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佐久間信盛


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「佐久間信盛」さくま・のぶもり 1528?~1582年)とは、戦国時代の武将である。
織田信長に仕えた重臣だが、晩年は織田から離れて高野山に入った。


概要


愛知県西部)の有国衆佐久間の出身。
若い頃から織田信長に仕えて軍事・外交で活躍した。

信長最大の敵とされる石山本願寺との抗争(石山戦争)では、佐久間信盛が現場の揮を執った。
石山戦争終結後、信長から職務怠慢を非難する折檻状を送り付けられた佐久間信盛は、長男と共に出奔して高野山へ上った。
しかし信長の命高野山から追い出されてしまい、織田に戻ることなく病死した。

下記の折檻状の内容から、近代以降の評価はイマイチな武将である。


19ヶ条の折檻状


1.佐久間親子は5年も天王寺砦で戦の揮を執っていたのに手柄を立てていないので、下の人々は不審に思っている。この信長も思い当たることがあり、言葉にもできないことである。

2.おまえたちの考えを推量してみるに、本願寺は強敵だからと考えて戦わず、説得や調略も行わず、砦の守りを固めているだけで数年も経てば、相手は僧侶であるし、ゆくゆくはこの信長の威によって退去させることができると考えていたのだろう。
だが武者とはそういうものではない。このような時、おまえたちが勝敗を見極めて戦っていれば、この信長にとっても、おまえたち親子にとっても良いことだったし、将兵も余計な苦労をしなくて済んだ。それなのに一つの作戦に拘ったおまえたちは思慮が浅いし、命を惜しんだことは疑いようがい。

3.丹波攻略明智光秀は大活躍して、下の人々に絶賛された。次に羽柴秀吉は数ヶ攻略して類のない活躍をした。池田恒興は率いる兵は少なかったが、荒木方のを攻め落として、やはり下の人々から賞賛された。
おまえたちは同僚の活躍を聞いて発奮し、任務に励むべきだった。

4.柴田勝家は同僚たちの活躍を聞くと、越前を任されながら手柄を立てなくては下の評判が悪いと心配して、この加賀定した。

5.本願寺と合戦することに自信がないなら、与人衆に調略を任せたり、それでも上手くいかないならこの信長たちに相談すればよかったのに、5年の間一度も相談に来なかった。油断であり怠慢だ。

6.寄騎の保田知宗が送ってきた手紙には、「本願寺を制圧すれば他の小城の一勢は退散する」と書いてあり、佐久間親子の判子も押してあった。しかしおまえたちは今までこんな報告はしてこなかった。手紙を送ってきたのは、おまえたち佐久間親子があれこれ言い訳して保身を図るためではないのか。

7.臣団の中で、おまえは特別な待遇を受けている。三河・尾近江大和河内和泉の者たちをおまえの与にした。根来衆もいるから、紀伊もそうだ。多数の軍勢を動員できる大身は与にはいないが、七ヶの与佐久間の将兵を結集すれば、どんな戦をしても敵に後れを取ることはなかっただろう。

8.粛清した水野信元の旧領である三河刈谷の土地を預けたので、水野臣団を取り込んで佐久間の将兵が増えただろうと思っていた。
しかし、おまえは水野の旧臣たちを雇用するどころか追放してしまった。彼らを追放して浮いた人件費で新しい臣を雇用すればいいのに、一人も雇用していない。税を貯めこみ、金銀に替えて私を肥やしているのは、言語同断である。

9.尾山崎と土地も任せたのに、この信長が言葉を掛けるほど期待した人々も追放してしまった。
これも直前に書いた刈谷の場合と同じやり口なのだろう。

10.佐久間譜代の臣たちの知行を加増したり、彼らの部下に与を配属したり、臣の新規雇用を行っていれば、こんな落ち度にはならなかっただろう。貯蓄ばかり考えるから、下の面を失うのだ。おまえたちの悪評は中国大陸ヨーロッパにまで伝わるぞ。

11.先年、朝倉軍を追撃して撃破した時、臣たちの判断が鈍く追撃が遅れるところだったので、けしからんことだと叱ってやった。ところがおまえは恐縮するどころか自分の功績を自慢した挙句、席を立ってしまった。そのせいでこの信長は大恥を掻いた。
おまえは大口いたが、あの時この信長が叱ったようなことをいつまで経っても繰り返した。この卑怯さは前代未聞だ。

12.息子佐久間信栄の罪状を書き出すときりがない。

13.まとめると、おまえたちは欲深く、気難しい上に、優秀な人物を雇用しなかった。物事を真剣に考えて取り組まなかった。要するに武のを心得ていなかったから、こんなことになったのだ。

