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メガラニカ


ヨミ: メガラニカ

メガラニカとは、


概要


 古代ギリシアにおいてその存在が提唱され、その後、18世紀後半に至るまでその存在が信じられていた、地球の最も南に位置するとされた巨大な大陸の名である。南極大陸の事のように思われるかもしれないが、位置関係以外はほぼ別物ともいうべき代物。当然ながら現実には存在しない。

 仮説の上での大陸ながら、未発見なだけで実在するものと長らく信じられ、地図にもまるで存在して当然と言わんばかりに描かれ続けた。そのうち、肥沃で先住民は善良で溢れんばかりの富が々などと話に尾ひれが付いていったり、ただの南方大陸と誤認したり、まぁ色々とあったのだが、最終的にはキャプテンクックことジェームズクックの行った航によって、その存在は否定された。


名称について


 古くからの呼び名は、テッラ・アウストラーリス(ラテン語Terra Australis)テッラは『土地』『大陸』など、アウストラリスは『南の』『南方の』を意味する。未発見であることを明示する場合には、テッラ・アウストラーリス・インコグニタ(ラテン語Terra Australis Incognita)とも呼ばれた。インコグニタは『未知の』『未調の』などを意味する形容詞である。日本では簡略化して、テラ・アウストラリステラ・オーストラリスなどとも呼ばれる。

 メガラニカ(Magallanica)という呼称は世界周航で有名なフェルディナンド・マゼランに由来する。マゼランの発見したフエゴが、当初ではなく未知の南方大陸の一部であると誤認されたことから、マゼランの名にちなんで付けられた。以後、テッラ・アウストラーリスとメガラニカ(テッラ・メガラニカ)という2つの呼称が行して使われるようになるが、日本では、中国から日本にもたらされたいくつかの資料において、メガラニカの呼称が使われていることから、こちらの名で呼ぶことが多い。

 余談ながら、テッラ・アウストラーリスはオーストラリアである。南方大陸の存在が否定された後、現在オーストラリア大陸にテッラ・アウストラーリスの名が受け継がれ、後にそれが変化してオーストラリアになった。


歴史


 テッラ・アウストラーリスのはっきりした起めると、おそらくここに行きつくと思われる。

 大地が球体であるとする説は、ピュタゴラスらをはじめとする初期ギリシア哲学者によって既に提唱されており、また、東西と移動する太陽の動きにより、もし球体説が正しいとした場合、既知の陸地は北半球に存在することになることも知られていた。一方で、南半球の陸地についてはほとんど知られていなかった。

 紀元2世紀、クラウディオス・プトレマイオスは、大地が球体であることを前提とした上で、『陸地が北半球に偏っているのはおかしい、南半球にも同じくらい広い大陸があるはずだ!』と考えた。彼の著書『地理学』によると、インド洋は内海であり、その南に未知の大陸が広がり、アフリカ大陸から東南アジアと地続きになっているらしく、それに基づいた地図も附属していた(プトレマイオス)。このモデルは、後のテッラ・アウストラーリスとは色々と異なるものの、北半球大陸釣り合うだけの大きさの南大陸というアイディアは後世に受け継がれた。

 テッラ・アウストラーリスの名の直接的な由来となっているのは、大作家キケロの著書『スキピオの夢』においてであると考えられている。彼はその中で南側の人類居住地域をキングルス・アウストラリス(ラテン語Cingulus Australis)、『南の地域』と呼び、それが含まれる土地をTerra Australisとした。

 ちなみに、『世界の北と南それぞれに人類の居住可地域があり、それらは灼熱ので分断されて決して交わることができない』なんて考え方もあったらしい。 

 ローマ時代の末期からしばらくの間は南方大陸の事はすっかり忘れ去られ、既知の地理しか地図に現れなくなる期間が続く。

 1213世紀頃からギリシア哲学が再び徐々に広まるようになるとともにプトレマイオス図も再評価され、ルネサンスっただ中の15世紀末頃の地図には、南方大陸の描写が見られる。南方大陸に取り囲まれる形でインド洋が南海になっているものや、あるいは全にアフリカ・ユーラシア大陸とは分断された南大陸が描かれているものなどがある。

