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兼六園


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兼六園とは、石川県金沢市にある日本庭園である。定特別名勝日本さくら名所100の1つ。


兼六園の特徴


兼六園
特別名勝
日本さくら名所100
[画像を見る]
ヶ池畔にある
徽軫灯籠と風景
面積 114,435.65兼六園公式パンレットより
木数 8,750本兼六園公式パンレットより
木の種類 54183兼六園公式パンレットより
築庭者 前田綱紀前田斉広、前田斉泰など
築庭年 1676年~1860年

茨城県水戸市にある偕楽園岡山県岡山市北区にある後楽園と並んで日本三名園の一に数えられ、にわずか36ヶ所しかないの特別名勝定されている北陸地方を代表する勝地である。ちなみに定名勝は全に422ヶ所あり、これと対して36という数字がどれだけ重みがあるものであるか、一瞭然である。(参考:文化財指定等の件数(文化庁公式サイトより)[外部])

金沢徴ともいえる徽軫灯籠(ことじとうろう)がある庭園としても全的に有名で、北陸地方で屈人気を誇る観光スポットである。また、シーズンを通して様々な顔を見せてくれる庭園としても知られ、特に晩季にしか見られないりをした唐崎(からさきのまつ)の風景は徽軫灯籠の風景と並んで人気が高く、こちらも金沢徴する風景となっている。
また、季は季はカキツバタやつつじ、季は紅葉風景が楽しめ、特に季は日本さくら名所100に選定されるほど高い評価を得ている。

加賀前田の居である金沢に隣接しており、兼六園はその庭として重宝された。また、園周辺には定重要文化財で13代前田斉泰(まえだなりやす)が君の院の隠居所として建てた成閣(せいそんかく)や、金沢の地名の由来となった金城霊沢(きんじょうれいたく)、菅原道真とし学問必勝の神社として地元で人気金沢神社石川県ゆかりの美術品を展示する石川県美術館などが隣接している。
なお、金沢とはお通りを挟んで隣接するが、石川門からお通りを渡る石川を介して兼六園と繋がっており、行き来することができる。

兼六園の一番の特徴は遊式庭園兼六園公式サイト[外部]によると、日本庭園には大きく分けて「座観式」と「遊式」の2種類の庭園がある。「座観式」はいわば一般庭にあるような庭園のことで縁側や和室などから見て楽しむのに対して、「遊式」は自らの足で見てる庭となっており、例えるならば公園遊園地の感覚に近い庭園方式となっている。を基調としており、園最大の池にして中心部に位置するヶ池を軸にして遊することができる。


兼六園の歴史兼六園の歴史(兼六園公式サイト)[外部]



兼六園の草創


兼六園の起こりは江戸時代にまでさかのぼる。

1583年(正11年)、前田利家加賀初代として金沢に入して間もない頃、小立野台地につづく坦な土地に、利の菩提寺である宝円寺と祈祷所の波着寺(はちゃくじ)が建立された。建立から約30年後の1620年(元和2年)、7人の老臣の屋敷として使用するために両寺院は別の場所へ移転となる。

前田利家病没から2年後となる1601年(慶長6年)、2代目将軍徳川秀忠にあたる珠(たまひめ)が前田利常(まえだとしつね)に輿入れする。この時にはるばる江戸から随行していた従者300人のために「長屋」と呼ばれる屋敷が設けられた。この設けられた場所こそが現在観光客らで賑わっている兼六園の店通りである。この長屋は別名「江戸町」と称され、現在店通りのように賑わいをみせた。

1622年(元和8年)、珠は24歳の若さで急逝すると、江戸町の住人たちは江戸へと帰還。長屋も取り壊されることとなった。
1659年(万治2年)、長屋跡地に建築や営繕を担当する役所、作事所が移築された。


