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享徳の乱


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享徳の乱(享徳3年12月27日1455年1月15日) - 文明14年11月27日1483年1月6日))とは、室町時代に起こった戦乱である。

関東戦国時代開始の原因であり、日本における三十年戦争、もしくは室町将軍足利関東足利の対立がもたらした室町百年戦争の最終局面である。宗教が絡んでこないだけ欧州よりマシかも知れない。


概要


鎌倉府開府以来積み重ねられた関東における複数の対立軸が鎌倉足利氏関東管領上杉氏の対立に集約されて開始された戦乱である。しかし、足利成氏戦争の高さと、京都の幕府における大名の政治的争いの結果、おなじようにおきた永享の乱とは較にならないほど戦乱が巨大化かつ長期化した。関東全体が戦域となると同時に、戦乱の影が南羽、甲信越駿京都の幕府まで巻き込んだため、応仁の乱と並ぶ室町時代最大の大乱となった。

最終的には義詮・基氏以来の鎌倉府体制を崩壊させ、鎌倉方、関東管領の権、勢は大きく縮小。関東における戦国時代を招く原因となった。


鎌倉府成立


そもそもの発端は、南北朝時代足利尊氏足利直義兄弟喧嘩を始めたことによる。元々は仲の良かった二人だが、高師直の権勢が上昇した結果、両者が互いに争い、まず高師直が没落して殺され、次いで直義も死亡という壮絶な結果に終わった。(観応の擾乱

当初、室町幕府の政務は直義が中心に行っており、このを埋めるために、尊氏は当時、鎌倉にいた足利義詮を呼び出し政務を行わせた。そしてこの義詮の代わりに足利基氏鎌倉に下向した。これが、鎌倉方(鎌倉殿)及び鎌倉府の始まりである。

この鎌倉方の下には関東執事、後の関東管領が就いて補佐した。色々な動乱政変を経てこの役職は尊氏の方の系である上杉氏が世襲することになる。だが、この関東管領は単純に鎌倉方の部下というわけではなく、京都将軍鎌倉府の関係を取り持つ役も任されていた。上杉氏は、上杉山内上杉、扇上杉、越後上杉などの諸に分かれて関東やその近隣で勢を拡大する。

鎌倉府は組織としては小幕府というべき機構であった。京都の幕府は将軍―管領を軸に、探題、守護、その他の下部を統制したように、関東でも鎌倉方―関東管領を軸に京都の幕府と同じく政所、所、問注所、評定衆引付衆を置いて守護や諸氏族の統括を行い、更には恩賞充行権(おんしょうあておこないけん)すら持っていた。関東地方は先代である鎌倉幕府の本拠地で武発祥の地であり、加えて守護以外にも有力武士が多数存在する関東統治の難しさを踏まえ、鎌倉時代の「御恩と奉」を考えれば、これこそ関東武士鎌倉方に従って、後々まで君と仰ぐ理由となった。また武士の中には、頼が幕府を置いた鎌倉の土地こそ、幕府の土地に相応しい。言い換えれば鎌倉には幕府があるべきだという考えがあったのかもしれない。

義詮と基氏は同兄弟であったため仲は良く、この時期の京都関東の関係は良好であった。基氏とその子孫は基本的にこの京都との関係を背景に、関東武士の統制及び方の権拡大をしていった。


京都と鎌倉


だが、正二十二年/貞治六年(1367年)に義詮と基氏が相次いで死ぬと、京都鎌倉政治的関係は徐々に冷えていく。

先に、鎌倉は小幕府であるといったが、それは全に京都から独立していなかった。関東管領、守護の任命権は京都将軍がもっていた。鎌倉方が管領、守護を名し、形式的に将軍が任命するものではあったが、時に京都側はこの任命権をもって鎌倉側の人事を拒否した。この問題は、後々、上杉謙信北条氏康の時代まで尾を引くこととなる。

加えて、このように京都将軍から鎌倉方へ偏諱を与えることで、将軍鎌倉疑似的に親子関係を結んでいた。これは鎌倉方の血統が将軍に成れる可性を示唆したが、一方で京都は親、鎌倉が子であり、京都に対し鎌倉が下であることも示唆していた。


