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マルゼンスキー


ヨミ: マルゼンスキー
掲示板をミル!
54カキコ!

マルゼンスキーとは、日本競走馬、種であったサラブレッドである。称はスーパーカー


概要


戦績は8戦8勝。生涯敗で現役を終え、今なお、日本競馬界での最強の一頭と言われる事も少なくない。
勝利の中に重賞が二つ(府中3歳Sは、後に重賞に格上げ)含まれる。
敗とは言え重賞は二勝と、戦績だけ見るとやや地味に感じられがちだが、レースの2着との合計着差が61という勝ちっぷり。そして後述するレースあまりにチート過ぎた内容から、競走馬としてのがずば抜けていたことは疑いようもない事実だろう。
また、マルゼンスキーがあまりに強かったため、マルゼンスキーが出走を決めたレースを回避・キャンセルするが続出、中にはほとんどのが回避してしまいレース自体が不成立寸前になった事もある。
その拠に、マルゼンスキーの出たレースは、全てのレースが10頭未満であった。


 競走馬として


は当時の世界的大種ニジンスキーは、ニジンスキーと非常に相性の良いニックス配合と言われたバックパサーこの時点で既にチートである。
例えて言うなら、「中学校野球部に現役バリバリイチローがいきなり入部してきた」ようなもんである。
そのニジンスキーの直として持ち込み母親海外で交配され、妊娠してから日本へ入日本で生まれたの事)の立場で走り始めたマルゼンスキーは、前脚の向きが外を向いていため、いつ故障するからわからない、いわば爆弾を抱えたままデビューすることになった。

その脚の状態から、マルゼンスキーは満足調教もできず、常にセーブしながら、調整を続けられた。
しかし、そのような関係者の心配とは裏に、マルゼンスキーは新戦から圧勝を続ける。持って生まれたスピードが違うためか、普通レースに走るだけで、スタートから周りのがついてこれず、結果として「逃げるつもりはないのに逃げる形になって、そのまま々とゴールというレースが繰り返された。


評価を高めたレース


結果として引退を余儀なくされたマルゼンスキーが、それでも最強の一頭と挙げられるにいたる要因として、次の3つのレースが挙げられる。

.朝日杯3歳S(現:朝日杯FS)

前走の府中3歳S(現:東京スポーツ杯2歳S)で、ヒシスピードハナ差で下したマルゼンスキー営は、調教不足のため接戦に持ち込まれたという反から、初めて(かつ、競走馬として一の)一杯の調教を積み、体調を万全に整えた上で朝日杯3歳S(現:朝日杯FS)に臨むことになった。
そして当日のレースでは、いつも通りスタートからすぐに先頭を奪うと、4コーナーまで後続に影も踏ませず、それどころか直線では2着のヒシスピード以下を突き放す一方となり、ゴール地点では2.2の着差(13身以上の大差勝ち)、レースレコードを1以上短縮する1.34.4というレコードタイム叩き出し、大楽勝劇となってしまった。
なお、二着に入ったヒシスピードも、3着以下に3・1/2身という大きな着差をつけており、マルゼンスキーを抜きにして考えれば、このが圧勝で3歳(現2歳)チャンピオンいていたレース内容であった。マルゼンスキーは、そういったライバル達の、か前方でゴールを駆け抜けてしまったのである。

しかもこの時、上の中野渡騎手ムチを入れておらず、レース後に「本気で追ったら、あとふたつ(2)は縮まったはず」とまで言っている。当時の馬場現在より2以上時計がかかる状態だったので現在中山競馬場で走ったとしたら1.30.0を切る計算になる。なんだそれ。

当時はまだグレード制は導入されておらず、厳密にはGIではかった。とは言え、関東所属の3歳(現2歳)がその時点での世代王者を決めるレース関西で行われていたのは阪神3歳S。現在阪神ジュベナイルフィリーズだが、当時は混合戦だった)であった事には間違いなく、そのような大レースで、レース中継のカメラが思いっきり引いて撮らないと、後続のカメラ内に入りきらないというレースぶりは、見ている者にも、競馬関係者にも衝撃的でさえあった。ありえん


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2.日本短波賞(現:ラジオNIKKEI賞) ※当時は中山競馬場で開催