兼六園の前身、蓮池庭が築庭


1676年(延宝4年)、5代前田綱紀(まえだつなのり)が作事所を再び内に移築し、代わって自身の別荘を建ててその周辺に庭園を造成した。これがのちに「池庭(れんちてい)」と呼ばれ、兼六園の造成はここから始まることとなる。
ちなみに「池庭」は兼六園の前身名として現在までに一般的に呼ばれている名称であるが、造成当時は「池の上御露地(はすいけのうえおろじ)」と呼ばれ、来した客人や重臣たちの接待、あるいは観などの宴を楽しむ清遊の場として大いに活用され、来庭した人を魅了した。

かしここで加賀を揺るがす大災難が降りかかる。1759年(宝9年)、1万軒以上が焼失する宝の大火が発生する。金沢本丸、二ノ丸、三ノ丸などを焼失、池庭も一部が焼失する被害を受けた。

翌年に幕府に願い出て、金沢1760年(宝10年)~1788年(天明8年)の間に段階的に修築、再建された。池庭も1774年(安永3年)~1776年(安永5年)にかけて夕顔亭、内亭が造営され、再造成が進んだ。


藩主によって移り変わる千歳台、「兼六園」の登場


池庭上部には「千歳台(ちとせだい)」と呼ばれる坦な地が広がっていた。現在の成閣がある場所である。この土地は代々のの思惑によってさまざまな造成や建築、取り壊しが行われ、まぐるしく変遷していった。

1792年(寛永4年)、11代前田治脩(まえだはるなが)は校「明倫堂(めいりんどう)」と「経武館(けいぶかん)」を千歳台に創建します。治脩の後を継いだ12代前田斉広は、先述の校を別の場所へ移転させ、1822年(文政5年)にその跡地に「沢御殿」を造営。自身の隠居所とした。その沢御殿は建坪約4000坪、部屋数は200をえる爛な御殿だったとされている。
そして、沢御殿の園庭として造成された庭を「兼六園」に命名したのであった。当時は池庭と兼六園の2つの庭が存在し、両庭には門塀で隔てられていた。新しく造成された兼六園には辰巳を取り入れて曲を作り、石橋をかけた。

ちなみに命名者は、寛政の革の中心人物として中学校歴史の教科書にも登場するほど有名なあの松平定信で、実際に沢御殿を訪れて殿内にある書院から見た庭の色を見て命名したとされる。ただ、時期としては革に失敗し、1793年(寛永5年)に幕府老中を解任されたのちに本拠地の白河の内政に専念してから約20年後のときのことである。
石川生活工芸ミュージアム(旧 石川県立伝統産業工芸館)には、この松平定信揮毫の額が常設展示されている。成巽閣のあらまし(成巽閣公式サイト)[外部]兼六園公式パンレットには、その額が掲載されている。(⇒参考[外部])


兼六園の完成と成巽閣の造営


斉広没後、13代となった前田斉泰(まえだなりやす)は沢御殿を取り壊し、ヶ池を拡したり、姿の良い木を植えたりした。この時に造成されたのが栄螺山(さざえやま)で、ヶ池拡の際に出た捨土を盛って作られたとされる。1860年(万延元年)には池庭と兼六園を隔てていた門塀を取り壊し、合併する形で兼六園を拡、整備した。
また1863年(文久3年)にはである院の隠居所として成閣を造営。ほぼ現在の兼六園の形となった。


明治維新後の兼六園、市民に一般開放へ


明治維新を迎えると、金沢によって陸軍省の所管となる。一方兼六園は1874年(明治7年)に市民に一般開放され、それに合わせて多くの店が出店。現在の兼六園横の店通りの礎を築いたのであった。1880年(明治13年)には、西南戦争戦没者を慰霊するために明治紀念之標(日本武尊像)が建立された。

一方で、明治の初め頃に園内にあった時雨亭と舟之御亭(ふなのおちん)が取り壊されている。


戦時中の兼六園、国の名勝、特別名勝指定へ


1922年(大正11年)、兼六園はの名勝にされた。しかし、昭和に入ると兼六園も第二次世界大戦を受けることとなる。
からくも終戦の年となった1945年6月頃に、政府示で軍用航空機の燃料の材料とするために兼六園のから松脂が採取される。この時に傷つけられた現在でも見ることができる。

