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三好元長(みよし・もとなが 1501 ~ 1532)とは、阿波国の戦国武将である。三好家4代当主。三好長秀の子。弟に三好康長。子に三好長慶、三好義賢(三好実休)、安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。細川澄元により偏諱を与えられて元長と名乗る。
管領・細川氏の家臣であり、阿波衆を率いる家柄に生まれ、細川政元の死後は細川澄元・細川晴元父子に仕えて畿内における細川高国との抗争で活躍して高国を滅ぼすが、のちに主君・晴元と対立して自害に追い込まれた。
▲9歳の時に父・長秀を北畠材親の攻撃で亡くし、20歳で祖父・三好之長が細川高国との戦いで敗れて処刑されると三好家の総帥として就任し、細川澄元の遺児・細川六郎(のちの細川晴元)を阿波で匿っていた。
之長が死んだ1520年当時、5月に先の通り之長が処刑され、その翌月には高国に対抗していた澄元が病没してしまい、高国の政治体制が磐石化した。
このころ、細川高国と足利義稙の仲は険悪状態であり、その翌年には畿内から出奔して元長らのいる阿波へと義稙の養子・足利義維を連れて逃れてきた。(義稙が逃れてきたのは1522年とも。)
こうして12代将軍に足利義澄の子・足利義晴(足利義維の弟)が就任した。
将軍という神輿を担いだ高国にもはや畿内に敵無しと思われていた………。
1526年に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺したことで元盛の兄である波多野稙通と柳本賢治が丹波で挙兵すると、高国は鎮圧の兵を出すが治めることができなかった。
これを好機ととらえた元長は翌1527年に足利義維を擁しながら六郎も引き連れて畿内へと進軍を果たし波多野氏とタッグを組み高国軍を撃破した。(桂川原の戦い)
敗れた高国は義晴を伴って六角定頼を頼って遁走した。
このことにより幕政は完全に機能を停止してしまい、大混乱に陥ってしまう。
義晴は将軍としての地位を辛うじて維持しており、近江で政権を行っており、元長は京で義維に政権の中枢を担わせることもできたのだが、これに反発する者もいるだろうと踏み、義維には堺で政権を行い始めさせた。これが堺公方の始まりである。
この一連の行動にキレたのが高国であり、高国は六角定頼や朝倉孝景の援軍を得て堺公方に襲いかかった。
これを受けた元長も波多野稙通・柳本賢治兄弟と共に奮戦してこれを撃退した。
1528年、堺公方優勢の状態で定頼の仲介で和睦交渉が行われるものの、稙通らの反発もあり頓挫。六郎に内通の疑惑という讒言をされてしまう。
山城国5郡の守護代に任じられるもそこで賢治と対立し、1529年には阿波へと帰国してしまい、堺公方離脱という始末であった。
このころになると三好氏内部でも亀裂が起こり、一族の三好政長と険悪な状態となってしまう。元長の阿波帰国は政長の離反が一因であった。
これ以降20年間、元長派と政長派に分裂して三好氏は内訌を行うこととなる。
1530年になると元長と対立していた賢治が高国に味方していた浦上氏攻めのために摂津に侵攻するが、その陣中で暗殺されてしまう。
こうなると完全に高国派の勢いは増すこととなり、朝倉氏・若狭武田氏・六角氏・浦上氏・赤松氏・北畠氏を味方にしていた高国は一挙に堺公方駆逐へと進み始めた。
翌1531年になってやっと六郎の懇願もあり、2月には元長は畿内に戻り六郎に帰参。堺公方に復帰した。
しかし既に手遅れであり、畿内における堺公方の勢力も堺を中心とした摂津南部をただ残すのみであり、河内・和泉・山城・播磨・近江・伊勢・伊賀などの周辺国は高国・義晴派の勢力地であった。
唯一味方していた畠山義堯も紀伊に閉じ込められて畠山稙長に睨まれて動けない状態であった。
3月、高国は盟友・浦上村宗を誘って摂津に陣を張った。この時六郎・元長軍は総勢7千、高国・浦上軍は総勢2万超であった。
3倍以上いる兵力相手に勝てないと悟った元長はここで阿波から虎の子の兵を出すことを決断する。快諾した細川持隆(六郎の従兄)は8千の兵を堺へと送り込み、それを備えとさせた。
これで1万5千と2万超の戦いとなった。
兵数差が縮まったため、双方は矢の応酬合戦を行うも決定打を欠いた。(中嶋の戦い)
6月になると敵方に赤松政祐(のちの赤松晴政)が3千前後の兵を率いて高国・村宗の後詰として参戦した。
阿波の援軍は堺の守備の任務もあり7千余対2万数千余という絶望的数字となってしまう。
しかしここで赤松側から寝返りの密書を受けとり、挟撃することに賛同した。
赤松着陣の2日後に浦上勢の背後から攻撃を始め、これに呼応した形で元長らも攻撃を始めた。
突然の裏切り、挟撃に大混乱した高国・村宗軍は瓦解し、村宗は戦死してしまい、高国もまもなく探索の末に処刑された。
細川高国の滅亡により一件落着と思われた………。
しかし、あろうことか六郎は近江に逃れていた義晴と和睦を模索し始めたのである。
これに元長は畠山義堯らと共に猛反対したが、受けいられることはなく逆に溝が深まる結果となってしまった。
多大な犠牲を払いながら堺公方の新時代の到来を待ちわびていた元長は三好政長や総州家の家臣である木沢長政らによる讒言によって家中において孤立してしまう。
そこで元長は義堯と結託して木沢攻めを決行した。
一度は六郎の撤兵要請もあり木沢長政の居城である飯盛山城から兵を退いた。
だがやっぱり木沢は死すべしということもあり義堯と共に再度飯盛山城を包囲した。
今度ばかりは六郎の要請も突っぱねており、木沢の命運もここまでかと思われた…………。
突如背後から一向宗の門徒の大軍が元長たちを襲撃した。
戦勝ムードだった元長たちは突然の数万の敵に散り散りとなって逃亡した。
この時大叔父の三好一秀は討死してしまった。
しかし執拗に追いかけてくるため、義堯もとうとう逃げるのをあきらめ自害。
元長も飯盛山城から堺の顕本寺へと逃げ込み、義維を阿波へと逃した。
結局寺を一向衆徒に幾重にも包囲された元長は自害に追い込まれた。
無念の自害を遂げた元長であったが、彼らの子供たちが17年後に仇を討ち本懐を遂げることとなる。
▲信長誕生の2年前に死亡したため、作品の関係で蒼天録PKのみの登場となっている。蒼天録では三好一門は総勢17名登場しており、その中でも長男・三好長慶に次ぐ第2位の能力を誇る。全体でも63位にランクインしている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 81 | 知略 | 63 | 政治 | 76 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |