7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します
中田英寿(Hidetoshi Nakata, 1977年1月22日 - )とは、日本の元サッカー選手である。現在は旅人兼実業家。現役時代のポジションはMF。元サッカー日本代表。愛称は「ヒデ」、「ナカータ」、「中田氏」。
山梨県甲府市出身。175cm72kg。ポジションはMF。攻撃的MF(トップ下)が本来のポジションだが、キャリアの終盤はボランチとしてプレーすることが多かった。
三浦知良に続いて日本人2人目として、当時世界最高峰のリーグだったイタリア・セリエAでプレー。広い視野と速く的確なパス、強靭なフィジカルによって国際的な評価を確固たるものとし、イタリアで純粋に実力を認められた初めての日本人ジョカトーレである。2000年には、ASローマの一員としてスクデット獲得に貢献。近年では増加した日本人の欧州移籍の道を開いたパイオニアとも言われている。
FIFA主催の全てのカテゴリーの国際大会並びにオリンピックでゴールを決めたことがある唯一の日本人選手でもある。FIFAワールドカップには3度出場しており、いずれも日本代表の中心選手として活躍。アジア最優秀選手賞に2度選ばれたこともある。
2006年ドイツW杯を最後に29歳で現役を引退。以降は、旅人となりながら実業家としても活躍している。
▲小学3年生のときに、兄の影響でサッカーを始め、北新サッカースポーツ少年団に入団する。当時連載されていた漫画「キャプテン翼」がサッカーを始めたきっかけと語っており、小学生の頃に漫画のプレーのほとんどを試したらしい。中学校は甲府市立北中学校に進み、この頃U-15日本代表に選ばれるなど、すでにサッカー関係者からは注目される選手となっていた。
高校は山梨県の強豪校である韮崎高校に進学。中学時代から全国的に有名な選手だったため、県外の高校からもスカウトを受けていたが、県内有数の進学校として知られる韮崎にあえて一般試験で合格。在学中の成績も学年でトップクラスであり、文武両道を実践していた高校時代だった。
サッカー部では1年生の頃からレギュラーを掴んでおり、この頃から上級生相手にも物おじしないスタイルを見せていた。全国高校サッカー選手権には2年生のときに出場。全国大会の実績は目立ったものはないが、アンダー代表での活躍もあって超高校級のMFとしての評価を受けており、高校3年生のときには当時のJリーグ12チーム中11チームからのオファーを受け、神奈川県の3チームの練習にも参加している。
1995年、Jリーグのベルマーレ平塚に入団。入団の決め手となったのは、自分を即戦力として必要としてくれたこと、そして将来の海外移籍を視野に入れた留学を認めてくれたことだった。
1995年3月25日Jリーグ1stステージ第3節ジェフ市原戦において途中出場でプロデビューを果たす。デビュー戦で試合の流れを変える働きを見せたことが評価され、以降出場機会を増やし、5月2日の第12節鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決める。プロ1年目は怪我で離脱した時期があったものの、チームの主力として定着するようになり、26試合8得点という前評判通りのルーキーイヤーとなった。12月27日には、アジアカップウィナーズカップ決勝のアル・タラバ戦に出場し、後半36分に決勝ゴールを決め、自身にとってのプロ初タイトルを自らの手で引き寄せている。
1996年1月には、入団時の約束通りイタリア・セリエAの名門ユヴェントスの練習に参加する短期留学を実現させる。このときの経験により、視野を世界に向けて海外移籍を実現させることを目標に置くこととなる。1997年は、シーズン後半はフランスW杯アジア最終予選出場のためチームを離れることになるが、1stステージでは優勝争いを演じたチームの中心選手として活躍。この年のJリーグベストイレブンに選ばれる。1998年6月のフランスW杯出場後、かねてからの目標だった海外移籍を実現させる。
1998年7月22日イタリア・セリエAのペルージャへの移籍が発表される。背番号は「7」。フランスW杯での活躍が名物オーナーとして知られるルチアーノ・ガウチ会長の目に留まっての移籍実現となった。高校生の頃から将来の海外移籍を見越して語学を学んでおり、入団会見ではすでに流暢なイタリア語を披露。そのため、チームメイトとのコミュニケーションにも困らず、チームに溶け込むのも早かった。
9月13日セリエAでも当時最強と言われたユヴェントスとの開幕戦にスタメンとして出場。3点のビハインドを背負った後半7分にセリエA初ゴールを決めると、14分にもゴールを決める。試合には3-4で敗れたが、セリエAデビュー戦でユヴェントス相手の2ゴールというセンセーショナルなデビューを飾った21歳の日本人選手の名前は一気にイタリア中に知れ渡ることとなる。その後は、チームの不動のエースとして存在感を増すようになり、1年目にして33試合出場10得点4アシストという記録を残し、シーズン前は厳しいと見られていたペルージャのセリエA残留の立役者となる。
1年目の大活躍で数々のクラブから獲得オファーが殺到したが、2年目となる1999-00シーズンもペルージャでスタートすることになる。この年、2年連続となるアジア年間最優秀選手賞も受賞。そして1月の移籍マーケットで次のステップへと進むことになる。
2000年1月13日セリエAの強豪クラブであるASローマへの移籍が決定。背番号は「8」。当時ローマの監督だった名将ファビオ・カペッロが自ら獲得のために中田と会談するほど強く希望したことで実現することになった。しかし、トップ下の位置には絶対的なエースであるフランチェスコ・トッティが君臨していたため、ボランチでの起用となった。だが、慣れないポジションでペルージャ時代ほどの活躍を見せることができず、徐々にスタメンを外れることが増え、トッティの控えという立場に落ち着いた。
2000-01シーズンはローマが大型補強をおこない、ガブリエル・バティストゥータやマルコス・アスンソンといった実力者が加入したことで当時の外国人枠の関係からベンチを温めることが多くなる。さらに、チームは大型補強が実って首位を走り、チームに入り込む隙はないように思われた。それでも、第27節ウディネーゼ戦でトッティの出場停止によりスタメンのチャンスが巡ってくると、この試合でゴールを決めるなど、腐らずにアピールを続けていた。すると、これまで出場の妨げとなっていたEU外国籍選手の出場制限規定が2001年5月4日に撤廃される。スクデットを争っていた5月6日の第29節2位ユヴェントスとの天王山に、2点リードされた後半15分トッティとの交代で出場すると、後半34分に豪快なミドルシュートを叩き込み、反撃の狼煙をあげる。さらに後半ロスタイムに放ったミドルシュートのこぼれ球をヴィンチェンツォ・モンテッラが押し込み、同点に追いつく。この試合を引き分けに持ち込んだことがローマの18年ぶりのスクデット獲得の決め手となる。日本人選手が初めてスクデットを経験した歴史的な快挙となった。
2001年7月6日出場機会を求め、セリエAのACパルマへの移籍。移籍金は約33億円と当時アジア人最高額にまでのぼり、背番号は「10」を与えられるなど、大きな期待を背負っての入団となった。しかし、2001-02シーズンのパルマは大きく低迷してしまい、自身も期待通りのプレーを見せられず、批判に晒されるようになっていた。二度の監督交代という混乱に陥る中、自身もプレー機会を与えられない時期を過ごし、まさかの残留争いに巻き込まれかけるほど苦戦をしたが、終盤にレギュラーに返り咲き、10位でシーズンを終える。一方、コッパ・イタリアでは決勝まで進出。ユヴェントスとの第1戦では1ゴールを決め、結果的にこのアウェイゴールが優勝に結びつき、イタリアでの2つ目のタイトルを獲得する。
2002-03シーズンは、アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に「三本の槍」と称されたトリオを形成する。だが、この年就任したチェーザレ・プランデッリ監督から与えられた役割は、右サイドで守備に奔走する本来のプレースタイルと異なる役割であった。自らの仕事を忠実にこなし、1年間主力としてプレーし続けることはできたが、アドリアーノとムトゥが好き勝手にプレーするツケを払わされるような格好となり、不満を募らせるシーズンとなった。
2003-04シーズンも守備的な役割を要求するプランデッリ監督との確執が悪化するようになり、とうとう試合に出るよりもベンチに座っている時間のほうが長くなってしまう。次第に、パルマでの日々に見切りをつけ、自分を必要とするチームを探すようになる。
2004年1月3日ペルージャ時代の恩師でもあるカルロ・マッツォーネ監督が率いるボローニャFCに半年間のレンタル移籍で加入。背番号は「16」。中田の実力を高く評価するマッツォーネ監督からIHとして起用されると、水を得た魚のように本来のプレーを取り戻し、ペルージャ時代を思わせるような高いパフォーマンスを発揮。加入してからの半年間で全試合フル出場を果たし、チームをセリエA残留に導く。シーズン後、チームも本人もボローニャへの完全移籍を望むが、金銭面でパルマとの折り合いがつかず断念することに。
2004年7月18日チーム破産から復活してきたACフィオレンティーナへの移籍が発表される。背番号は「10」。しかし、ボローニャ時代に代表戦も含めての過密日程をこなしていた影響によってサッカー選手の職業病といえるグロインペイン症候群を発症。その治療のためシーズン前の合宿に参加できず、コンディションも整っていなかったため低調なプレーを披露し、現地ファンに酷評される。結果、出場機会が減ってしまい、居場所を失ってしまう。さらに次のシーズンからパルマ時代に確執のあったプランデッリ監督が就任することが決まり、またも新天地を探すことになる。
2005年8月、7年間過ごしたイタリアの地を離れ、イングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍を果たす。背番号は「16」。加入当初はレギュラーとして起用され、10月29日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦でフリーキックから直接ゴールを決め、プレミアリーグ初ゴールを記録。しかし、代表戦への合流を続けていたことがサム・アラダイス監督の不信感を募らせ、徐々に出場機会が減少。加えて中盤を省略してロングボールを多用するアラダイス監督の戦術にプレースタイルが合致していなかった。終盤の5試合は連続してスタメンで起用されるが、初のプレミアリーグ挑戦は不完全燃焼に終わる。そして、これが中田の現役生活最後のクラブとなるのであった。
最初に代表チームに呼ばれたのは、1991年の中学生時代のU-15日本代表。2年後に日本で開催されることが決まっていた世界大会に向けての中心選手と見込まれていた。1993年8月に日本で開催されたU-17世界選手権に出場するU-17日本代表に選出される。ガーナ、イタリア、メキシコといった強豪国と同居したグループリーグを2位で突破すると、準々決勝でナイジェリアと対戦。この試合でゴールを決めるものの、圧倒的な身体能力を持つナイジェリアの前に完敗。このときのヌワンコ・カヌを擁したナイジェリアの強さから中田は世界を見据えたサッカー生活に取り組むようになる。
1994年9月にインドネシアで開催されたAFCユース選手権に出場するU-19日本代表に、当時高校3年生にして飛び級で選出される。松田直樹と共に下の世代の選手ながらチームの中心としてプレーすると、グループリーグ第3戦のクウェート戦、準決勝のイラク戦でMOMに選出され、日本の21年ぶりの準優勝とワールドユース出場権獲得に貢献。自力でアジア予選を突破しての出場は初となった。