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ローマ帝国


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ローマ帝国は、都市国家ローマ地中海の大半あるいは全域にまで領域を拡大した姿。また、共和政ローマの領域拡大期や紀元前27年からのローマす用でもある。

翻訳前の「Imperium Romanum」はローマの支配権や支配領域を示すであり、本来ならば、「ローマ皇帝が統治する」という意味ではない。したがって、本項では共和政の領域拡大期についても記述する。

概要

基本データ
正式名称 ローマ帝国
Imperium Romanum (ラテン語)
Βασιλεία τνωμαίων (ギリシア語)
Roman Empire
国旗

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元老院とローマ市民
国家ローマ権者と栄を表す

公用語 ラテン語
(395年 - 629年)
ギリシア語
(629年 - 1453年)
首都 ローマ
(紀元前27年 - 紀元後330年)
コンスタンティノポリス
(330年 - 1204年 / 1261年 - 1453年)
メディオラヌム
(395年 - 402年)
ラヴェンナ
(402年 - 476年)
カイ
(1204年 - 1261年)
政治 元首政
(紀元前27年 - 紀元後284年)
専制君主制
(285年 - 1453年)
人口 88,000,000人(117年)

都市国家であったローマが、しだいに他地域にまで拡大し、地中海を統一した姿である。

この古代ローマがいわゆる「帝国」になるのは、一般に、オクタウィアヌスが内乱を制し「アウグストゥス(尊厳者)」となった紀元前27年とされる(ローマ)。しかしそれは狭義の帝国像であり、帝国とは本来、「多文化・多民族を支配する国家」である。その限りでいえば、古代ローマは紀元前242年にシチリ属州(非イタリアの領土)として支配した段階で帝国化したといえる

しかし「ローマは一日にして成らず」である。

509年にエトルリア人の王をしたローマだったが、前390年にはガリア人(現フランスに位置した)に大敗し、イタリア南部のサムニウム人とも死闘を繰り広げていた。そんな中で、内では重装歩兵として活躍した民が政治の一を担うようになり、ローマ民主政へと変質。前272年にはとうとうイタリア統一を果たし、同盟による連合国家になった。

264年にカルタゴ(現チュニジア)との間に起こったポエニ戦争を機に、ローマの「地中海帝国」としての方向性は決定的となった。戦争の過程で初の属州を獲得し、コルシカサルデーニャ両を併合、さらには現スペインにまで版図を広げた。
一方ローマ内では相次ぐ戦役により農民が没落、富裕層はその際に生まれたき地を次々と買い取った上、海外からもたらされる捕虜を使った大土地所有を進めていった。没落した市民生活保護のため、富裕層は更なる利益のために戦争をなおめていく。

そういった背景により、戦後、西地中海覇者となったローマ東方への拡大をし、古代ギリシアマケドニアをはじめとするヘレニズム圏(東地中海)を下していき、前1世紀の中頃には、地中海のほぼ全域を統一した。


帝政の概略


このようにローマは「帝国化」したが、内の階級間では利潤を巡り腐敗と闘争が繰り返された。前31年になってようやく、内乱に終止符が打たれたが、それにより共和政の皮を被った元首政、すなわちローマが始まるのである。

以後、後180年までの約200年間、ローマ帝国は前の繁栄を謳歌する。後9年にゲルマン人に大敗したため、現ドイツ方面への拡大は断念せざるを得なくなったが、1世紀の末ごろからは名君が続き(五賢の時代)、117年には最大版図を実現した。その際の領土は西欧イタリア半島バルカン半島アナトリア半島シリアパレスチナ、そして北アフリカにおける地中海沿の全域に至る

しかし絶頂とはすなわち衰退の始まりである。

2世紀末以降、ローマ帝国は内乱、暗君、財政、外敵、敗戦など様々な要因に苦しめられ、そのを大幅に低下させた。260年にもなると、帝国内部ではガリ帝国とパルミラ王独立し、領土の大半を事実上喪失する。274年になってようやくこれら失地を回復するが、外敵は健在であった。中でも現イランイラクあたりに栄えていたパルティアの後継ササン朝ペルシアは脅威であり、必然的にローマ帝国は重点を東方へと移すことになる。

それゆえ東方からの影が強まり、285年には独裁制である専制君主制へと移行した。また広大過ぎる土と多方面からくる様々な外的に時に対応するべく、複数の皇帝帝国の防衛を担わざるをえない状況へと追い込まれていく(テトラルキア)。この時点でローマは首府ではなくなり、各皇帝が軍と共に構える拠点都市がそれぞれ首府とされた。

324年にはコンスタンティヌスにより再び一人の皇帝による帝国支配の時代となり、またキリスト教に対しては従来の迫路線から一転、帝国の支配機構として受け入れ利用していった。くわえて、東方の重要性から都はバルカン半島の東端・コンスタンティノポリスへと遷っていた(330年)。

しかし、やはり広過ぎる帝国の統治と防衛は単独皇帝だけでは不可能であった。それ故再び複数の皇帝が出現、最終的には395年にて東西に二分された。以後、東西の帝国はひとつの「ローマ帝国」として苦に耐えるが、5世紀に入ると異民族を制御できず、西ローマ帝国が滅亡。残る東ローマ帝国6世紀に大ローマ帝国を一時再現するが、7世紀をシリアからエジプト東方を失い、ギリシア化していき、じわじわと衰退していった。

東ローマ帝国要な土はバルカン半島の東部とアナトリア半島に限られていき、またイタリア南部地中海々を除き大半の旧西ローマ帝国領域を喪失。800年にはフランク王国西ローマ帝国を僭称したため「ローマ」としての権威を西欧にて失ってしまう。

