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上杉禅秀の乱とは、室町時代の応永23年(1416年)に関東地方で起こった戦乱である。
上杉氏憲(禅秀は法名であり、以後禅秀と呼称する)とは山内上杉氏と並び代々関東管領の任についてきた犬懸上杉氏の当主である。犬懸上杉氏とは貞治年間に上杉能憲と並んで関東管領に就任した上杉朝房の台頭と、その弟の上杉朝宗によって基盤が築かれた、上杉氏の有力一門であった。その勢力圏は上杉朝房が守護に任じられて以来代々伝わる上総国に加え、上杉朝宗、そしてその息子の禅秀の代には常陸から奥州にかけても勢力を拡大させていった。
禅秀は上杉朝宗が健在のころから伊達政宗の乱に対する鎌倉府軍の大将になるなど活躍をしており、また父親である上杉朝宗も小山義政の乱や小田孝朝の乱で大将を務めるなど、軍事行動で中心的な役割を果たし、加えて鎌倉で諸奉行職を務めるなど公方近臣として重要な地位にある一門であったようだ。そのことは禅秀の娘が那須資之、岩松満純、千葉兼胤といった有力豪族に嫁いでいることからも見て取れる。
そんな禅秀は足利満兼の死によって父親である上杉朝宗が遁世したことによって跡を継いだ。彼が跡を継いだ際にはすでに出家しており、また父親である上杉朝宗が70歳であったとされることからすでに壮年であったとされる。応永17年(1410年)に彼は、山内上杉憲定に変わって関東管領に就任した。
これは公方足利持氏が幼少であったことや、鎌倉府内で公方の叔父である足利満隆が主導権を握ろうとしたことなど、鎌倉府内で足利持氏が成年になるまでの主導権争いが行われ、その結果足利満隆・禅秀政権が成立したとされる。しかし禅秀自身は関東管領としても幕府から正式に認識され、特に問題なく勤めていったようだ。
応永21年(1414年)についに禅秀の父親である上杉朝宗が亡くなった。その翌年にはようやく足利持氏の親政が行われるようになり、山内・犬懸の両上杉氏の対立が表面化。そして5月2日に禅秀が管領を辞任し、18日に山内上杉憲基が管領となり、対立は山内上杉氏が勝利したようだ。そして10月2日、いよいよ足利満隆と禅秀による乱が勃発するのである。
▲乱は応永23年(1416年)10月2日に足利満隆・禅秀が足利持氏の御所を襲撃したことに始まる。翌日足利持氏は山内上杉憲基の屋敷に移り、前浜や由比ヶ浜で戦いがあったものの追い落とされ、そこから12月までいったん小康状態が続く。
まず、初動の諸氏の反応、および勢力関係は以下のとおりである。
足利持氏・山内上杉憲基方 | 足利満隆・禅秀方 | |
---|---|---|
公方連枝 | 稲村公方足利満貞 | 篠川公方足利満直(途中で←) |
上杉一族 | 上杉氏定、上杉憲光、上杉憲長、上杉満朝 | 上杉憲国、上杉氏春 |
宇都宮氏 | 宇都宮持綱 | 宇都宮左衛門佐 |
小田氏 | 小田持家 | |
小山氏 | 小山満泰(途中で←) | |
佐竹氏 | 佐竹義憲 | 山入佐竹与義 |
千葉氏 | 千葉兼胤 | |
長沼氏 | 長沼義秀 | |
那須氏 | 那須資之 | |
結城氏 | 結城弾正 | |
岩松氏 | 岩松満純 | |
武田氏 | 武田信満 | |
常陸武士 | 烟田氏、真壁氏 | 大掾氏、行方氏、小栗氏 |
武蔵武士 | 豊島氏、江戸氏、南一揆 | 児玉党、丹党 |
一方幕府が乱の情報を知ったのは10月13日ごろであった。最初は足利持氏、山内上杉憲基が既に自害したといったように情報が混乱していたものの、10月29日に評定を行い、足利持氏を支持することとなった。
その結果12月に戦いが再開されたあたりで、一度は禅秀方についたものや、それまで乱に参加していなかったものが持氏方として参加するようになっている。こうして態勢を立て直した足利持氏方は鎌倉へ攻め入り、翌年1月11日に鎌倉を制圧するのである。
こうして乱は上位権力である幕府の支持によって3か月程度で終わったのだ。
▲乱そのものは、当初の禅秀方のもともとの政治的地位の高さもあってある程度優勢だったものが、幕府の支持によってあっけなく終結させられてしまった。しかしこの乱がもたらした最大の爪痕は「応永の平和」を打ち砕いたことにある。
これ以降、足利持氏が禅秀与党の討伐に執拗に心血を注いだのに対し、山内上杉憲基は全面的終結を願い、次第に両者の意見に齟齬がみられるようになった。そんな中憲基は応永25年(1418年)に27歳という若さで亡くなり、越後上杉氏から迎えられて跡を継いだ山内上杉憲実は幼く、持氏の独走を招いていき、永享の乱へと向かっていくのである。
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