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三国志(さんごくし)とは
※日本で作られた小説、漫画、アニメ、ゲーム各種作品の総称にも用いられるが、その場合演義と正史がごっちゃになっている。というか、演義の影響のほうが強い。これについては後述。
詳しい説明はwikipediaや解説に詳しいネット媒体に譲るとして、ここでは簡単な歴史の流れを述べる。
当時の中国は劉邦が立ち上げた漢という国があったが、皇族や官吏が政治を顧みなかったために統治能力が低下。漢への不満を爆発させた国民は当時流行っていた宗教「太平道」の主導のもと、「黄巾の乱」と呼ばれる反乱を起こす。
黄巾の乱はなんとか鎮圧されるものの、これをきっかけとして漢王朝の権威は失墜、地方豪族による群雄割拠が始まる。そしてその後紆余曲折あって魏・呉・蜀という三つの国が建国され、覇権を賭けて三つ巴の戦いを繰り広げる…というのが大体の内容。
ちなみに、実は曹操が死んで曹丕が禅譲を受けてからが正式な三国時代の始まりであり、それまでは後漢時代だったりする(魏は存在していたが、漢帝国内の一公国/王国の扱い)。さらに中国を統一したのは魏・呉・蜀のいずれでもなく、「晋」という国だった…諸行無常。
簡単に言ってしまえば、三国志は「歴史書」、三国志演義は「歴史小説」である。
陳寿はもともと蜀の歴史をまとめていた文官であり、蜀滅亡後はその腕を買われて魏・晋に仕え、蜀以外の史実もまとめた。これが「三国志」である。三国志は魏・晋を「漢王朝の正統な後継」とみなしており、魏・晋の皇族にマイナスイメージを植え付けるようなエピソードは記述しなかった(そりゃそうだ。リアルで首が飛ぶわ)。
また、編纂するにあたり「史実を忠実かつ簡潔にまとめる」ことを重視したため、「これホントかどうか怪しいわー」というエピソードについても記述しなかった。その一方で劉備の死について特殊な表現を使うなど、密かに母国の蜀を持ち上げていた。これが伏線になっていく。
そのため、陳寿の三国志は記述が必要最低限に抑えられていて読みやすい一方で、淡泊で面白みに欠けているのである。
なので、晋の後の劉宋の時代に裴松之が陳寿が書けなかった舞台背景や、信憑性が薄すぎるとして排除したエピソードを注釈として付け加えたのが現行の三国志である。
ちなみに三国志の呉の部分に関しては、呉の史官、韋昭が編纂した「呉書」を流用した疑いが濃厚である。
それに対し演義の方はエンターテイメント性を重視しており、「面白ければいいじゃん!」ということで架空の人物やエピソードが挿入されたり、一部の人物にチート補正がかかっていたり、陳寿が採用しなかった信憑性に欠けるエピソードを上手く盛り込んだりしてある。とある清の評論家いわく、「演義は7割史実、3割虚構(ウソ)」とのこと。
また、群像劇の様相をとりつつも蜀漢メイン(判官びいきの大衆ウケがいいのは万国共通)であり、前半は劉備、後半は諸葛亮がなかば主役めいて話が進んでいく。一応諸葛亮没後も話は続き、最後は三国最後の国である呉滅亡まできっちり描かれている。
もともと演義は宋や元代に誕生した講談や戯曲をベースとしており、演義の作者は羅貫中とされているが、後漢末から三国統一にかけての長大な物語を1人で作ったのではなく、各戯曲・講談を一つの物語としてまとめ上げた人物とされている。
このため、先行する作品や影響を与えた物語がある。
答えはカンタン。昔から三国志を題材とした作品が多かったから。以降年代順にまとめてみる。