ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


フェルナンド・トーレス


ヨミ: フェルナンドトーレス
掲示板をミル!
50カキコ!

フェルナンド・トーレスFernando José Torres Sanz, 1984年3月20日 - )とは、スペイン師匠プロサッカー選手である。

アトレティコ・マドリードリヴァプールチェルシーなどでプレーし、2018年から2019年まではJ1リーグサガン鳥栖に所属。2019年8月23日をもって現役を引退

186cm78kg。ポジションはFW。利き足は右足。


概要


マドリード州のフエンラブラダ出身。称はエル・ニーニョ。インターネット上での称は師匠。最近は勝者とも呼ばれている。186cmと背が高く、スピードテクニックに優れている。トラップに関しては何も言わないであげてください。

アトレティコ・マドリーのユース育ちで15歳プロ契約。以来アトレティコ・マドリー徴的な選手だったが、2007年イングランドプレミアリーグリヴァプールに移籍。移籍1年にもかかわらずリーグ戦で24得点を記録し、端正な容姿も相まって大注される。

2010年1月イングランドプレミアリーグチェルシーへ移籍。移籍5000万ポンド。額が額だけに大活躍が期待されたが中々ゴールできず、チェルシーでのデビューから10試合にしてようやく初ゴール。時間にして903分15時であり、クラブのワースト記録となった。以降鳴かず飛ばずで師匠と揶揄されるまでに至っている。どうしてこうなった

2011年9月19日に行われたプレミアリーグ第5節のマンチェスター・ユナイテッド戦では、83分に味方からのスルーパスに反応。フェイントGKまでかわし、あとはボール人のゴールへ押し込めばいいだけの場面でトーレスの放ったシュートは枠外へ[動]。トーレスが全にネタキャラとなった間であった。

2013年には、チェルシーUEFAヨーロッパリーグ優勝に導き、これでヨーロッパの代表チームの2大タイトルであるワールドカップEURO、さらにヨーロッパクラブの2大タイトルであるUEFAチャンピオンズリーグUEFAヨーロッパリーグをすべて制した、現在の方式になって初めての選手となった。なおフアン・マタも達成している。なんならペドロ・ロドリゲスCLとELの決勝両方でゴールを決めている。


経歴



生い立ち


マドリードの労働者階級ので生まれ育ち、家族を大切にし、年長者を敬うように育てられた。祖アトレティコ・マドリードファンであったアトレティコファンになり、5歳のときにパルケ84というクラブに入団し、サッカーを始める。当初はと同じゴールキーパーだったが、を折った怪をしたときに母親からキーパーを辞めるように言われたことでFWにポジションを移す。

10歳のときにラージョ13の11歳以下のチームに移ると才が開し始め、1シーズン55ゴールを決める大活躍を見せる。これにより、同じチーム仲間二人とともにアトレティコトライアルを受け、合格する。

ちなみに、幼少の頃は日本アニメキャプテン翼』のをかなり受けている。


アトレティコ・マドリード時代


11歳になった1995年アトレティコ・マドリードの下部組織に入団し、アレビン(11歳から12歳カテゴリー)に所属する。その後も順調に成長を見せて下部組織のカテゴリーを昇格していく。1998年には、イタリア内外のUー15世代のクラブが争うナイキ・カップに出場。バルセロナACミランユヴェントスを破ってタイトルを獲得し、大会最優秀選手に選ばれる。その後、この年代の欧州最優秀選手に選出され、エリートというユース年代の日々を過ごす。

1999年15歳にしてアトレティコプロ契約を交わし、最初のシーズンはユースチームプレー16歳のときにトップチームに昇格。背番号は「9」を与えられ、クラブからの期待の大きさを物語っていた。当時、アトレティコはセグンダ・ディビジオンに所属していたが、脛の怪に苦しんだこともあり、2000年12月まで欠場。2001年5月27日のレガネス戦に途中出場し、17歳プロデビューを果たす。しかし、チームプリメーラ・ディビジオンへの昇格を逃す。

2001-02シーズンには、後にスペイン代表で共に戦うことになるルイス・アラゴネス監督が就任。才を買われて出場機会が増えるようになる。成績は36試合に出場して6得点というものだったが、チームはセグンダ・ディビジオン優勝を遂げ、プリメーラ・ディビジオンに昇格する。

初めてトップリーグカテゴリープレーすることとなった2002-03シーズンにいよいよ頭を現す。チームは昇格1年ということもあって低迷するが、自身は29試合に出場してチーム最多となる13得点を記録。アトレティコプリメーラ残留に貢献し、新たなクラブ徴として期待を集める。

2003-04シーズンは、19歳にしてチームキャプテンに任命される。名物会長と呼ばれ、悪名も高かったヘスス・ヒル会長が退任し、新たなサイクルに入ったアトレティコは、台頭してきた若きエースを中心にチームを作ることとなる。大きな責任を背負うこととなったトーレスだが、より一層の奮起を見せ、ゴールを量産。最終的に得点ランク3位に入る19ゴールを決め、チームも7位でシーズンを終える。この頃から「神の子エル・ニーニョ)」という呼び名が定着し、リーガ・エスパニョーラを代表するストライカーとして認知される。

2004-05シーズンは、初の欧州舞台でのプレーとなるUEFAインタートトカップに出場。準化粧のOFKベオグラード戦では、1ゴールずつを決める。しかし、決勝でビジャレアルに敗れ、UEFAカップ出場権を逃す。チームは例年よりもく始動したこともあってリーガでは不振が続くが、自身は少ないチャンスを逃して16ゴールを決める。アトレティコ徴となったトーレスに対し、ビッグクラブ触手を伸ばすようになり、2005年オフにはイングランドチェルシーが獲得に乗り出したが、エンリケ・センソ会長は「ノーチャンス」とこれを跳ね除けている。

