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中岡慎太郎


ヨミ: ナカオカシンタロウ
掲示板をミル!
18カキコ!

中岡慎太郎とは、めっさいい笑顔定評のある幕末武士である。


概要


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保9年(1838年)4月13日、土佐安芸北川柏木で、大屋である中岡小伝次の長男として生まれる。幼名は福太郎(もしくは福五郎)、3歳ごろに次と名している。中岡は、地元の有屋で、名字を許された郷士身分である。

幼少の頃から利発かつ胆で、物心のつく頃よりから厳しい躾けを受け、4歳の頃には寺の住職から教えを受ける。7歳の頃には四書の講義を受ける為、二里(約8キロメートル)離れた隣村の塾へ片2時間かけて通いつめ、14歳の頃には塾の講師代役を勤めるほどの童ぶりだったという。

少年時代中岡に関する逸話として、友人達とに遊びに行った際、20メートルもある崖からに飛び込んだというものがあり、その度胸に周りの大人達から「末恐ろしい」と畏怖された。

15歳の頃、後に土佐勤王党の同志となる間崎滄浪に師事し、17歳武市瑞山剣術場に入門

後年共に活躍する事になる坂本龍馬とはこの時期に知り合ったと思われる。


大庄屋見習い


安政4年(1857年)20歳のころ、実家屋見習いとして地元を取り仕切るようになる。同時に隣村の屋の長女かねと結婚

翌年正月々に安政の大地震が発生すると、南北45キロ、東西12キロ、14カ村の広大な区域の被害調を自分の足で行った。二次被害飢饉が発生したため、実家が所有していた山林田を抵当にして食料を買い込み、村民に分け与えた。それでも足りない為、他の村の屋達と協してから800両を借り受ける事に成功する。更に高地まで赴いて、家老の屋敷の前に一夜座り込んで陳情し、中岡の態度に感心した家老によって非常用の貯蓄が開放される事になった。

この時の飢饉を教訓として、田畑善や優良品種の作物を配布して栽培導を行った他、の代用品として柚子を村一帯に植えるなど、覚ましい活躍ぶりを見せた。

なお、柚子現在北川村の特産品となっており、当時木が植えられた場所は「次の並木」と呼ばれている。


土佐勤王党


文久元年(1861年)8月、転機が訪れる。剣術場時代の師範だった武市瑞山が、郷士を中心とする政治結社「土佐勤王党」を結成し、これに中岡も参加。血盟書には192名のうち17に名を連ねている。

文久2年(1862年)4月武市示の下、勤王党員数名によって佐幕の参政・吉田東洋が暗殺された。これにより、吉田の政敵だった内の門閥を味方につけることに成功し、以後山内容堂による弾圧が開始されるまで勤王党が土佐内の導権を握る事になった。


五十人組


10月、勤王党有志は、隠居・山内容堂の身辺警護を理由に江戸出府の願いを出すが、庁から許可が下りなかったため、五十人組なる組織を結成して、嘆願書を庁に届けたまま許可を待たずに自費による江戸行きを決行した。この五十人組の中で8人いた伍長のうちの1人に中岡が名を連ねている。

江戸へ向かう途上、10月京都に滞留していた際に、中岡退助(後の板垣退助)をろうとしていた。は土佐の上士で、山内容堂の側用人を務める重臣であり、五十人組に対抗して臨時組なる組織を結成し、脱同然でやって来た五十人組を罪に処すべしなどと唱えていたためだったが、結局双方矛を収めている。

11月16日江戸に到着し、12月3日に容堂に謁見。この頃に名前次から慎太郎めた。

長州久坂玄瑞や山県半蔵と共に諸を歴訪し、途上で信州佐久間山と会談している。当時佐久間は、かつての吉田松陰密航未遂事件に連座しての居から解放されたばかりで、中岡からの内命によって佐久間を土佐に招聘する的で赴いたとされる。

「幕府が築造してる品川台場台、あれ全然役立たねーよ(´,_ゝ`)プッ
トルコ上に台作ったことあるけど、面に立ててどーすんだよってエゲレス人に笑われてっぞ(´,_ゝ`)プッ」
「この形弾丸、これに回転付けて発射することで火縄銃なんぞ較にならん遠距離まで弾を発射できるんだぜ、知ってっか?知らねーだろ(´,_ゝ`)プッ」
「まあオマイラも漏れみたいな偉人になりたきゃ、西洋の芸術と東洋の道徳を兼ね備えるこった(´,_ゝ`)プップッ」