9世紀後半~11世紀半ばにはを回復させ地中海最大の強に返り咲き、東欧および東地中海において政治的にも文化的にも類なき覇権として君臨した。また周辺諸や特に現在ウクライナロシアに当たる々を文化的下に加えるなど、大としての存在感を堂々と放っていた。

が、1071年、ついに最後のイタリアにおける領地を失い、12世紀に奪還を試みるも頓挫したばかりか、多くの西欧を敵に回してしまう。1202年になると元は属であったはずのローマ教皇庁やヴェネツィア共和国らによって、第四回十字軍が起こされ、その2年後にコンスタンティノポリスが陥落、東ローマ帝国は実質滅亡した。その後1261年に亡命政権によって帝国首都コンスタンティノポリスを奪還し一度だけ復権するが、売国奴とも言うべき暗愚な皇帝らの内紛と諸外の介入を多々招くにいたり、凋落の一途を辿った。西欧に助を請うも実らず、1453年、元々は東ローマ帝国の辺にいたテュルク民族とするオスマン帝国により、とうとうとどめを刺された。


この国の特徴


政治社会における特徴としては、エトルリア人や古代ギリシアから受け継ぎ、独自に発展させたものや、今日の西洋にまで遺ったものが見受けられる。全体的にヘレニズム(ギリシア文明圏)寄りで、エトルリア人から影を受けた建築技術にさえギリシア色彩を確認できる。そのほか、政治宗教、そして文化もまた古代ギリシアからの影が強いみたいだ。ところどころが後の西洋の体となっている。

領土や軍事面においても、古代地中海の諸国家と共通点が多い。ローマ帝国の場合は、それらをかにえている点が大きいといえよう。こちらも、後の西洋へ、おもに歴史的に強く影している部分がある。

共和制から元首政にかけて、ローマでは執政官(コンスル)などの官職が設けられたが、これらの多くは軍務との兼ね合いであり、元老院貴族もまた同様だった。つまり古代ローマでは、統治の以前に、軍事上の栄誉が重要視されたのである。
そしてその傾向は、執政官の究極系である「皇帝インペラトル)」にも強く表れている。ローマ皇帝(後述)には男性の健全性がめられたが、その由来が、執政官がもつ「軍の最高官」としての役割だったのである。元首政が崩壊し、専制君主制が始まりつつあった軍人皇帝の時代においても、皇帝の「軍の最高官」としての像は鮮に表れていた。

ローマ皇帝の権限

そのローマ皇帝についてだが、これは紀元前27年に、オクタウィアヌスが「アウグストゥス」の尊称を元老院から贈られたことにより誕生したとされる。

といっても元首政の冒頭で後述するように、オクタウィアヌス本人は「ローマ皇帝」ではなく「市民の中の第一人者プリンケプス」と自称するにとどまった。つまり当時、ローマ皇帝という役職は存在しなかったのである。よくオクタウィアヌスからのローマの元首は「ローマ皇帝」と呼称されるが、これは、共和政期から続く様々な要職を独占し事実トップになったから、「ローマ皇帝」と呼ばれているだけのことである。だからこそ(元首政期の)ローマ皇帝は、共和制の役職を一手に引き受けた、合法的な半独裁者という位置にある。

ローマ市民はエトルリア人による王政を打倒した頃(前509年)より、自分達が勝ち取った誇りとして「共和政」を重んじ、独裁を嫌ったが、それ故にオクタウィアヌスは「あくまで共和政の一元首」という形でトップに立ったのだと推測できよう。

つまり、社会主義にみられる独裁者よりも、現代の大統領の方がこれに近いのである(ただし元首政に限る)。


権力


絶対権で何でも好き放題、というわけではなかった。カリグラネロコンモドゥスカラカラエラガバルスをご覧いただければ分かる通り、元老院、ひいてはローマ帝国を軽んじる皇帝は皆あんな感じで終わっている。

ローマ皇帝の権限は

が挙げられる。

一番最後の最高官だが、これはローマ々に対する祭のような官職である。ユリウス・カエサルは大枚をはたいてでもこの官職を政治的権威に利用した。彼の後継者であるオクタウィアヌスも、事実この官職を政治的に利用した。もっとも、キリスト教教となったテオドシウス1世以降、この官職はローマ皇帝の権限に含まれなくなったが、代わりにローマ教皇の称号となった。

皇帝にとって最大の副産物は、穀倉地帯であるエジプトの私有化であろう。エジプト中とすることにより、皇帝市民から人気を得るため穀物をばら撒くことが可だった。

元老院

「元老院」とは書くが年寄りの集まりというわけではない。30歳以上の優秀な成人男性らによる機関である。

共和政ローマにおいて、元老院は執政官の諮問機関であったが、実際は財政や外交上の決定権を有する統治機関であった。また戦地に赴く精が非常に強いものが多く、この点が後世のローマの後継国家における上院と違う。

内乱の1世紀では、ルキウス・コルネリウス・スッラ(通称スッラ)により実質的な権限を得た上、騎士階級を取り込むことにより、300人の定員が600人にまで膨れ上がった。その後ユリウス・カエサルが独裁官として元老院体制の打破を試みるが、彼の養子オクタウィアヌスはその遺志を継ぎつつも、元老院を存続させた。


帝政期


政期に入ると、元老院の立場は皇帝の支配下に含まれた。

元老院は「皇帝に対し承認を行う機関」という性質を強め、それが五賢の時代まで続いた。皇帝の即位も皇帝の決議も、元老院の承認がなければ非正統とされた。ローマ史上「正」とされる皇帝は皆、この元老院の承認を受けたものばかりである。

また、元老院は属州総督の任命も行い、とくに経済のある属州を統治した。このため政期前半の元老院は、しばしば利潤を得るおいしい立場にいたのである。


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最終更新日: 19/07/02 19:56
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