14.与にばかり戦わせて軍役を務め、自分の臣も増やさず、領地の収益を駄にしている。卑怯である。

15.おまえの与臣たちまで、おまえを恐れて遠慮している。おまえが自分の思慮を自慢し、「可らしく振る舞う女性が、錦の中に針を隠しているかのように」相手の思惑を探るような怖い扱い方をするから、与臣たちはおまえたちを恐れて何も言えなくなってしまったのだ。

16.この信長督を継いでから、おまえは30年働いてきたが、その間に素晴らしい働きだとこのが讃えるようなことは一度もなかった。

17.この信長が勝てなかった戦いといえば、武田信玄が大軍を率いて徳領を攻撃したので援軍を派遣した時のことだ。勝敗は戦の習いではある。
それでも、大切な協者である徳川家康を助けるために派遣したのだから、武田軍に負けるにしても、おまえの兄弟を討死させるなり、譜代臣を討死させていれば、「佐久間信盛が生き延びたのは、卑怯者だからではなく運が良かったからだろう」と下の人々は考え、不審に思うことはなかっただろう。
だがおまえは佐久間勢からも死なせず、それどころか同僚の平手汎秀を見殺しにしておきながら、下に対して気な顔をしている。おまえには全く思慮が足りないことは、これで明らかだ。

18.こうなったからには、どこかの敵を攻め降して名誉を挽回して戻ってくるか、討死するしかない。

19.あるいは親子ともども頭を丸めて高野山へ上り、ひたすら許しを請うべきであろう。

右のように、数年の間、全く功績がなく、お前たちが命を惜しんでいることの詳細は今度の保田のことで思い当たった。そもそも下を治めている信長に口答えする輩は信盛から始ったのだから、これをもって、終わりの2ヶ条を実行せよ。もし実行しないなら、下は二度とお前たちを許すことはない。

る。
織田信長に仕えた重臣だが、晩年は織田から離れて高野山に入った。


功績を残した宿老


上記折檻状の内容から、佐久間信盛の評判は芳しくない。
粛清されて当然の無能武将
魔王信長使い捨てられた可哀そうな人
・時代の変革者である織田信長に付いていけずした常識人

そんな佐久間信盛は、しかし織田信長の生前の事業に最も貢献した武将だった。
羽柴秀吉豊臣秀吉)も明智光秀柴田勝家も、彼には及ばなかった。

時期 織田信長を取り巻く状況 佐久間信盛の活動
1550年代 宿敵の今川義元斎藤義龍に挟まれて苦戦。
多数の親族・重臣・国衆信長を見限った。
一貫して信長を支持。
軍事・調略で信長の勢拡大に貢献
1560年代 徳川家康と同盟。美濃近江南部伊勢を征
将軍足利義昭を奉じて上作戦を実行。
を援護。
外交で上作戦の根回しをして実現。
1570年代
前半
敵対勢信長包囲網を結成。
包囲網との抗争で多数の親族・忠臣を失い苦戦。
各地の合戦で勝利して織田を守り、
同時に協者の足利義昭を救援。
1570年代
後半
足利義昭導の新たな信長包囲網と抗争。
石山本願寺と全面対決。
信長と共に石山戦争に取り組む。
並行して近畿中国地方を転戦。
1580年 石山戦争終結。
織田の圧倒的な優勢が確立された。
石山本願寺と交渉して退去させた。
直後に折檻状を送られて、出奔。

国衆や寺社と揉め事を起こすトラブルメーカーだった秀吉や勝と違い、佐久間信盛は信長の手を煩わせない優等生だった。


<佐久間信盛の地位>

林秀貞と共に織田臣団の宿老
軍事外交における活動内容から、他の重臣たちより一段上、というより別格の地位にいたとみられる。
・上後は最重要拠点の近江西部を管轄(京都を含む足利義昭の勢圏と隣接する)
ケ崎の撤退戦の後、信長は永原近江の佐久間信盛の居)で情勢を見てから次の行動に移った。
信長織田督と居岐阜)を息子織田信忠)に譲った後、佐久間信盛の屋敷に居候した。
朝廷から平和的解決を要された織田最大の難題『石山戦争』に、信長と協して取り組んだ。
・宣教師ルイスフロイスの記述→「佐久間信盛は、織田信長に仕える最高位の軍事官」


