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ラフィアン(Ruffian)とは、アメリカの元競走馬である。
凄まじいスピードと強さを発揮し全米の競馬ファンを歓喜させ、あまりに悲しき最期がアメリカ競馬界を変え、とある男の与太話の種相馬眼の証明となった馬。20世紀のアメリカ名馬100選では牝馬では最高の35位に選定されている。
馬名は悪漢、ならず者の意。牝馬である彼女から汲めば、じゃじゃ馬がふさわしいか。ヤッテヤルデス!
父はアメリカの大種牡馬にして独自血統の祖であるBold Ruler(ボールドルーラー)の子Reviewer(レビューワー)、母Shenanigans(シェナニガンズ)は22戦して3勝したがステークスウィナーになれなかった。母の父はNative Dancer(ネイティヴダンサー)という血統である。ラフィアンもネイティヴダンサー隔世遺伝の法則に当てはまったのかもしれない。
ラフィアンは名前に反して非常に従順で我慢強い馬だったという。また、牡馬と見間違えるほどの大型の馬だったので、競馬関係者「彼はなんという名前の馬ですか?」厩務員「彼女の名前はラフィアンです」とやんわり訂正するといったエピソードも残されている。
しかしデカすぎたせいか鈍重と思われ、生まれたクレイボーンファームでは当初期待は大きくなかったという。
実際は馬なりで3ハロン35.8を叩き出し、担当の攻め馬手をひっくり返らせるとんでもない馬だったが。
デビュー戦は大型の馬体が太目に思われたのか「こんな豚に金賭けたバカいるんですか!?溝に捨ててるようなもんじゃないですか!」という安い煽りをした人間もいたらしく2番人気になったが、15馬身ちぎって競馬場レコードタイで勝利した。煽った人間がどう思ったかは知らない。
新馬戦と同条件のGⅢで迎えた二戦目もレコードタイ、三戦目はRaise a Native(レイズアネイティヴ)が記録したレコードに0.2秒に迫るタイムで9馬身差圧勝、続くGⅠ二連戦も圧勝。
ここで球節を骨折し休養となったが、ここまでにつけた着差がなんと5戦で45馬身、1戦あたり9馬身である。なんじゃこりゃ。ラフィアンは牝馬のセクレタリアトと噂されるようになっていた。
骨折したのは8月末だったが、最優秀2歳牝馬に選定された。そらそうよな。
ちなみにこのまま2歳戦を予定通りのローテで無敗で駆け抜けた場合、年度代表馬選定すらあり得たと言われている。前例としてはセクレタリアト、後年にも欧州のアラジとかフェイヴァリットトリックの例もあるのでありえない話ではない。
でも当年の年度代表馬フォアゴーに本当に投票で勝てたんだろうか。
骨折明けはやや気性がキツくなって拒むようなところが出ていたが、じっくりそのへんをほぐし、復帰に向けて調教を積んだ。
満を持して3歳の4月に復帰するとアローワンスとGⅢを楽勝。復帰2戦目のGⅢが終わった後主戦のヴァスケス騎手はケンタッキーダービーでラフィアン同様に無敗の最優秀2歳牡馬に輝いていたFoolish Pleasure(フーリッシュプレジャー)に乗るべくチャーチルダウンズに旅立ち、彼を勝ちに導くとすぐにとんぼ返りして来たという。
「ラフィアンから離れて過ごすなんてまっぴらごめんですからね!」というのはヴァスケス騎手の弁である。
この結果に完全復活の手応えを得た陣営は、ニューヨーク牝馬三冠レースであるエイコーンステークス・マザーグースステークス・CCAオークスへ出走させる。
2歳戦と様子見のレースは全て1400m以下であり、8ハロン(約1600m)・9ハロン(約1800m)・12ハロン(約2400m)のニューヨーク牝馬三冠はどうか?という声もあるにはあった。
が、初戦のエイコーンステークスでは猛烈に競りかけてきた相手をスピードで圧倒し8馬身+レースレコード樹立、
二戦目のマザーグースステークスは距離延長と将来を考えてスピード任せの大逃げではなくスローめに入っての溜め逃げを実践、彼女は生来の賢さと我慢強さで対応。三角付近で仕掛けると一気にちぎり13馬身半+レースレコード、