そして戦後に兼六園は大きく栄転することとなる。1985年(昭和60年)に兼六園はの名勝からの特別名勝へと昇格を受ける。特別名勝はいわば「定」の名勝版で、全36ヶ所ある特別名勝の一として名を連ねることとなった。


現代の兼六園、そして未来へ・・・


平成に入ると、1994年(平成6年)に「長谷池周辺整備事業」の一環として明治時代に取り壊された時雨亭と舟之御亭が復元された。さらに二筋の流れを持つ庭園が整備され、兼六園は一層広がりを持つ庭園へ生まれ変わったのであった。

2015年(平成27年)には隣接する金沢で玉院丸庭園の復元が了。そして2020年(令和2年)8月には金沢多門・多門の復元が了し、尾山神社から金沢を経て兼六園に至る回遊観光ルート完成した。


兼六園の名前の由来六勝について(兼六園公式サイト)[外部]


「兼六園」の名前には由来があり、元ネタ中国時代の書物『陽名園記(らくようめいえんき)』に記載されている六勝の考え方から来ている。
六勝は「大(こうだい)」、「邃(ゆうすい)」、「人力(じんりょく)」、「古(そうこ)」、「(すいせん)」、「眺望(ちょうぼう)」の6つの要素のことで、具体的には以下の要素を表す。

大きく広々としているさま。
静寂で深いさま。
人力 人の手が行き渡っているさま。
古びていて趣があるさま。
があるさま。
眺望 らしがあるさま。

先述の書物には、

う園(えんぽ)の勝 相兼ぬるわざるは六 大を務るは邃少なし 人力勝るは古少なし 多きは眺望難し の六を兼ねるは 惟園のみ

【現代訳】
庭園では六つのすぐれた観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(大)を表そうとすれば、静寂と深さ(邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(古)が乏しい。また、や池など()を多くすれば、遠くを眺めることができない。この六つの観が共存しているのは園(こえん)だけだ。

という記述がある。ちなみに園は中国にある庭園の1つで、この記述はその園を紹介する際に登場しており、この六勝を兼ね備えているのはその園だけだと結んでいる。兼六園はその園に匹敵するほど素晴らしい六勝を兼ね備えているという理由で命名されたとされている。


兼六園の名所


兼六園は上述の兼六園の由来の通り、さまざまな名所を兼ね備えている。全的には徽軫灯籠や唐崎が有名だが、このほかにもさまざまな名所が点在する。ここではその名所について兼六園公式サイト掲載の見どころマップ[外部]を参考にして紹介する。


徽軫灯籠(ことじとうろう)・虹橋


[画像][外部]

兼六園で一番有名なランドマークにして金沢徴的スポット。高さ2.67mの籠で、もともと池の面を照らす雪見籠が変化したものであると考えられている。籠はヶ池の北に位置し、背後に見える内亭と向きが並行するようにして池にせり出すように立っており、手前にあるともに明媚な色を演出している。徽軫灯籠の名前の由来は籠の足の形状が元となっており、琴の糸を支える琴柱とそっくりな形状であったことからこの名が付いたとされる。
徽軫灯籠の足は、土手側の片足が折れていることが全的に知られているが、これがいつどのような過程で折れてしまったのか、また折れた足はどこへ行ってしまったのかは未だに解明されておらず、に包まれている。
ただ、この足の不均衡具合が逆に庭園の趣に磨きをかけ、周りの色とも違和感なく一体化している。

一方手前にあるヶ池から流れる曲に架かる小橋で、その形状がに似ていることからこの名が付いた。また、琴の形状にも似ていることから別名「琴(ことはし)」とも呼ばれている。は実際にわたることができ、徽軫灯籠の撮スポットとしても人気である。


唐崎松(からさきのまつ)



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最終更新日: 20/09/02 20:23
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