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中国共産党


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中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう - 
Communist Party of China
基本情報
公用語名称 中国共产党
・地域 中華人民共和国
本部所在 北京
成立年 1921年7月23日
解散年 --
機関 人民日報
際組織 --
シンボル 鎌と槌
公式サイト 中国共産党新聞[外部]
政党・政治団体テンプレートボックス

中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう、ゾングォゴンチャンダー)は、中華人民共和国政党である。


 概要


中華人民共和国の建政党であり、執政政党である。

中華人民共和国憲法において「党の導性」が明記されており、中華人民共和国の活動は同党の導の下に行われる。

また、「四つの基本原則」も中華人民共和国憲法に明記されている。

8260万人の党員を有する世界最大の政党でもあり、尚且つ一党独裁として10億以上の人民を導する。略称として中共とも呼ばれ、中央委員会の機関紙である人民日報[外部]などでもこの言葉が使われているが、日本共産党蔑称として「日共」があるため、日本では「中共」も蔑称とされることがある。なお、「中華人民共和国」の意味で「中共」を使った場合は蔑称とされることが多い。


党指導者



政治理念



各種言語表記



 中国の統治機関として


中国4000年の長い歴史の中で文明の中心地として栄えた。しかしそのぶん戦争や暴虐な君によって数え切れないほどの人民が苦しんだ

中国共産党はそんな残酷な歴史から人民の等そして階級社会からの解放を掲げ小日本からの侵略に対し中華民族を守り抜いたことで、偉大なる毛沢東席による中華人民共和国を建設し今日まで安な暮らしをもたらした。

中国共産党は、もっと大きな標であり理想である共産主義社会への実現に向けて努している政党である。

共産党はまるで太陽のようだ

々人民の進むべき方向を陽ののように照らし出して下さる

そう、どこであれ共産党さえあれば すべての人民は解放されるのだ!」 (東方紅より)

席の死後、鄧小平席による革開放により経済発展の基礎が作られたため、次第に毛席の思想は現在中国では影が薄いものになってしまった。

されど思想はどうであれ、悪しき封建社会を否定し民主主義を実現させ、さらに小日本侵略に対して中国を守り抜いた中国共産党こそが正当な中国の統治者であることは、まぎれもない事実なのでアル

よって中国共産党の導に人民が口答えをすることは許されないのでアル


概要



建国前史 


1921年、コミンテルンの導のもと上海で結党される。
 当初は国民党に寄生しに軍閥批判の社説を手掛けていた。孫文の死後、蒋介石共産党員の弾圧を命する。(上海クーデター)国民党軍の攻撃に対抗するべく各共産党支部は軍を結成。共内戦が開始される。

しかし国民党軍に太刀打ちできぬまま、逃げ回るばかりのヘタレっぷりをさらすうち12500kmの行軍を経験した軍による勇姿は、中国史上有名な偉大なる「長征」としてり継がれるのであった。

滅亡寸前まで国民党に追い詰めながらも、西安クーデターによって一命を取り留める。学良に誘拐された蒋介石は、とりあえず犯人の要通り日本軍への警を優先するべく、共産党と手を結ぶのであった。

日中戦争が勃発すると、軍は「八路軍」、「新四軍」として抗日戦線の軍隊に編入された。
 とくに、八路軍が日本軍への総攻撃を仕掛けた「団大戦」は、日本陸軍に三作戦(儘滅作戦)を決行させたほど気を狂わせた。一方、ここでようやく名前が出てくる毛沢東が唱えた漁夫の利戦略(持久戦論)に従って、勢を蓄える。

終戦後。蒋介石は和一方的視し共産党へ攻撃を仕掛ける。ふたたび共内戦が勃発するのであった。
前回のような袋叩きにされた軍とは違い、民衆の支持を背景国民党と互に戦えることができた。
さらに戦争の状況を傍観していたソ連は物資援助を国民党から共産党へ切り替える。
 こうしたソ連の恩恵により、さらに強化した人民解放軍(旧軍)に太刀打ちできぬまま、共内戦は国民党敗北に終わるであった。

このとき、台湾へ逃げた去った蒋介石をワタシたちは見逃してあげたのでアル
   だから台湾中国の領土アルネ。これ常識よ。

共産党軍の勝利が確定したころ、この時ばかりは協議を重んじた毛沢東の提案によって行われたのが政治協商会議である。そこで、新しくできる中国の大まかな写真が練られた。

かくして1949年10月1日
毛沢東席による建宣言が高らかに発せられた。民衆の沸き上る歓とともに中華人民共和国は誕生したのである。


毛沢東時代


農民への土地分配や戸籍制度を整えることで、内政の革が進められた。一方で国民党の残党、資本家、知識人階級を粛清するといった恐怖政治も行われている。

15年後にはGDP世界一位ソ連に誘発されて、(あくまで)二位をめざす中国でも大規模な計画経済が発動された。(大躍進) 
このころ、各地で人民社が設立される。
これはごく簡単に言えば、農地を管理するかわり加入者にタダ飯を提供するところである。もともとは「合作社」と呼ばれていた。
それに付け加え、社会保障教育など本来なら政府が行うべき仕事をまかされることで、農民の面倒をみていた。