CCAオークスは再びスピード任せに大きく前に出ると、これまた次の次元に上がるための課題として相手が仕掛けてくるまでゴーサインを堪え、相手の仕掛けを見て満を持して仕掛けると一気に抜け出すが、流石に距離があったか2馬身3/4差まで迫られたが並びかけるどころか影も一切踏ませずレースレコードタイで勝利。
イメージ的にはサイレンススズカの毎日王冠みたいなものだろうか。それを12ハロンでやられたらライバルたちはどうしようもない。
とまあぐうの音もでない完全勝利でトリプルティアラ獲得である。競馬ファンは歓喜し、牡馬にも挑んでくれ!という声はより強まった。
マザーグースステークスの時計は二年前に同じコースで快速で愛されたRiva Ridge(リヴァリッジ)が出した時計と0.8秒差の猛烈なものだったし、CCAオークスのレコードタイとなった2:27:8は後世10ハロン(約2000m)に短縮するまで並ぶものも出ず、同年のベルモントステークスでフーリッシュプレジャーとAvatar(アヴァター)の一騎討ちの末のタイムである2:28:2より0.4秒速い時計であった。
そのため、牡馬クラシック走ってた連中でもぶっ飛ばせるという声も上がっていたし、CCAオークスはセクレタリアト同様に最初から最後まで全力疾走したら2:24:0の時計に迫ったのでは?いや更新したんじゃない?とさえ言われていた。
シアトルスルー「ないです。」アファームド「いやーキツイっす(素)」
前述のようなラフィアン>>>他の3歳牡馬という見方をファンがするようになった背景としては、ブラッドホース誌などマスコミが「ラフィアンに勝たなきゃダービー馬だろうが無価値、果たして牡馬の皆さんはこの偉大な逃亡者に追いつくことが出来るのでしょうか?」などとセンセーショナルに煽り立てたのもあるが
その当時、このセクションのタイトルに据えた「性別間の戦い」と銘打たれたエキシビションでテニスの4大大会を39回勝った当時最強の女子テニスプレイヤー、ビリー・ジーン・キングが4大大会6回優勝の男子プレイヤーボビー・リグスを破った記憶がまだ新しい時期で、性差を超えた女王というものがイメージしやすかったというのはあった。
アメリカ競馬においては牝馬がケンタッキーダービーを勝った例は当時だと今でいうフロリダダービー程の格すらないローカルレースだった時代の1915年まで遡らねばならないほどで実はそんなに牡馬を超越した女王の例がない。
2000年代以降競馬は名牝の時代と言えるが中距離以上、いわゆる王道路線を制圧した例はアメリカではほぼないに等しい。
BCクラシックを勝ったゼニヤッタやプリークネスステークス・ハスケル招待・ウッドウォードステークスを勝ったレイチェルアレクサンドラも軸足は牝馬限定戦にあり、ブエナビスタやアーモンドアイ、ファウンドやエネイブルのように牡馬混合戦に軸足を置くことはなかった。
理由としては芝も含めて牝馬限定路線がガッチリ整備されており、牝馬は牡馬に挑む場合古馬も含めたすべての有力牝馬を叩き潰してやることがないので満を持して挑む、というのが定例化していた。
ダートで必要なパワーやスピードを支えるスタミナ・体の強さが芝レースより必要というのはあるかもしれない。
そのため顕彰馬の名牝でも王道路線において対牡馬で圧倒的だった牝馬はそう多くない。しかし、ラフィアンはそれを破壊するに足るスピードがある、牝馬のセクレタリアトだ!競馬界のビリー・ジーン・キングになれる!さあ今すぐ行け!という期待が集まってしまったのだ。
ところでこの年の牡馬三冠は三冠を前述のケンタッキーダービー馬フーリッシュプレジャー、プリークネスステークス馬Master Derby(マスターダービー)、ベルモントステークス馬アヴァターの三頭で分け合う形となっていた。ニューヨーク競馬協会(NYRA)は盛り上がっていい興行になると感じたか「決勝戦だ!決勝戦をやろう!」とRace of Championsという企画をぶち上げて各陣営に打診した。
しかしベルモントステークス馬アヴァターの陣営が「すまん、スワップスステークス出るから地元帰るわ!」と拒否して西海岸に引っ込んでしまったため、
