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フランス革命とは、フランスで起きた市民らによる「革命」である。1789の7月14日に、それは起こった。
独立に成功したアメリカ合衆国や、産業革命直前のイギリスが近代へと向かう中、フランスはブルボン朝による絶対君主制が依然として続いていた。ルイ14世から続く戦費による借金、ルイ15世治世期のバブル崩壊、アメリカ独立戦争への関与によって、フランスは見るも無残な赤字経済を辿っていく。
国民は、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民、といった具合で区別されていた。第一・第二の身分は免税や大土地所有権、加えてすべての要職を掌握し、年金まで支給された。これらだけでも酷い話だが、真に驚くべきは、人口における平民の割合は90%に達していた、という点。これが世にいう「アンシャン・レジーム(旧制度)」である。
多くの平民が領主への地代や税の負担に苦しむ中、もう一方で、商工業者たち有産市民層もまた、その富や実力に見合わぬ待遇に不満を抱き始める。
こうした中、シェイエスが『第三身分とは何か』と小冊子で謳い、また、ルソーやヴォルテールの旧体制への批判、アメリカの自由の風や、プロイセン、ロシアの啓蒙思想がフランスに吹き込んだ。
時の王ルイ16世は「もう平民からは増税できないよな、さすがに」と考え、テュルゴーやネッケルらによって劣勢を打破しようと試みるが、貴族階級から税を取り立てようとしたために、大反発を招き、失敗。逆に赤字を増やす始末であった。
▲国王ルイ16世はこの議会を主導し、国家の諸問題を解決しようと目論んでいたが、議決方法で第一・第二身分と第三身分が真っ向から対立した。
利害と立場が一致する第一・第二身分は、
つまり、第一・第二身分の部会が同じ議決なら、第三身分の部会が否決しても、2対1で可決されるということである。
当然ながら第一・第二身分は仲がよろしいので、両者はそろって第三身分の平民の議決に反対、必ず2対1の構図になるよう仕組むわけである。きたない。
※例
聖職者1人「じゃあ私はピザで(貴族さんたちフォロー頼むよ)」
聖職者1人「よし、平民の1票 対 聖職者と貴族の2票 でピザに決定」
対して第三身分の平民はというと、純粋に多数決を主張。立場ごとに議決を決めていては、上述の通り第一身分と第二身分が手を組むことは明白であったため、数に勝る平民たちはこれに反対、多数決を主張したのだ。
このような議決方法に対する討論は、40日にも及んだ。まったく議論が進まないと判断した平民は、この三部会に見切りをつけた。彼らは新たに自分たちだけの議会「国民議会」を発足させ、ヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集まった。
同時に、
と誓った。これが球戯場(テニスコート)の誓いである。
▲特権階級からも同調者が現れる中、まもなく国民議会が憲法の起草を開始した。国王ルイ16世と保守派の貴族はこれを武力弾圧しようと試みる。
他方、パンの高騰により苦しんでいた市民たちは、7月14日に、圧政の象徴とされる「バスティーユ牢」を襲撃した。これを機に農民の蜂起が国内で次々と沸き起こり、領主の館が徹底的に爆☆殺される。
8月4日、ちびった貴族層の中からは自由主義的な輩が現れ、国民議会に「領主の特権なんて無視したらどうや」と提案、それを無償で廃止させた。
近代社会の礎が産声を上げたのである。が、上記の法律の制定には国王の承認が必要だった。国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットはこれを認めず。結果、10月5日、パリの女性たちが武器を持って、雨の中ヴェルサイユ宮殿に乱入した。国王と議会に食糧を要求し、一部は暴徒と化した。この圧力に屈した涙目ルイ16世は、人権宣言を承認し、彼女らの手によってテュイルリー宮殿にお引っ越し。以後、ルイ16世一家は市民に監視された生活を送る。
▲「ちょっとあっち行こうか」
女性を先頭にヴェルサイユへ行進した市民は、反革命派の王族と共にパリへ移転した。1790年には教会財産を没収、営業の自由を確立し、市民による市民のための市民の政治を行っていった。
一方、貴族たちはというと、革命に恐れ戦いて亡命を始めていた。監視生活を続ける国王ルイ16世もまた、その例外ではなかった。妻のマリー・アントワネットの愛人の助けにより、国王一家はオーストリアへの亡命を試みる。
国境付近のヴァレンヌまで到達した一家は、かなしいかな、国民に見つかってしまう。国王は「売国奴」のレッテルを貼られ、パリへ連行(ヴァレンヌ逃亡事件)。1793年にはルイ16世は処刑されてしまう\(^o^)/。
……ていうか王様が連行って、どうなの。
▲彼の処刑から少し戻って、1791年10月、これ以上の革命を望まぬ立憲君主派と、共和政を主張するジロンド派が対立した。ジロンド派がこれに打ち勝つと、1792年には政権を掌握。
そして革命に反対するオーストリアに宣戦布告し、まもなく開戦した。が、士官に多くの王党派が含まれていたため、革命のために戦うつもりもなく、フランス軍の士気は低かった。
オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入すると、フランス国内から集った義勇軍は、1792年8月10日、フランスの王権を停止させた。8月10日事件である。
フランス軍は国境のヴァルミーにてプロイセン軍に勝利を収め、9月には男性普通選挙による国民公会が成立し、王政は廃止され、共和政が樹立された(第一共和政)。
▲国民公会で力をつけた、急進共和主義(言ってしまえば極左翼)のジャコバン派が台頭、フランス軍をベルギーへ進め、全ヨーロッパを敵にまわしてしまう(第一回対仏大同盟)。
なんとかして内外の危機を乗り越えたかったジャコバン派は、先に挙げたジロンド派が邪魔だったので追放。
ここで彼、ロベスピエールが登場する。彼を中心としたジャコバン派は、強大な権力を握る公安委員会を建てた。
言うこときかんやつはギロチン、政府の陰口をたたくやつもギロチン、反革命的な輩などはもっての他の大ギロチン。このように新政府にとって不要とされた人々の処刑は、滞りなく執行されたために、フランス全体の死者は瞬く間に膨張。なんと、その被害は20,000人にもおよんだ。たまげたなぁ。
外敵を一通り駆逐し終えた頃、フランスは小土地所有農民や、経済的自由を求める市民層が保守化、ロベスピエールへの不満を募らせる。1794年7月には、彼は支持と権力を失い、ギロチンされた。仕方ないね。
▲1799年、ナポレオン・ボナパルトが時の政府、総裁政府を打倒し、3人の統領からなる総統政府(実際はナポレオン主導)が樹立。
かくして急激に左へと傾いたフランスは、彼の手により、いや、図らずしも、右へ右へと軌道を修正し、のちにフランス帝国(ボナパルト朝)の台頭を誘発する。
▲有産市民層の一人勝ち。
無産市民は依然変わらず(あるいは改善されたか?)の農奴的生活に甘んじ、貴族・聖職者などの特権階級は大幅に領地と権威を失墜させ没落、というように揺れ動いた。
大雑把にいってしまえば、たとえ王さまが死のうと自由になろうと、独裁者は現れる、ということである。というかルイ16世よりもロベスピエールの方が怖かった。急激な改革の後に来るのは、やはり急速な保守化運動であった。
革命の波は、後々になってナポレオン戦争により欧州に行き渡り、ギリシャなどのバルカン諸国の独立をいっそう促した。これが、栄光もすでに久しい「重症」のオスマン帝国への追い打ちとなり、エジプトの独立や、「民族意識」などからくる「東方問題」へと発展する――そんな遠因を孕ませた。
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