 15世紀末アメリカ大陸が発見されると、これ以降テッラ・アウストラーリスは、アメリカ大陸も含めた全世界南方一体を占める巨大な大陸として描かれていたり、南アメリカ大陸の南端部に接するように描かれたりとバリエーションが増えてくる。 

 1520年、世界周航に出ていたマゼランの艦隊がマゼラン峡を航行中、南方に向かって広がる陸地を発見。これこそが長年未発見となっていたテッラ・アウストラーリスに違いないとされ、これ以降テッラ・アウストラーリスはメガラニカの別名でも呼ばれることになる。結局この土地は現在ではフエゴと呼ばれているただのであり、南方大陸にはつながっていないことが1578年にフランシス・ドレークによって明らかにされるが、これに限らずこの時期は南半球で新たな陸地が見つかればそれが南方大陸の一部とされ、後にそれが誤りであると判明するといった事が繰り返された。例えば1526年に見つかったニューギニアも当初は南方大陸の一部とされた。 

 マゼランによる発見以後、南方大陸を含んだ世界地図はより一層数多く描かれた。その中にはメルカトル図法で有名なゲラルドゥス・メルカトルなどもいる。彼の地図では南方大陸が、南半球の大部分を埋め尽くし、半島大陸の端がインドネシアや南アメリカ大陸と接する巨大な大陸として描かれた(余談だが、この時の彼の地図には同じく伝説とされた北極大陸も描かれていたりする。他の作家地図にもそういったものはある。アブラハム・オルテリウス製作地図とか)

 地球儀製作された。史上初めて南方大陸を含んだ地球儀製作したのはヨハネス・シェーナーなる人物とされる。彼は南方大陸ブラシリアエ・アウストラリス(ラテン語Brasiliae Australis)、『ブラジルの南』と呼び、

南方大陸の連中は文字も持ってないし、王もいない、ただ長老を敬って言いなりになっているようなやつらだけど、すげえいいやつら。よその人食い野蛮人とは違うね』

 と、どっから仕入れたか分からん解説をしている。地図作家オロンス・フィネは、自身製作地球儀にて南方大陸を『テッラ・アウストラーリス 全に知られたわけではないが、最近発見された(ラテン語TERRA AVSTRALIS RECENTER INVENTA SED NONDUM PLENE COGNITA)』と、実在のものとして扱った。

 1597年には、コーネリアスワイトフリートなる地図作家南方大陸を以下のように解説している。 

『アウストラリス南極圏の下からのすぐ下まで広がっている、他のどこよりも一番南にある土地だよ。ニューギニアギニアソロモンと隣接しているよ。暴のせいで一部の海岸線しか見つけられていないけど、いつか全部明らかになれば5つめの大陸になるよ』

 5つめの大陸とあるが、当時まだオーストラリア大陸は未発見であった。が、すぐにそれは発見されることになる。 

 1606年、オランダインド会社のウィレム・ヤンスゾーンオーストラリア大陸北東部にあるヨーク半島を発見。その海岸線図に記録した。同年には、ポルトガル人のペドロ・フェルナンデス・デ・キロス率いる、メガラニカ探検に一指揮官として参加していたルイスバーエス・デ・トーレスが、ニューギニアヨーク半島を隔てる峡を発見し、ニューギニア南方大陸の一部ではなくであることを明した(この峡は後にトレス峡と名前が付けられた)。さらに1642年、オランダインド会社で勤務していたアベル・タスマンがオーストラリア大陸西海を回ってタスマニアに到達し、1646年にはニュージーランドを発見した。これら一連の発見がまさしく南方大陸の発見であると見なされ、これ以降、南方大陸は正式に実在大陸と見なされるようになった。 