NYRAは興行を盛り上げるべくトリプルティアラを達成したラフィアンを代役に招くことにしたのだが、今度はプリークネスステークス馬マスターダービー陣営が「牝馬とやりたくない」と拒否。…と日本の文献では言われるが、実際はモンマスパーク競馬場が横槍出して先にラフィアンVSフーリッシュプレジャーの40万ドル勝者総取りマッチレースで企画を立てて横取りしようとしたため
NYRAが「すまん、ウチもマッチレースに切り替える!迷惑料で5万ドル払うから招待取り消しで納得してくれ!」と言って辞退してもらったのが本当のところらしい。招待した側からやっぱ招待しねぇから迷惑料で納得しろと言うのはなかなかない話である。
結局ラフィアンとフーリッシュプレジャーの陣営を口説き落として世紀のマッチレースを招致成功したのはNYRAだった。
当初の企画とは趣が変わったがケンタッキーダービー馬VSトリプルティアラの女王による、ベルモントパーク2000mを舞台とした世紀のマッチレース開催が決まったのであった。NYRA安堵。
ちなみにマスターダービーではなくフーリッシュプレジャーが選ばれたのはケンタッキーダービー馬というのはもちろん、前述した通り2歳時に7戦無敗で最優秀2歳牡馬を受賞していて最優秀2歳牝馬を受賞したラフィアンと対照しやすい存在だったというのも並べると映えるわ!と判断された部分はあるだろう。
マスターダービー陣営は迷惑料貰ったとはいえ無茶振りに振り回されてしまった上でお前んとこのだとラフィアンと釣り合わない、映えないと言われたも同然だしなんか散々である。
ザ・グレート・レースと銘打たれ、賞金35万ドルを賭けたこのレースを見るためにベルモントパークに5万人が駆けつけた。TV視聴者を含めると2000万のアメリカ人が見つめたという。
一番人気はラフィアンであり、ケンタッキーダービー馬フーリッシュプレジャーは屈辱の二番人気であった。
両方の主戦だったヴァスケス騎手はかなり悩んだらしいが、ラフィアンに前述の通り惚れ込んでいたことや、フーリッシュプレジャーの管理調教師であるルロイ・ジョリー師が競馬界には珍しくこの手の話がわかる人であったためラフィアンを選んだ。
どっちにせよフーリッシュプレジャーは捨てられちゃったため、新たな鞍上バエザ騎手を招くことになった。
レースはスタート直後こそ弱点のスタートをジョリー師がマッチレースに向け特訓したフーリッシュプレジャーが飛び出してハナを切るが、直ぐにスピード任せにラフィアンが前に出てフーリッシュプレジャーはそれを半馬身後ろから追いかける。
その態勢になった後、しばらく走ったあたりでラフィアン鞍上ヴァスケス騎手、フーリッシュプレジャー鞍上バエザ騎手は共に不穏な音を聞き、ヴァスケス騎手は競争を止めた。
彼女の凄まじいスピードを生み出してきた右前脚が、砕けてしまったのだ…このレースの最初の2ハロンが22.2という、ケンタッキーダービーでも史上稀に見る超ハイペースだったのが祟ったのかもしれない。
レースを企画したNYRAも、ラフィアンの可能性に胸を躍らせていた観客も、信じて送り出したラフィアン陣営も、愕然とするしかなかった。
フーリッシュプレジャーは単走で競馬場を回ってゴール。労せず35万ドル総取りを決めたがそれどころではなかっただろう。
直ちに緊急手術が施されたが、様子を見るべく触診した獣医師の手が血でべっとりとなるほどの重篤な骨折であり、当時の医療技術では生存は絶望的であった。
それでも手術の結果、脚の骨を応急的に繋ぐことには成功した。しかし麻酔が切れたラフィアンは痛みに耐えかね折れた右前脚を激しく叩きつけ、ギブスが壊れるほど暴れてしまった。
こうなってはもう骨がちゃんと繋がり、治癒する希望はない、ということで予後不良、薬殺となった。
天才少女の前途は一瞬にして暗転し、消え失せたのであった…。
死後、圧倒的な強さでのトリプルティアラ達成が評価され、最優秀3歳牝馬を獲得した。通算成績11戦10勝。
彼女は現在、最期の地であるベルモントパーク競馬場に眠っている。
そのベルモントパーク競馬場にはラフィアン馬医療センターという世界最先端の馬専門の病院があり、バーバロの悲劇など後年起こった事例などで積み重なった知見を元によりよい医療・悲劇の死を奇跡の生存に変える術を求めて研究が続いている。