しかし、どうせタダ飯が食えるんだから働いたら負けっと感じた農民の労働意欲は低下していった。さらに先に触れた大躍進の号により農民は鋼の生産や共事業工事へ駆り出されていった。そのため農作業を行う農民が減少し、農作物の生産が著しく減った。大量の餓死者を出してしまったのである。

そんな安定しない治世が原因で、毛沢東は政権から身を引く。(七千人大会)

かわりに政権を担った少奇は、いままで毛沢東が行った政策を見直すことで、内を安定化させる。

それを面で見ていなかった毛沢東は、の江に頼んで裏から少奇批判の宣伝工作を各地に展開したのである。

そのうえ、スターリン批判をきっかけに中ソ対立が起こると、ソ連に代わる強い社会主義国を築くべく毛沢東の戦略がめぐらされた。

それが、膨された結果、起こったのが悪名高い「文化大革命」である。

学生を中心に結成された紅衛兵。労働者を中心とする造反による暴動が活発化される。

やがて混乱の収束がつかなくなった少奇は失脚。紅衛兵によるしい虐待をうけ、死を迎える。

政権奪還を成し遂げた毛沢東
しかし、四人組の暴走を止めることができないまま、文革継続された。

1976年9月英雄毛沢東独裁者として息を引き取ったのである。


鄧小平時代


毛沢東の後継者となった若き鋒は、権を確かなものにするため、さっそく四人組の逮捕を決行する。
だが、革新的な政策が見当たらないまま人々の人望は鄧小平へと移り変わっていくのであった。

1978年12月、政権奪取に成功した鄧小平は、文革の終了を正式に告げる。今後は内の発展を優先的に取り組むことを明言した。(第11期3中全会)

さっそく亡き周恩来が提言した「四つの現代化」を実践するべく革開放路線を進めていく。

そのため、各地に経済特区定していった結果、経済成長率が8%台までに上昇していった。

しかし、言論の自由も活発になり始めたため、民主デモおこり始める。

そんな民主化に理解を示した胡耀邦総書記は、鄧小平の右腕として手腕を発揮していた。だが、彼の穏健な姿勢が老幹部を始め親分の鄧小平との意見が食い違う結果となり失脚。

これは日本にとっても関係な話ではない。親日政治家でもあった胡耀邦のイメージダウンを防ぐために行った、日本のお節介こそが、靖国参拝を自粛したことである。しかし、皮にも以後の靖国問題といった余計な外交問題をつくってしまうのでアル

耀邦の失脚によって空白となった総書記の座には、鄧小平のもう一人の部下、陽をエスカレーター方式で就任させる。しかし、革開放によって引き起こされたインフレ問題を解決できないまま、不安定な政権がつづく。

耀邦の死後、その追悼式に集まった市民らは、彼の名誉回復を嘆願するため、安門広場に集結する。
が、成り行き任せに大規模な民主デモへと移り変わり、1989年6月、世に有名な天安門事件が起こる。

デモの味方をした陽は老幹部の支持を失うことで失脚。ふたたび空白となった総書記の座には、二階級特進で江沢民が選ばれる。

天安門事件の反をうけて、革開放を見直す議論が政局内部で行われた。

ここで、鄧小平最後の見せ場であるのが「南巡講和」である。老体にを打ちながら上海などの経済特区におもむき、マスメディアに向かって革開放の必要性を訴える。
これにより、一党独裁制と市場経済の導入が正式に盛り込まれた「社会主義市場経済」が成立するであった。

こうして鄧小平は後のことをすべて江沢民に託す。

一方で、49歳という異例の若さ胡錦濤国家席に就任する。事実上、江沢民の次のリーダーに抜されたのである。
背景には、を布きチベット暴動をねじ伏せた胡錦濤の決断が評価されたためと言われている。

経済成長の基礎を築いた鄧小平
香港返還が行われる直前の1997年2月寿を全うするのであった。


近年の情勢(江沢民と胡錦濤政権)


毛沢東鄧小平といったカリスマリーダーの跡を継ぐことになった江沢民。当初は貧乏くじを引いたと思われていた。1994年愛国教育反日教育)を命することで、支持率の上昇を試みる。
しかしその結果、それまで良好だった日中関係が悪化してしまったのは・・・いうまでもないアルね。うん。

その後、朱鎔基首相サポートもあって、再びGDPの成長率も10%台に好転する。前にもまして中国経済が成長していく。

台湾李登輝総統する「二つの中国」をきっかけに、台湾峡事件が起こる。以後、台湾に脅しをかけるため軍拡が行われる。

江沢民自らの手下を政権の幹部に就任させることで上海閥が結成される。それに対抗する形で今は亡き胡耀邦の門下生にあたる胡錦濤率いる中国共産主義青年団(共団)との閥争いがしさを増す。

江沢民政権も盤石となったころ、「三つの代表」といった政策方針を取り入れることで、資本家の入党を許可する。こうして党内の政治革を果たしたことをに江沢民は後のポスト胡錦濤に譲り渡す。

しかし、鄧小平真似のごとく、ナンバー2として実権を握ろうとした。だが所詮は真似にすぎず、すぐさま胡錦濤に実権を譲歩する。


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最終更新日: 19/02/02 16:46
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