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三式戦闘機


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三式戦闘機とは、大日本帝国陸軍戦闘機である。


概要


三式戦闘機とは、大日本帝国陸軍が採用していた戦闘機である。陸軍の試作機機体通し番号であるキ番号は「キ61」。 称は『飛燕』。呼称・略称は「三式戦」、「ロクイチ」。連合軍コードネーム Tonyトニー)。川崎航空機が開発製造した機体である。

太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では一の液冷エンジンエンジン)機であり、機体のフォルムはとてもスマート。当時の同盟であるドイツダイムラーベンツ DB 601のライセンス生産品であるハ40を搭載した。また日本独自ののハ140を搭載した飛燕がある。その見たから、和製メッサーシュミットと呼ばれる事もある。極限まで空気抵抗と重量を減らし、重武装を施した事から中戦闘機(中戦)と呼ばれ、速度運動性を両立させた傑物。他の日本機とべて高が高かったため、戦争末期の対B-29戦で大活躍した。

発動機トラブルによる低稼働率が知られている。当時の日本の工業では、精密な液冷エンジンをうまく作り、扱うことはできなかったのだ。しかしその割にはそこそこ多く作られた機体で、陸軍戦闘機としては4位の生産数となっている。


開発から実戦まで


1940年、陸軍は川崎航空機に対し運動性を重視した軽戦闘機の開発を命じた。開発コンセプトは「軽戦闘機より運動性に劣るものの、重武装を施して諸外のどの戦闘機にも勝利する」というもの。このため社内では中戦と呼ばれていた。空気抵抗軽減のため、同盟ドイツが採用していた冷式エンジンを使用。これにより日本機の泣き所だったエンジン非力さが善され、最大速度591キロを記録。上昇限度は1万1000mを誇った。機体形状も日本機らしくない独特なものへと変化した。しかしながら冷式エンジン日本の技術では手に余るようで、整備が大変難しかった。ゆえに稼働率の低さが常について回った。本格的な配備は1943年に始まった。

初陣ニューギニア戦線に到着までに半数を失うという不名誉があるが、隊長機を除けば1つしか増槽を装備できなかったという要因もある。F6Fヘルキャット36機相手に三式戦2機と劣勢ながらも6機撃墜5機撃破の戦果を上げているが、飛燕も一機を撃破されている(水田に不時着した際大破したので事実上撃墜。操縦士は機掃射を掻潜って民家に逃込み事)。ちなみに飛燕パイロットの1人はこの時が初陣である。三式戦は重武装とパワーを発揮し、連合軍の新機と互に渡り合ったと言われている。

同盟ドイツから潜水艦で輸入したマウザー一装備した機体でも知られる。最前線の基地ウェワクに送られ、階級に関係なくエースパイロットから配備されていった。生産総数は388機程度。
その威は凄まじく、敵爆撃機が簡単にへし折れたという言が残っている。電気式による信頼性の高さや、ボタン一つであらゆる不具合に対応できる完成度の高さから、パイロットの絶大な支持を得る。
ところが、日本の技術では弾薬が生産できなかったため、輸入した分が底を尽きた時点で運用不可能となってしまった。その技術の高さは、鹵獲したアメリカ軍でもコピーができなかったほど。


スーパーフォートレスとの戦い


戦争末期B-29襲に現れるようになると、体当たりも含めた本土防に奔走。高度1万mを飛行するB-29日本機の大半が手も足も出なかった。しかし一1万1000mまで飛べる三式戦は迎撃可だった。帝国陸軍一の高高度迎撃が可な機体としてB-29に喰らい付き、しい戦を繰り広げた。あらかじめ高度1万mで待ち伏せ、B-29が通りがかった所を攻撃する戦法が取られた(それしか取れなかった)。

ちなみにB-29が初めて東京に飛来した1944年11月1日、迎撃に上がったのも三式戦だった。本土では部品供給が滞りなく行われ、ベテラン整備員もいた事から稼働率の低さも問題化しなかったという。特に調布飛行場を拠点とした飛行第244戦隊B-29爆撃機を相手に奮戦。12月3日戦闘では、86機のB-29を11機の三式戦が迎撃。板垣政雄軍曹が駆る三式戦は上方よりB-29に体当たりし、連れにした。板垣軍曹は衝撃で機外へ放り出され、咄嗟に落下を開いた事で助かっている。また中野伍長機は三式戦のプロペラでB-29尾翼安定を破壊し、偶然にも乗りになった。バランスを失ったB-29墜落、三式戦は滑状態となり、不時着。奇跡的に中野伍長は生還した。板垣中野の両氏は戦功を認められ、受勲と昇進の誉れを受けた。その活躍ぶりは新聞で報道され、中野軍曹の三式戦は日本橋三越屋上に展示された。最終的に飛行第244戦隊70機撃墜し、90機撃破する戦果を挙げている。川崎航空機から技術者を呼び寄せていたため、高い稼働率を実現していたのだ。

1945年1月27日戦では、244戦隊隊長小林大尉機がB-29に体当たりし、連れにしている(小林大尉はパラシュートで脱出しており生還)。100機以上のB-29を撃墜されたアメリカ軍は、飛行第244戦隊を恐れたと言われている。終戦まで3000機以上が量産され、第一線で運用され続けた。

米軍からはかなり戦いやすい戦闘機という認識を持たれていたらしい。速度の面では他の日本戦闘機より秀でているが、所詮は米軍機のではなく、逆に一式戦や零戦が得意とした格闘戦では一歩劣るため、米軍機にべ三式戦が優位に立てる要素は火力ぐらいしかなかった。もちろんその重武装が米軍にとっても脅威であったことは間違いないのだが、当たらなければどうということはないB-29迎撃戦では、重武装の二式単座戦闘機や三式戦がB-29を攻撃し、格闘戦に勝る一式戦や五式戦が護衛機を迎撃した。


派生・武装


五式戦闘機

何かとエンジンわる悲話の多い日本軍であるが、三式戦に至ってはエンジンの供給が間に合わないという事態が発生している。川崎の工場にはエンジンのない首なしの三式戦がズラリと並び、設計者である土井技師の心を締め付けていた。

で、それならば首なし機体に「新しい顔よ!」エンジンを乗っけてしまえというアンパンマン的な理論(?)で生まれたのが五式戦闘機(キ100である。
幸い改造箇所は少なく済み、液冷由来のスマートな機体であったために懸念されていたエンジンカウルと機体の隙間もなんとか埋まった。こうして新たに金星を搭載した三式戦は「ゲン100倍!五式戦!」となってへと舞い上がって行った。
こんなヤッツケの戦闘機であるが、五式戦は「名機と名高い四式戦闘機疾風』をも上回る、帝国陸軍最優秀戦闘機」「五式戦をもってすれば絶対不敗」というすら出るほどの優秀機として名を残すこととなる。素体の三式戦の設計が極めて優秀であった左とする意見もある。


現存機


状態の良い保存機としては世界鹿児島知覧特攻平和会館に二の静態保存機があった。2015年8月をもって知覧での開を終了し、川崎重工で修復を受けた後に2016年岐阜県各務原にあるかがみはら航空宇宙博物館へと里帰りする予定。

また、川崎重工ボランティアグループの手によってオーストリアで動態復元が行われている一があるとのこと。


豆知識



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最終更新日: 19/09/29 17:20
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