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基本データ | |
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正式名称 | ロシア帝国 Российская империя Rossiyskaya Imperiya |
国旗 | ![]() |
国歌 | 神よツァーリを護り給え[動] |
公用語 | ロシア語 |
首都 | サンクトペテルブルク(1713年 - 1728年) モスクワ(1728年 - 1730年) サンクトペテルブルク(1730年 - 1914年) ペトログラード(1914年 - 1917年) |
面積 | 21,799,825km²(1914年) |
人口 | 128,200,200人(1897年) |
通貨 | ロシア・ルーブル |
ロシア帝国とは、1721年から1917年の間、現在のロシアに当たる地域を中心に北ユーラシアに存在した帝国である。ロマノフ朝または帝政ロシアとも。
本項では1613年のロマノフ朝の成立も記述する。
この国の特徴には次のようなものが挙げられる。
上述の帝国像が形成されるのは成立してしばらくのことである。
17世紀にロマノフ朝は成立するが、その君主権は不完全にあり、ロシアは西欧各国からも帝国として認められていなかったのだ。が、1721年に5代君主ピョートル1世が大北方戦争に勝利し、その功績から「インペラートル(皇帝)」の称号を得ると、ロシアにも「皇帝を戴く国」ができあがった。これがロシア帝国の成立であり、以後世界史において大きな影響力を持つ一国として、この国は君臨し続ける。
ロシア帝国はロマノフ朝による帝政国家であるが、その創成の背景にはモスクワ大公国の姿があった。
時を遡ること15世紀、モンゴル系であるタタール国家やロシアの都市国家群と競争し、勢力を拡大させていたモスクワ大公国は、イヴァン3世の時代にツァーリ(王あるいは皇帝)国として他と一線を画すほどに成長した。さらにこの時期、イヴァン3世は東ローマ皇帝の姪と婚姻したことから、モスクワ大公国は「ローマの血統」を(建前だが)手にした。こうしてモスクワは「第3のローマ」なる付加価値を得、東ローマ帝国の継承者として正教圏における新たな盟主となったのである。
続いて1480年、イヴァン3世の下でモスクワ大公国は「タタールのくびき」なるモンゴルの支配から脱し、事実上の独立を果たす。そして彼の孫である“雷帝”ことイヴァン4世の代には、モスクワ大公国は全ロシア国家のトップを自任する。
ところが1589年にモスクワ大公国のリューリク朝が断絶すると、ロシアは後継者を巡る大動乱の時期に入った。リューリク朝の外戚にあたるフョードル・ニキーチチ・ロマノフがこれを制すると、その息子ミハイル・ロマノフが1613年にロシア全国会議において推戴され、ツァーリとなった。ロシアの300年王朝、ロマノフ朝が成立したのである。
▲ロシアを統一したロマノフ朝だが、その存在は海外とりわけ欧州からは帝国とは認められてはいなかった。ツァーリの権限も当初は不完全であり、絶対的な君主とはいい難いものだった。1617年にはスウェーデン、翌年にはポーランドと和平を結んだが、国土は削られ油断ならぬ状況が続く。
しかし17世紀の中頃になると、ロマノフ朝は北方戦争や対ポーランド戦において国力を高めていった。4代ツァーリのフョードル・アレクセーエヴィチが亡くなった後はまたも後継者争いが勃発したが、これは1682年にピョートル1世(大帝)の即位により平定された。
ロシアの西欧化を進めるべく、彼は300人からなる大使節団をヨーロッパへ派遣したが、面白いことにピョートル自らも偽名で変装し参加していたのだ。そうやって自身の肉眼で西欧を見、自らの肌で近代を感じたピョートル1世は、帰国後まもなく改革に着手した。これまた興味深いのがその順番で、政治や軍隊の再建をするのかと思えばそうではなく、まずは貴族の服装や様式にこだわりを見せたのだ。そして東ローマ帝国風の紀元を廃止し、新たにユリウス暦を使うよう指示したという。
ピョートル1世はまたオスマン帝国との戦いは危険すぎるとし、従来のロシアが採り続けてきた南下政策を一時中断。そして狙いを北西の方角、すなわちバルト海へと向けた。スウェーデンである。当時のスウェーデンは30年戦争により北欧の覇者、バルト帝国として君臨し、ロシアのバルト海への出口を依然として封鎖していた。
もとより凍らない海を欲することで南下政策をしてきたロシアである。バルト海という海の重要性もまた大きかったことだろう。ピョートル1世はポーランドやデンマークと同盟を結び軍事力を高め、オスマン帝国と和睦し後方の安全を確保すると、1700年、スウェーデンの港湾都市ナルヴァに侵攻を開始した(大北方戦争)。
ロシア軍の数は圧倒的に勝っていた。にもかかわらず、カール12世が率いるスウェーデン軍には大敗を喫した。とはいえその後のスウェーデンがロシアにではなくポーランドに軍を向けていたことは、不幸中の幸いであった。ピョートル1世はこの好機に乗じ、教会の鐘を売って大砲を揃えるなどして、軍備の再建に取りかかる。