このレースでも先頭を走っていたマルゼンスキーは、4コーナーの手前から突然減速し、後続との差を一気に詰められた。故障発生を予感させる不自然な減速に、実況でも「なんか止まった!」と言われたが、後続に並べかけられた間、再び加速し、4コーナー出口からは突き放すのみ。終わってみれば、7身差といつも通りの圧勝だった。

これは、レース前の練習(返し)の際、上の中野渡騎手が、4コーナー付近で一度止まり、馬場を確認した事を覚えていて、マルゼンスキーが自発的に止まろうとしたともいわれる。

この時の2着が、後の菊花賞を制し、いくつもの重賞を勝ったプレストウコウであったこと、加速がしにくい不良馬場という中で、4コーナーからゴールまでの正味数メートルで7身差つけてしまったこと、そして何より、一度止まろうとしてから再加速する心肺的・速度的な不利を生じさせておきながら、他の子ども扱いする圧勝をしてしまったことで、「遊んで勝った」とまで言われた。またもやありえん

このレースは、(予想としてはイマイチだが)競馬関連のデータにおいては日本の知識を持つ井崎脩五郎氏をして日本競馬史上一、重賞を遊んで大楽勝したと言わしめ、井崎氏が考える歴代最強補の1頭に挙げる理由となっている。

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3.短距離S

結果として生涯最後のレースとなったこのレースは、ダート1200mであった。
生涯初めてのダート戦、生涯初めての古との混合戦。そんな不安な条件の中、マルゼンスキーはここでも10身差の圧勝を収めた。本来ダートは芝のレースより速度差がつきにくく、さらに当レースは古とのオープン戦であるため、古の中からダートの実が出てくる以上、4歳(現3歳)にとっては年齢的な不利もあり、着差がハデに開く事は考えにくい。
また、このレースでは前述した同世代のヒシスピード(既に他のレースで重賞を制覇している)、芝・ダート不問の走りを見せ、生涯で重賞6勝を挙げた古の実・ヤマブキオーが出走しており、決してレベルが低いメンバーだったわけではない。
しかも、1200mというスプリント戦である以上、常識的に考えると、そもそもレース全体の距離としてリードを作るための物理的余裕もないはずであった。
実際、当時よりスピード化が増している現在でも「『ダート1200m・中央の古オープン戦』で、古の重賞相手に、3歳が10身差で勝つ」などと言うと、多少競馬の知識があるファンなら、「ご冗談を」「それなんてゲーム世界?」というような返答が返ってくるだろう。ところが、そんな常識を覆してしまう走りを、マルゼンスキーはやってのけてしまったのである。やはりありえん

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不運 


しかし、マルゼンスキーは持ち込みであったがゆえに、当時の規定から、多くのレース(後にGIに定されるようなレース)に出る事が出来なかった。その中には、クラシック競走も含まれており、ついに世代を代表するクラシックレースでマルゼンスキーを見ることはできなかった。
その遇に、上の中野渡騎手
28頭立ての大外でもいい。賞もいらない。他のの邪魔もしない。だからマルゼンスキーを日本ダービーで走らせてくれ。そうすれば、どのが一番強いかわかる」

と周囲に漏らしたといわれる。

以降、有馬記念などで、古トップレベルの戦いを期待されたが、4歳(現3歳)のを前にして、遂に脚の爆弾爆発。故障を発生してしまい、引退に追い込まれた。


同世代の悲劇


本来、競馬界で「同世代の悲劇」と表現されるものは、「実があるのに、勝ち切れなかったす事がほとんどである。 しかし、マルゼンスキーに関連したは、別の形での同世代の悲劇を味わう事になった。

マルゼンスキーのクラシックレースは、皐月賞ハードバージ日本ダービーラッキールーラ菊花賞プレストウコウが、それぞれ制しているのだが、
レースぶりが鮮過ぎたにも関わらず、クラシックに出走できなかったためマルゼンスキーへの同情論が根強かった。
・三頭のうち、プレストウコウがマルゼンスキーに敗してしまっており、この年のクラシックレース自体が「(マルゼンスキーの)敗者復活レースと揶揄されるほどだった。
・上の世代が、いわゆるやかなTTG三強世代であり、ハードバージ以下の活躍が余計にその陰に隠れてしまった。