<困った時の佐久間頼み>

信長は重要な局面では佐久間信盛に重要な任務を託すことが多かった。

時期 課題 佐久間信盛の行動
1560年代
後半
河西部の国衆徳川家康に従わない。
作戦前に徳婚姻関係を結びたい。
西三河衆を攻撃して織田に従わせた。
その後、徳を徳岡崎まで護衛。
1570年 ケ崎の戦の後、信長軍が美濃へ帰還。
その間に近江南部六角が挙兵。
六角軍に負けると、織田は協者の足利義昭と分断されてしまう。
に籠って信長足利義昭からの救援を待つのではなく、出撃して野戦で六角軍と決戦
柴田勝家と協して六角軍に勝利
1570年代
前半
足利義昭が、敵対勢に攻撃されて危機に陥った。最悪の場合、織田は東西から挟撃されてしまう。
浅井朝倉・願寺(三重県)が邪魔で、信長はすぐに救援に行けない。
佐久間信盛が近江大和河内などの国衆を統率し、足利義昭を救援。
佐久間信盛が織田軍を率いて出張ると、敵はすぐに逃げるか降参した。
戻り次第、織田の戦に参加を繰り返す。
1572年 徳川家康が、武田信玄に攻撃されて窮地。
織田が援軍に行くまで時間稼ぎが必要。
近畿の政務と軍事で忙しい佐久間信盛まで駆り出された。
佐久間が徳領に近いことが理由か。
家康武田軍に決戦を挑んだため、任務失敗。
1574年 越前武田勝頼讃岐衆(徳島香川)の攻勢で、織田軍が負け戦続き。
朝廷に後ろを頼む。
朝廷伝説級の香木『奢待』の切り取りを許可朝廷織田アピール
佐久間信盛は信長と一緒に奈良へ行き、切り取り拝領の奉行(企画責任者)を務めた。
1575年 信長が隠居。も屋敷も息子に譲り、自身は佐久間信盛の屋敷に居候した。
ただし隠居後も近畿の政務は信長の担当。
佐久間信盛は、信長に新しい居(政庁)を構えることを提案。
信長は大喜びして採用した。
これが幻の名安土城』の始まりである。
1575年 本願寺包囲戦の揮を執った原田直政が戦死。
明智光秀たちが敵中に孤立。
信長光秀を助けたい。
本願寺1万5千の大軍に、信長は3千の軍勢で突撃。佐久間信盛も一緒に突撃。
結果は織田軍の大勝利
1576年 信長(あるいは徳)が水野信元を排除。
水野知多半島などの重要地に推定20万石の所領を有した有大名。
水野の遺領をかが管理する必要がある。
佐久間信盛が水野領の管理を任された。
ただし信盛は居を8年前に近江滋賀県)に移しており、近畿の政務・軍事で多忙だった。
信盛個人ではなく佐久間を当てにしたか。
1578年 羽柴秀吉失策中国地方国衆が多数離反。
足利義昭を擁する毛利が大軍で播磨へ侵攻。
毛利軍は上を包囲し、野戦築を開始。
秀吉信長に救援を要請。
の救援=毛利軍との決戦となる。
信長は自ら援軍を率いて毛利軍と戦いたがったが、佐久間信盛ら重臣たちが反対。
信長秀吉は上見殺しを決断。
毛利軍は自軍に有利な戦場織田軍に決戦を挑む機会を逃してしまった。
1580年 本願寺は戦乱続きの近畿で流通を維持したり、朝廷に多額の献を行う等、功績は多大。
朝廷から石山問題の平和的解決を要された。
朝廷に幾度も窮地を救われた織田は、期待に応えなければならない。
佐久間信盛は石山本願寺に対する包囲を続けながら、信長の側近や公家衆と協して石山本願寺と交渉。
織田との長年の抗争で血を流した本願寺も、佐久間信盛たちを信じて石山から退去した。

人物


人衆・佐久間の子。
佐久間は尾南部の有な武で、織田に従っていた。
また熱田神宮大宮を務める千秋とは親戚で、この千秋東海道伊勢湾交易で繁栄した商業都市『熱田』に強い影を及ぼした。その熱田は織田の重要な支持層・財だった。
佐久間信盛が若い頃に佐久間父親)と織田信秀君)は亡くなった。
信盛は織田信長に仕えた。信長が孤立した時期も、信長を佐久間信盛が見限ることはかった。


<人付き合いは得意>

佐久間信盛は外交・調略でも大きな成果を残した武将だった。
大和奈良県)の筒井順慶松永久秀は宿敵の間柄で、一方を味方にすれば他方が敵に回ったが、佐久間信盛は両者と友好関係を結んで彼らを織田に繋ぎ止めた。
松永久秀足利義昭の扇動で最後の謀反を起こした際、佐久間信盛は討伐軍に参加して松永を滅ぼした。松永に従っていた柳生などとも交流があり、そのためか戦後松永領の処理に参加した。


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最終更新日: 19/05/03 17:53
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