 1762年、マニラの戦いで勝利したイギリス軍が押収した文書を読んでいたアレクサンダー・ダリンプルは、メガラニカについての次のような記述を見つけた。 

『これまで見つかっている南方大陸の東から西までの範囲だと、住民の数は5000万人くらい、大陸の大きさは中国からトルコあたりくらいまで、アジアなんかじゃないでかさだね。イギリスをより今のところヨーロッパとの交易はないけど、イギリスをより強固するには十分な資の量だ、インカみたいにな!』 

(※筆者がここの原文うまく訳せなかったのでかなり簡略化しております。本当にごめんなさい)

  これを元に出版されたダリンプルの著作はイギリス内で大評判となり、未だ全貌が明らかではない南方大陸の富をめて、王立協会はキャプテンクックことジェームズクックに、『南太平洋を航して伝説南方大陸ことテッラ・アウストラーリスを探し出せ』と秘密を出した。

 176910クックニュージーランドに到達し、測量を行った結果、ニュージーランド南方大陸にはつながっていないであることを突き止めた。次にクックは、タスマニアしたが、暴で北に流された結果、偶然にもオーストラリア大陸東海にたどり着いた。この測量の結果、南方大陸と思われていた大陸の東西の海岸線の位置が明らかになるとともに、『大陸には違いないだろうが、そんな大きなものではない。まだすべての海岸線明らかになったわけではないが、これが伝説南方大陸である可性は低い』と結論付けられた。こうしてメガラニカは再び未発見に戻された。

 しかしながら、きっともっと南に伝説大陸があるはずと考える往生際の悪い人々は少なからずおり、意地汚い王立協会は、めてクックにメガラニカの発見を依頼した。 

 1772アフリカ大陸の南端から出港したクックは、これまでも航したことのないような高い南緯のを就航し、1773年にはヨーロッパ人初の南極圏突入を果たす。帆船で! 

(ちなみに南半球の高緯度のは俗にえる40度、狂う50度、絶叫する60度と呼ばれる暴高波世界であり、南極圏に入ればそこに流氷と氷山と濃霧極寒が加わる) 

 クック南極大陸まであと100km少々の地点までたどり着くも、大量の氷に行く手を阻まれたところに食料の備蓄が尽きはじめ、船員に壊血病が発生するなどしたため、それ以上の南下を諦めた。この時クックは南緯70度をえるところまで到達していた。タヒチで補給を済ませたクックは帰の途につくが、その前に南緯50度から55度のをぐるりと周り、ついでに未発見のをいくつか発見したあと、この緯度までには伝説大陸が存在しないことを確認した。

 この航でのクックの記録をざっくり要約すると次のようになる。 

『人が住める範囲に大陸なんかねーよ。あるとしたらが進んだところよりももっと南だろうけど、そこは氷しかない、何の値打ちもない土地だよ。探すだけ無駄無駄』 

 クックが探検し切れなかった領域は未探領域として残されたが、もはやかつて想像されていた、肥沃で富に溢れた伝説南方大陸が収まるような広さは残っておらず、その存在は全に否定されることになった。

 一方でクックは、南極圏突入時に見た氷の形から、これは大陸のような広い陸地の上に乗っていた氷が流れてきたに違いないと考え、さらに南下すればおそらく大陸があるだろうとは予測していた。ただし、人の住めない不毛の大陸であることも分かった上でのことであるが。

 この予想は正しく、後の未探領域探検でついに南極大陸が発見されることになるが、それはクック南極圏に突入してからおよそ50年後の出来事である。キャプテンクックの偉業に敬礼


南極大陸との関係


世界最南端の大陸という一共通する点から、南極大陸と混同されることがあるが、上で述べてきた通り、両者は関連性のほとんどないまったくの別物である。メガラニカはあくまで仮説として考案された大陸であり、それも当初の仮説通り、北半球釣り合うだけの大きさの大陸となると、ユーラシア大陸アフリカ大陸を合わせたくらいの大きさは必要である。言うまでもなく南極大陸にそこまでの大きさはない。それでもあえて関連付けるなら、せいぜい、『かつてメガラニカがあるとされた地域にたまたま南極大陸が見つかったよ、偶然だね』程度の関係しかない。


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最終更新日: 19/08/27 11:32
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