動乱の種


こうした扱いに対し、鎌倉方も不満を覚えていた。京都の方はあくまで鎌倉府及び鎌倉方は幕府の一機関であるとしたのに対し、関東の方ではどちらも同じ方であると意識されていた。こうして、鎌倉方は京都からの独立、更には将軍位の奪取をい続けた。二代鎌倉足利氏満は、康の政変(康元年、1379年)の際、挙兵しようとする関東管領上杉の諌死によって断念三代目鎌倉足利満兼は応永の乱を起こした大内義弘と手を組んで足利義満に対し、反抗しようともしたが、関東管領上杉定の諫言により中止した

こうした中で、京都鎌倉の間を取り持っていた関東管領上杉氏と鎌倉方の関係にも徐々に裂が生じていくことになる。その上杉氏も関東でのを蓄えようとして土着の武士と対立する。鎌倉方は関東武士たちの統制を取ろうとして、これに対し、京都側から反鎌倉武士たちを支援して、京都扶持衆と呼ばれる集団を形成した。この結果、

という対立軸が生じはじめていた。これらがそれぞれ別個に絡みつきながら関東は動乱へと突入していく。ややこしいことこの上ない。


動乱発生、上杉禅秀の乱


こうした中でまず火のついたものが上杉禅秀の乱である。詳細は個別記事に移るが、応永二十三年(1416年)に鎌倉府内部の政治闘争の結果、それまで権を握っていた足利満兼の足利上杉敗北し、代わって山内上杉足利持氏へと権が移行したのが原因である。これによって、上杉とそれに協していた諸族は没落した。

だが、ここで鎌倉府の中で、自身の権拡大を狙う足利持氏と乱の期鎮圧を願う山内上杉で意見が乖離し始める。乱は、宗方の残党への攻撃からそのまま、関東矛盾を解消するための反持氏勢への攻撃に変化していった。応永三十年(1423年)も終わりに近づいて、鎌倉府側の京都への謝罪によりようやくこの問題は収束するのである。


籤引将軍足利義教


だが、応永三十二年(1425年)に五代将足利義量が死に、更に正長元年(1428年)には前将軍足利義持が死んで、義持の義円が六代将足利義教として還俗した。義持死亡時点で僧体でなく義持に最も近い血筋の人物は持氏だった。ところが、将軍になることはおろか六代を決める籤引に名前すら上がらず、持氏はこれに不満を抱いた。

一方で義満時代の将軍を取り戻そうとした義教は、各地の大名を権を奪いもしくは討伐し始める。この対には当然の如く鎌倉府も範囲に入っており、義教、持氏とも政治的に強硬姿勢が立つ両者はしく対立していく(言ってしまえば両方喧)。

京都側では、宿老斯波義畠山が義教の強引な政策を抑制し続けていたが、永享五年(1433年)に両者が死去すると、以後幕府では諫言できる者がいなくなり、ついに義教の専制状態となる。一方の関東でも、時の関東管領山内上杉実は武衝突を必死に回避しようとして京都鎌倉の間を取り持ち続けたが、こうした行動を持氏は裏切りとしてとらえた。

義教は鎌倉府管轄の甲斐の紛争へ介入し、逆に持氏は駿河や三河の武士たちを味方に引き入れようとした。こうした中で持氏は長男賢王丸の元の際、長男のそれまでの慣習としていた将軍偏諱めず義久とし、更には鶴岡八幡宮八幡太郎を名乗らせた。

実も義久の元を契機として全に対立へと移った。だがこれを京都側が、関東において持氏を抑制できる人物がいなくなったと判断する理由となり、これを受けて義教は持氏討伐の準備を進めていく。