と、イヤミったらしい知識自慢を披露された中岡達は、門の外へ出ると「参ったな」と顔を合わせて苦笑したという。

「久坂を顧みてく、山の気魄に圧せられたりと。
久坂苦笑しく、其の感ありと。
然れども中岡は、是れより疾払ふが如く、気頓に快活を覚えたりとふ」
(『維新土佐勤王史』)

なお、招聘に関しては佐久間が渋ったのか実現しなかった。


病狼睥睨


文久3年(1863年)2月7日中岡他同士数名が京都土佐邸にて上した山内容堂に謁見した。容堂が酔いながら大で威圧的な言動を繰り返すと、中岡が進み出て合体論を暗に諌めたが、更に絡んできたため手に負えないと感じてそのまま退出した。

合体の容堂は、自分の足元で政治に関与しようとする尊王攘夷、なかんづく郷士を疎んじており、いずれ一斉に始末しようと考えていたが、この時の中岡の態度を買ったのか、土佐への帰の間のみ郷士の最上級職である御徒付に登用している。

後、勤王党員で中岡の師でもあった間崎滄浪他数名が、院宮(朝彦親王)から旨を授かった事を身分を弁えない出すぎた真似として捕縛され、6月切腹の処分が下された。

これが皮切りとなり、同年に起きた八月十八日の政変を機に土佐勤王党員の一斉処断が始まり、中岡の身にも危険が迫っていた。


脱藩


土佐への帰後、中岡は一旦郷里北川村に戻っていたが、8月京都で起きた政変について聞くと、京都の政情を探る為脱を決意。と妻に対して所用があるため高知に行ってくると告げて9月5日立つ。これが家族と故郷との今生の別れとなった。

また、この時期に高知に戻ってきていた退助と面会を果たしており、その席で中岡を割って話し合った結果和解した。後年板垣と姓をめたが、この時のことについて談話を残している。

  『「(上略)まず、あなたに尋ねたいことがある。あなたは京都で私を殺すつもりではなかったか?(^ω^)」
中岡「いや、そんなことはない(з)」
  「それはけしからん(`・ω・´)
   中岡ともあろうものがそのような女の如き態度であるとは、失望のキワミだ…(´・ω・`)
中岡「これは心外千万!如何にもその節はあなたをる覚悟であった!(`・ω・´)
  「そうだろう。その心底はとくと見抜いていた。いや、それでこそ話が出来る(^ω^)」

(中略)

  「勤王の事についてはあなたなどに譲らぬ覚悟である!(`・ω・´)
    今あなたの同志と事を共にしている上士に何か事の出来るものがあるか?
    皆諸君にへつらって、そのくせ何事も出来ぬ俗物だ(´,_ゝ`)」

というと中岡は私に向かって

中岡「あなたはまこと男子と見込んだ!(`・ω・´)
    どうか将来々を引き立てて大いにやって頂きたい!」

って別れた。後日、中岡は何分自分の身上がもてぬから脱するが、いつかは心の現れるときが来るだろう、という手紙を私に寄越して脱してしまった』

9月19日三田に着き、三条実美ら都落ちした七卿が居留していた招賢閣にて面会。21日、三条の使者として土佐へ戻り、10月上旬に入するが、中で危険を知らせに来た同志と鉢合わせした。

の内情を聞くと、武市以下土佐勤王党員は既に一斉に投され、自身にも追っ手が迫っており、内での挽回が不可能と悟った中岡は、同志たちと別れの杯を交わして、路で大阪を経由して三田へ戻り、そのまま長州へ亡命した。

以後再び土佐の土を踏むことはく、生涯を事にげることになる。


禁門の変


10月19日三田到着後、三条らと面会し、土佐の状況を伝え同志として迎えられ、翌会議員に推薦される。

翌年文久4年(1864年)1月京都の状況を探る為に上薩摩の状況を探る為、西郷(従)や中村半次郎が通っていた塾に偽名で入門している他、長州邸にて高杉晋作と共に、朝廷合体論でまとめようとする島津久光の暗殺計画を立てるが、警備が厳重なまま薩摩に帰した為中止し、5月一旦長州へ戻る。

この時、土佐に残った同志たちに対して決起を促す文を送っており、これが後に二十三士野根山屯集強訴事件の悲劇に繋がる。

元治元年(1864年)6月9日長州に兇変が知らされる。6月4日京都池田屋で新撰組による襲撃事件が起こり、宮部鼎蔵吉田稔麿他十数名が殺、あるいは捕縛されたと言う。

らせを受けた長州では和泉来島又兵衛過激派を抑えられなくなり、率兵しての上を開始した。中岡もこの中に加わっており、武衝突が起こる前日の7月18日には、死を覚悟した遺書を家族に宛てて送っている。

