になっていた。天皇賞(春)ナリタタイシンを問題にせずに圧勝。しかしながら、このレースでは実況杉本清アナウンサーが「兄貴も強い!」と叫んでいた。

そう。一歳下のナリタブライアンがこの一週間前に圧倒的な強さで皐月賞を制し「三冠馬間違いし!」と言われていたのである。京都記念勝利のときも、同日に東京競馬場で開催される共同通信杯にナリタブライアンが出走登録しており1940年以来54年ぶりの「兄弟同日重賞制覇」がほぼ確実視されていたのだが、降のために東京競馬場レースが1日順延されこの記録は幻に終わった。この時点からいわゆる「兄弟対決」が噂されており、それはおそらくこの年暮れの有馬記念だろうと言われていた。

それからというもの、ナリタブライアンダービーを楽勝すれば、ビワハヤヒデが「涼しい顔をして」宝塚記念を楽勝。競馬ファンの期待は「ナリタブライアン三冠」と「ビワハヤヒデとナリタブライアン兄弟対決」に向けて最高潮。あれほどが待ち遠しかったはあんまりない。

オールカマーを楽勝したビワハヤヒデ。ナリタブライアン京都新聞杯で不覚を取り、無敵さ加減にやや影がしていたが、ビワハヤヒデの方は何の不安も秋の天皇賞に向かった。この翌週は菊花賞であり、兄弟してまた二週連続GⅠ制覇。そして有馬兄弟対決を!・・・と思ったのだが。

府中の直線。いつもならズズイっと大きな顔を伸ばしてくるビワハヤヒデが下がって行く。正直言ってそれはを疑うであった。勝ったのは、ハヤヒデが勝った菊花賞で心房細動を発症して殿負けしたネーハイシーザー。ビワハヤヒデは5着に敗れ生涯で初めて連対を外すと、レース後向こう正面で岡部騎手が地下を運ばず下。屈腱炎をレース中に発症していたのである。

ビワハヤヒデはそのまま引退兄弟対決と消えた。せめてもの救いは翌週の菊花賞ナリタブライアン三冠を達成し、杉本アナウンサーが「大丈夫だ!」と叫んだことだった。

15連続連対はシンザンに次ぐ記録である。勝ったレースは先行抜け出しの横綱相撲ばかりで特に古になってからは強過ぎて逆に印に残るレースがあんまりい。逆に、武騎手魔法のような好騎乗がった皐月賞柴田騎手の執念がを誘うダービートウカイテイオー奇跡の復活に日本中が沸いた有馬記念など負けたレースの方がドラマチックに扱われる事が多い。手な勝ちっぷりと古になってからのゴタゴタで話題が何かと多いべて地味な印が強い、何かと不憫な名であった。何しろファンにビワハヤヒデと言うと「ああ、あの顔のでかい」と言われてしまうのだ

としてはかなり大失敗であった。2005年に種引退

2020年7月21日未明、余生を送っていた日西牧場にて老衰により死去。享年30歳。グーグルアースで日西牧場を見ると、そこにはのんびりをを食む晩年のビワハヤヒデの姿が映されていた。


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最終更新日: 21/05/17 15:56
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