永享の乱・結城合戦


こうした中で、京都鎌倉方対関東管領の対立に火が付くのである。

永享十年八月十四日に実が所領の上野に帰ると、持氏は実討伐の兵をあげた。持氏はこれを幕府への反逆ではないと考えていたようだが、幕府方はそうは考えなかった。義教はこれを救うため、八月二十二日には京都から持氏に討たれた上杉秀の子の上杉大将として持氏追討の軍を出す。更には御花天皇から持氏討伐の綸旨を獲得。持氏は朝敵となったのである。京都側の圧倒的な軍が各方面から迫り、裏切りが続出する中、十一月には持氏は降伏した。実は持氏の赦免を願ったがわず、翌永享十一年二月十日鎌倉永安寺にて持氏自害。子の義久も同十八日に鎌倉寺にて自害した。これを永享の乱といい、これにより一時的に、鎌倉方は断絶する。

しかし、まだ終わらなかった。翌永享十二年(1440年)三月、持氏の遺児である王丸と安王丸を擁して結城が幕府に対し挙兵したのである。同時に南羽で親幕府だった篠御所足利満直が打たれた。幕府方は直ちに兵を送ったが、諸大名のわぬ足並みで、戦いは長引き翌年嘉吉元年四月まで長引いた。だが、結城は負けて結城は陥落し、王丸と安王丸は義教の命で殺された。これを結城合戦という。

鎌倉方系統の政治が一切なくなったことで、関東京都の幕府によって他の地方と同じく一元的に統治支配される、はずだった。


鎌倉府再建


ところが、この結城合戦の戦勝会で播磨守護赤松満祐によって、義教が打ち取られ、幕府は大混乱に陥ることとなる。これを嘉吉の乱という。

関東では上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦と動乱が続いた上に、武士団と上杉氏との対立が未だ燻っており、永享の乱結城合戦の勝者上杉氏とその配下勢は、幕府の勢背景に持氏方に付いた武士団を攻撃、土地を奪い取っていった。

その上関東管領上杉実は永享の乱後に出引退し、上杉清方に関東管領の役職を譲ってしまった。結城合戦で一度復帰するも戦いが終わると再度出し、その上、実は京都にいた次男房顕以外の息子を出させてしまった。文安元年(1444年)清方が死去すると、山内上杉氏の当がいなくなった。つまり、関東管領もその成り手もいなくなったのである。鎌倉府体制の長官と次官がいなくなり、ここに鎌倉府体制が崩壊してしまい、関東一気に不穏な状況となる。このため、関東武士達は鎌倉方再を幕府にめるのである。

上杉氏勢にとっても、幕府にとっても、鎌倉方はともかくとして関東管領はいなくては困るので、幕府は綸旨まで持ち出して再三実に復帰を促したが実はこれを固辞。仕方なく、山内上杉氏の長尾景仲は実の息子忠を還俗させ忠として関東管領に擁立する。実は激怒して忠を義絶した。

一方鎌倉方は義教の子を擁立して鎌倉府の再建をす動きもあったが、これは嘉吉の乱上杉氏の反対に合い挫折。越後守護上杉房方の働き掛けもあり、文安四年(1447年)に持氏の遺児万寿王丸を第五代鎌倉足利成氏とし鎌倉府再建を幕府が容認したのだった。


再建から大乱まで


新しく始まった再鎌倉府だが、その歩みは全く順調ではなかった。まず、成氏も忠もまだ十代と若く、持氏を支持した関東の武たちと上杉氏勢の紛争にを発揮できなかった。加えて、鎌倉方から京都の幕府に送る手紙には関東管領の副状が付けられることが義務付けられ、これなしでは効を発揮しないとされるなど、鎌倉方の権は従前とはならなかったようである。こうした中で、関東武士達は成氏に近づき、上杉氏勢忠の下に結集し、日に日に対決姿勢を強めていった。


江の島合戦


こうした中で、上杉氏勢が動きを見せた。宝徳二年(1450年)四月、東不双の案者と称された山内上杉長尾景仲と扇上杉太田道真が成氏を急襲した。成氏は鎌倉を脱出し小山氏、千葉氏、宇都宮氏、小田氏らを味方につけて体制を立て直す。一方の上杉氏も成氏を追って、両者は越や由突。ここで長尾太田両氏は敗北し扇上杉居館糟屋まで逃れていった。


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最終更新日: 20/06/07 21:42
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