一筆呈上奉り

(中略)

去る八月十八日以後、恐れながらの御所置・御齬の次第は、全く会津州らの奸計よりかかる次第に成行事…

(中略)

実に皇の大罪逃るる所にあらずと、一同決心罪を数え鼓を鳴らして其(会津薩摩)の罪を討んと相謀、然として是をに願い奉り、列を伝え、直様突入せんと相決し申。さすれば私共も最この限りの命と御あきらめ仰せ付けられるべく

(下略)

19日、来率いる遊撃隊に加わり御所に向け進軍を開始した。蛤御門に至る途上で足に撃を受けて戦線離脱し、敵に紛れて危うく難を逃れる。圧倒的な兵差の前に長州軍は敗退し、木、来の他、文久以来の友人であった久坂玄瑞も追い詰められ自害した。


二十三士処刑


禁門の変後、中岡7月下旬に三田に帰還し、8月に忠勇隊長に任命され、9月京都偵察のため大阪に向かったが、そこで土佐にて同志23人が斬首されたという知らせを受けた。

武市瑞山の助命嘆願の為に集まり、抗議文を庁に届けたことがきっかけで捕縛され、一度の審問も行われずに全員川原で首をられたと言う。

まだ20歳に満たない少年が数名の他、かつて中岡が説得して同志として引き入れた者たちや義理のも含まれており、血涙の中自制を促す返信を送った。

京都変動以来、長州朝敵の名をり、逆臣益々跋扈、実に下の大事に至り申し

(中略)

又今の中、夷賊摂に来するの説あり、是にいて下の大事去就相定まり申すべく、実にムチクチャに相成り申し

(中略)

下挽回再挙なきにあらず、然しながら今暫く時を見るべし。依て沸騰及脱は甚だ益なり。を抱えて沈黙すべし。外に策なし」

五卿動座


禁門の変後、戦争から第1次長州征伐へと至り、フルボッコ状態の長州において、中岡家老の助命嘆願を同志と連名で久留米筑前福岡に提出するが聞き入れられず、次いで都落ちした五卿(うち2名は出奔・病死で脱落)を福岡に動座させるという恭順の条件に反発を感じたため、動座の意と安全を確認するために動き始めた。

筑前勤王党の志士である月形洗蔵早川養敬と下関で会い、五卿の身の安全を保障する旨を確認すると、今度は動座を提案した西郷隆盛意を確認するため、12月会談に臨んだ。

場合によっては西郷を殺すことも考えていたが、「五卿を筑前に動座させれば、武においても寛大な御処置を下さるようを尽くして周旋に努め申す」と説得されてこれを受けいれた。

この時期に、先の筑前勤王党の形・早川、土佐脱浪士の土方左衛門と交流するうちに、政体変革を起こすには薩摩長州の連携が必要だという考え方にを受ける。

筑前勤王党は翌年慶応元年(1865年)に福岡内で失脚し、形ら要構成員が処刑されたため、中岡土方、そして坂本龍馬がこの困難な仕事を引き継ぐこととなった。


薩長同盟


慶応元年(1865年)2月から5月にかけ、中岡三条実美ら五卿の居る大宰府-京都薩摩邸-下関の間を駆け回り、薩摩士の岩下方平吉井幸輔長州士の桂小五郎村田蔵六伊藤俊輔と連絡を取り合い、両の連携を模索する。

5月京都薩摩邸にて長和解について了解を得、5月24日岩下と共に西郷の居る鹿児島に赴いた。

5月6日鹿児島に到着し西郷を説得。15日に西郷を伴い鹿児島を発ったが、18日佐賀に寄った際に長州再征が京都で持ち上がっているという情報がもたらされた為、これを阻止するほうが先決とした西郷は下関に寄らず大阪に向かってしまった。

21日、下関で待機していた坂本龍馬に会って以上の事を伝えると、一緒に居た桂小五郎激怒した。が帰ろうとするところを坂本と一緒に宥めた後、29日、坂本と共に京都薩摩邸に向かって西郷と会い、長州側の要について根気強く説得を続けた。

その後も京都-下関-太宰府の間を飛び回って周旋を続けている。活動中、長州内部で行動に疑念をもたれていることに関して桂小五郎に宛てた手紙が残っている。


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最終更新日: 17/11/17 22:05
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