2005-06シーズンクラブは大補強をおこない、アルゼンチンの名将カルロスビアン監督が就任し、期待を集めるが、チームは開幕から低調な出来が続く。自身も好不調の波のあるシーズンとなり、マキシロドリゲスが離脱した後は前線で孤立することが多くなる。それでも、13ゴールを決めるが、不満の残るシーズンとなった。

2006-07シーズンは、鳴り物入りで入団してきたアルゼンチンの新セルヒオ・アグエロと2トップを組むこととなる。2006年10月1日レアル・マドリード戦でゴールを決め、これまで一度もゴールを決めたことがなかった苦手のマドリード・ダービーで初めてゴールを決める。このシーズンは、PKの失敗が多かったが、最終的には15ゴールを記録し、プリメーラ昇格後5シーズン連続での二桁得点を達成。もっとも、チームはトーレスとアグエロの強2トップを活かし切れず、7位でシーズンを終了。2007年5月ホームFCバルセロナを相手に0-7と屈辱的な大敗を喫したことで、移籍を決断する。


リヴァプール時代


2007年7月4日マドリード記者会見を開き、イングランドプレミアリーグリヴァプールFCへの移籍を発表。するアトレティコサポーターに別れを告げる。リヴァプールは、アトレティコと同様に以前から応援していたクラブであり、当時スペイン代表のチームメイトであるシャビ・アロンソホセ・マヌエル・レイナが所属していることも決め手となった。背番号は、クラブレジェンドであるイアン・ラッシュが付けていた「9」となった。

8月11日アストン・ヴィラ戦でデビューを果たすと、8月19日アンフィールドでのチェルシー戦で前半16分に移籍後初ゴールを記録。シーズン前にあった懐疑的なをすぐに吹き飛ばし、飛ぶを落とす勢いでリヴァプールエースストライカーとしての地位を手にする。2008年2月23日のミドルブラ戦でハットトリックを達成。さらに2週間後の3月5日ウェストハム戦でもハットトリックを決める。結局、2007-08シーズンは、得点ランキング2位タイとなる24ゴールを記録。ルート・ファン・ニステルローイが保持していたプレミアリーグ初年度の得点記録を塗り替える大活躍となった。また、初挑戦となったUEFAチャンピオンズリーグでも、グループステージ初戦のFCポルト戦で2ゴールの活躍。2008年4月8日の準々決勝アーセナル戦では、2nd legでゴールを決め、チームを2シーズン連続でのベスト4進出へ導く。CLでも2位タイとなる6ゴールを記録。公式戦33ゴールを記録するキャリアハイシーズンとなった。

2年となった2008-09シーズンも開幕戦のサンダーランド戦で決勝ゴールを決め、順調なスタートを切った。だが、第3節のアストン・ヴィラ戦でハムストリングを負傷して離脱すると、このシーズンハムストリングの負傷を何度か繰り返す、怪に苦しむシーズンとなる。2008年10月22日にはCLで古巣アトレティコ・マドリードと対戦し、ビセンテ・カルデロンに凱旋するチャンスかと思われたが、負傷のために欠場となる。それでも、稼動していれば結果は残しており、マージサイドダービーマンチェスター・ダービーの両方でゴールを決め、CLでは2009年3月10日アトレティコ時代に苦手としていたレアル・マドリードとの1st legで先制ゴールを決め、ベスト8進出に貢献。2位に終わったものの、マンチェスター・ユナイテッドとのし優勝争いを演じたチームにあって、エースとしての仕事は全うした。

2009-10シーズンは、シャビ・アロンソレアル・マドリードへ移籍したこともあり、トーレスとスティーブン・ジェラードへの依存度が強いチームとなる。2009年9月ウェストハム戦の2ゴールハル・シティ戦のハットトリックゴールを量産。12月29日アストン・ヴィラ戦でのゴールによってクラブ速記録となるプレミアリーグ50得点に到達。しかし、2010年4月に膝を負傷し、手術を受けることになったため一足シーズンが終了。リーグ戦の出場は22試合にとどまったが、それでもチーム最多となる18ゴールを決め、公式戦トータルで22ゴールを記録している。

2010-11シーズンは、ラファエル・ベニテスからロイ・ホジソンに監督が代わり、イングランド式を導入するチームの中で孤立することが多くなりながら、結果は残していた。一方、経営が悪化していたリヴァプールは、フロントが変わり、資繰りのためエースであるトーレスをに売却することを決断する。一方、トーレスもシャビ・アロンソハビエル・マスチェラーノといった放出し、競争を失っていたチーム限界を感じ、移籍に心は揺れていた。


チェルシー時代


2011年1月31日という移籍マーケット最終日にチェルシーFCへの電撃移籍が発表される。移籍は当時のプレミアリーグ最高額となる5000万ポンドとされる。突然ライバルクラブへの移籍はリヴァプールサポータからの怒りを買い、「裏切者」と揶揄されることとなる。2月6日につい1週間前まで所属していたリヴァプール戦でデビューを果たすが、ここから今までのキャリアで経験したことのないスランプに陥り、デビューから初ゴールを記録するまで903分間もの時間を費やすこととなる。2010-11シーズン通算の得点数は10ゴールとなり、4年連続で二桁ゴールを達成するが、チェルシー移籍後の得点数はわずか1にとどまった。


次へ»
最終更新日: 20/08/04 19:56
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