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ロバート・フォーチュン


ヨミ: ロバートフォーチュン
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ロバート・フォーチュンとは、英国庭師植物学者であり、幕末に来日した植物オタ、もといプランハンター[1]である。


概要


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1812年スコットランドで生まれる。庭師植物学者としてエジバラ王立植物園やロンドン園芸協会に所属。

1843年に中国を訪れ、菊、百合などの観葉植物イギリス移植。さらに東インド会社の依頼を受けて中国からインドの木を移植して大量に栽培した事で著名となる。いくつかの植物にはフォーチュンの名が学名で使用されているものもある。

さて、銀色エンジェルが矢を放つような名前のこのフォーチュン氏、1860年と1861年の2回に分けて来日している。この記事ではにその件について扱う。


幕末日本探訪(万延元年)


1859年、当時中国で勤務していたフォーチュンは、日本で通商条約が締結され、長崎横浜函館が開港されたとの情報を得る。プランハンターとして新種発見に余念のフォーチュンは、当時珍種植物の宝庫とされていた開したての日本を訪れる事となった。

1860年10月12日(万延元年8月28日)、長崎に到着。1度旅行では、長崎 - 神奈川[2]横浜江戸 - 兵庫大阪 - 下関 - 長崎 - 上海ルートを2ヵ半ほどかけて回っている。

旅行中、植物の調はもとより、文化・風俗歴史宗教建築・気・地質などについても事細かに調しており、特に身分の上下に関わらず植物栽培に熱心な人々が多い事や、有用と見なした異文化を積極的に取り込む民性に注している。

異文化取り入れの一例に、米国使ハリスから聞いた話として、ある日ハリスが幕府役人の要請でを貸したところ、しばらくすると大老以下幕府役人のが全て蹄を付けていた[3]というエピソードを著書に残している。

翌年一人で滞在することになる神奈川では、在る寺の住職にアスナロの木を見せられ、植物オタっぷりの片鱗を見せる。

美しい!垂直にそびえて実に均整が取れた肢体だ!少なくとも80、いや100フィートはあるぞ!シーボルトの本にはもっと低めに書いてあったのに。嘘つき!ああ、撫で回したい幹!しゃぶりつきたい果実!たまらん!!

そのまま靴を脱いでアスナロに登り始めた。マジで。住職ポカーン(;゚Д゚)

また、英国使オールコックの誘いで赴いた江戸では、広大植木屋の庭園が在ると言われた団子坂、王子、染井などを散策。特に当時苗木園として知られていた染井村[5]の壮観さに感銘を受ける。

「おお~~~~っ!すっごいすっごいすっごいすっごいすっごいすっごいすっごいすごすぎる~~~~~!!!!
プランハンターだったら涙を流すべき状況だねこれは!!!(*゚゚)=3 ムッハー!!
こんな大規模に植物栽培している村は世界中どこ行ってもいよ!
なんと!サボテンアロエまであるぞ!
イギリスでは斑入りなんてアオキしかないのに、この斑入りの!斑入りのシュロ!斑入りの椿!そしての木さえもがこの楽しき一族を表徴している~!!!」

と、日記にも!マーク込みで尋常でないはしゃぎっぷりを見せている。マジで。

12月末、収集した戦利品を防万全のガラスケースに詰め込んでいったん日本を離れる。


幕末日本探訪(文久元年)


2度の来日は翌年から7月の末頃までで、攘夷浪士がうろつき、命を狙われる危険があったため居住区に閉じこもっていた外国人たちに対して「どんだけお客様気分なんだよ」とでも思ったのか、神奈川の寺に一人で滞在。外国人社会からあえて離れ、数ヶの間日本人社会の近くで生活を続けた。

昨年入手した戦利品に続いて更に季節特有の戦利品を得るため江戸行きを考えたが、当時外国人が勝手に江戸に行く事は禁じられていた為、中国に出かけて不在だった英国使オールコックをスルーして米国使ハリスに江戸行きを打診。ハリスが応じたため江戸に行くことが可となったが、これにイギリス使館から「マナー違反」とクレームがつく。

即刻江戸から退去するようにとの連絡に対して「自分はイギリスに有益となる植物採集しており、これを中止されればイギリス社会の損失になる」と反論するが、ペナルティ警告文が送られてきた為やむなく江戸を発つことになった。ちなみに著書では「不愉快な通信」ときっぱりdisっている。

神奈川在住中は鎌倉の散策や刈り入れ後の祭りを見学したりしつつ、植物や工芸などの戦利品ゲット。菊、百合ツツジ山吹等、そして狙っていたアオキの雄木[6]事入手に成功。

7月29日横浜から上海へ向けて出航。11月上海を発ち、1月2日に本イギリスへ帰した。


帰国後


後も日本の情勢は気になっていたらしく、日本での体験記である『江戸北京[7]』を製本している間も、参勤交代の緩和などを実施した文久の幕政革や、その直後に起きた生麦事件、さらに当時の日本国内の情勢や今後の見通しについても予測している。

その後は、従来の仕事の他、蚕やの生産に関する研究を発表する等順調に活動を続け、1880年に67歳で死去。


脚注


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最終更新日: 10/11/20 14:30
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