と、上記の三頭はクラシックレース勝利していながら(特にプレストウコウは、後に最優秀四歳に選出されている)、 他になかなか例を挙げられないほど、低い評価に留まってしまった。
その低評価は、引退後もついてまわり、常にマルゼンスキーと較され続ける中、良質な肌わず種付け頭数が低迷を続け、次々に種として見切りをつけられてしまう。ラッキールーラプレストウコウ韓国に輸出される事で、一応種生活は続いたが、 ハードバージの種引退後のあまりに悲惨過ぎる末路は、新聞記事で取り上げられたほどであった。ただし、その末路はただ意味だったわけではなく、中央競馬会への競走馬保護への批判のうねりへと繋がり、そして、後に大レースを制したの養老施設や、引退後の助成システムが生みだされる契機となっている。
このように(マルゼンスキーに全く罪はいのだが)、この世代は、勝利の栄冠を手にしたにも関わらず、悲劇的な評価を被ったとして、マルゼンスキーとは別の形の不運を背負った世代として記憶されている。


種牡馬として


としても
ニシスキー朝日杯3歳S
サクラチヨノオー朝日杯3歳S日本ダービー
スズカコバン宝塚記念
ホリスキー菊花賞
レオダーバン(菊花賞
ダイカツストーム中山大障害
サクラトウコウ(重賞3勝・種としてG1を輩出)
など数々のGI・重賞を輩出。
特にサクラチヨノオーは自身の出走がわなかった日本ダービーを制覇し、見事念をらした。

また、としてもライスシャワーウイニングチケットメジロブライトスペシャルウィークサクラプレジデントロイヤルタッチボンネビルレコードといった活躍を多数輩出し、BMSリーディングでも10年以上上位に入り続ける成績を上げた。

孫世代になると、
ホリスキーサクラチヨノオーは重賞勝ちを複数輩出し
スズカコバン競馬などダートを中心に活躍
中でもサクラトウコウ産駒のネーハイシーザー天皇賞優勝し、孫世代からもG1が誕生する
としてもも見せた。

現在2019年3月時点)、系としての子孫はクラグオーのみであり勢は非常に小さな物になってしまったが、祖スズカコバンクラキングオーと共にクラグオー産駒のダート路線の活躍とその血をさらに代々繋がる事を期待したい。


引退後の評価


との対決がほとんどかった事、レースが全て1800m以下であった事から、そのスピードが、古G1に多い、2000mをえる要なレースで発揮されたかどうかは疑問が残る。
とは言え、圧勝に次ぐ圧勝で、スピードが非常に高い事を示した事、実際にどのレースタイムとしては圧倒的に優秀だった事から、長距離はともかく、中距離以下では間違いなく、一級の実を持っていたというところで衆は一致している。

あまりの強さと人気ぶりに産地ではニジンスキーブームが到来、マルゼンスキー自身の種人気はもちろんのこと、代用種人気も沸騰した。代表格はヤマニンスキーとラシアンルーブルで、ヤマニンスキー皐月賞天皇賞(秋)優勝ヤエノムテキオークス優勝ライトカラーに加えてまでマルゼンスキーと血統が同じというラシアンルーブルオークス優勝・イソノルーブルを誕生させている。

なお、マルゼンスキーが被った、持ち込みゆえの一連の規制については、マルゼンスキー引退直後から、ファンから疑問のが高まっていき、同時に急速に規制訂へ動き出す事になった。そして間もなく、持ち込みクラシック他、多くの重賞参加への門が開かれたのである。このように、マルゼンスキーが競馬界のシステムについて一石を投じ、そしてその流れを変えた事は、競馬界全体において決して小さくない功績だったと言えよう。

 


「さようなら マルゼンスキー   り継ごう お前の強さを」

 


引退式の時にファンが用意した横断幕で、マルゼンスキーを伝える名文句として有名なものである
※当時、引退式にまで横断幕が作られる事はほとんどかった。それだけ、マルゼンスキーの引退を惜しむが高かった事を示すエピソードと言える。


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最終更新日: 19/03/20 22:01
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