再度スウェーデンへ進軍すると、今度はネヴァ川流域の占領に成功した。そして1703年、後にロシア帝国の首都となる、「西欧の窓」ことサンクトペテルブルクを建設。戦争における最前線を確保したのである。その勢いのまま1709年にポルタヴァの会戦にてスウェーデンにほぼ完勝し、カール12世をオスマン帝国へ亡命させるほどに追い詰めると、戦いの行方は決定的となった。一応、カール12世を擁護したオスマン帝国の反逆にあうのだが、1714年には新設の艦隊が活躍しバルト海の制海権を得た。これをもって1721年、ニスタットの講和によりロシアの勝利が確定された。これによりロシア帝国は、ついに海を一つ手に入れたのだった。
ピョートル1世はこの輝かしき戦勝により、元老院からインぺラートル(皇帝)の称号が贈られた。ここに、ロシア皇帝による国家すなわちロシア帝国が成立したのである。
ピョートル1世が国家を近代化させた一方、農民層は農奴化し中世へと逆戻りしていた。これは後の乱や列強との力量差を生むきっかけとなる中世的色彩である。ロシア帝国の18世紀、それはなにも明るい側面には限らない。
ピョートル1世亡き後は再び熾烈な帝位争いが頻発した。主たる原因はピョートル1世が遺した帝位継承法であり、これは現皇帝が気に入った者を指名し帝位を継承させるというものだ。従来の帝位継承は長子制すなわち長男から順に優先されるというものであったが、生前のピョートル1世はこれを「新皇帝は前皇帝が決める」というように改変したのである。
18世紀は女帝の時代ともいえる。帝位を争う形で7人の皇帝が続出したのだが、うち4人は女帝と(当時にしてみれば)少々異例である。そしてその特異な女帝時代の最後を飾ったのが、かの女帝エカチェリーナ2世であった。
▲1756年、マリア・テレジアが統べるオーストリアは、フリードリヒ2世のプロイセンに対しシュレジエンを要求、戦争に突入した(七年戦争)。エリザヴェータ女帝が統治する当時のロシア帝国は、オーストリア・フランス側に味方し、プロイセンをあと一歩のところまで追い詰める。ところが、1762年にロシア皇帝がピョートル3世に代わると、状況は一変。ピョートル3世は「フリードリヒ2世かっこいい」という極めて個人的な理由でプロイセン側への攻撃を中止し、結果としてオーストリアとフランスを裏切った。ロシア帝国はオーストリアはもちろんフランスに非難され、また国内も動乱した。当然である。
これを見かねたピョートル3世の皇后エカチェリーナ(2世)はクーデターを起こす。このとき彼女は男装し馬上で指揮を執っていたという。彼女を待望する声はピョートル3世の失態以来とても高く、それゆえクーデターはほぼ無血で成功。旦那のピョートル3世は廃位・幽閉され、後に暗殺された。そしてまもなく彼女は皇帝として即位した。エカチェリーナ2世(大帝)である。
エカチェリーナ2世は生粋のドイツ人であった。現ポーランドのシュテッティンからロシアに来た彼女は、ヴォルテールやモンテスキューなど、フランスの啓蒙思想家の著作をよく読んだ。また歴史にも関心を持ち、カトリック修道士バールが著した『ドイツ史』も熱心に読んだという。彼女はまた啓蒙思想家としても知られ、ヴォルテールやディドロと文通し多くの精神を学んだ。
即位後エカチェリーナ2世はすぐに法の編纂にあたった。彼女は「ロシアには近代的な法が必要」と唱え、君主権を絶対とする一方、法の前では臣民はみな平等であると説いた。
エカチェリーナ2世はまた宗教的寛容や自由な経済活動を促進し、各地に学校や孤児院、病院を建設させたうえ、司法機関を樹立させ、また文芸の出版にも力を注いだ。
ロシア帝国の人口の9割は農民であり、彼らの農奴化は加速するがままであった。エカチェリーナ2世はこれを緩和する意志はあったのだが、貴族の猛烈な反対にあってしまう。かくして搾取され負担が増加する一方の農民らは不満が募り、1773年、エメリヤン・プガチョフが率いる乱が勃発した(プガチョフの乱)。
乱の範囲は南ロシア一帯にまで拡大し、農奴や農民はもとより諸部族まで包括した。結局この大規模な乱は鎮圧されるのだが、それは仲間に裏切られロシア政府に差し出された、プガチョフの処刑(1775年)によるものだった。
危険因子をいまだ抱えたまま、ロシア帝国はより多くの領土を貪っていった。
二度の露土戦争(1768 - 1774年 / 1787 - 1791年)では、オスマン帝国から黒海北岸とクリミア半島を獲得し、オスマン内の正教徒に対する保護権をも手に入れた。また黒海をロシアの海とすべく、黒海艦隊を創設していった。これにより、ロシア帝国はついに黒海方面への本格的な進出を可能とした。
西方の拡大もまた大きく、七年戦争の後にプロイセンやオーストリアと共にポーランドを分割すると、その東部をみごと併合した。
▲1801年にアレクサンドル1世が即位すると、ロシア帝国は激動の近代をいく形となる。
即位後のアレクサンドルは、拷問を廃止し検閲を緩和するなど開放的な姿勢を見せた。その一方、非公式委員会なるものを組織し、改革を進めていった。具体的には、時代遅れの参議院に代わり8つの省と大臣委員会を組織したり、領主に農奴解放を認めたり、教育改革により大学を建設したり、などである。
フランス革命の中台頭した軍人ナポレオン・ボナパルトは、1804年にはフランス皇帝となり欧州大陸に覇を唱えていた。アレクサンドル1世は即位当初イギリスとフランスにそれぞれ別個の案で接近していたが、この皇帝ナポレオン1世の登場によりフランスとロシアの関係は急激に緊張した。