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劉邦


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劉邦とは、古代中国漢王朝の初代皇帝

字は季、号は太祖、諡号は高皇帝

 書』を注釈した顔師古先生などの容姿に関する諸注によると、顔立ちは彫りが深く、面長でと口ひげが美しかった。そのため呂后のに気に入られ、よく働く美人(ただし中国史上でも随一のヤンデレを得て、働かせて小役人や山への立てこもりをやっていた。

 つまり※ただしイケメンに限る古代であってもそう。希望もありゃしねえ。


 概要



「高祖」について


彼の号は太祖であるが、『史記』では「高祖」と呼ばれている。これは高祖という号自体があるいは殷王からあるもので、司馬遷あるいは彼が引用した書物の著者または写本者が諡号の高皇帝から誤って類推あるいは転記してしまったものだろうが、このせいで日本ばかりでなく中国でも広く「高祖劉邦」と呼ばれることになってしまった。 


出自


かつては楚のにあった豊(沛県に含まれる)の出身。農民出身であるが、が学問を行っており、劉邦自身も幼馴染盧綰とともに文字を学んだとあるため、それなりに豊かな農家に生まれたと考えられる。 

なお、において県となっていた張耳食客になっていたことや、豊が、戦乱においてに滅ぼされた後、人々が移住してきた土地であることから、劉邦一家の出身はであり、豊に移住してきたとみなす説もある。 

を思わせる立な顔つきで左股に72個のほくろがあった。他人にほどこすのが大好きで細かいところにこだわらない性格であり、遊侠の行いをして、仕事を手伝わず、女好きな上、つけでを飲んでいた。ただのごろつきじゃねえか、などと言ってはいけない。 

壮年になって始皇帝が統一して建てた王)の小役人となり、上というところの亭長(交番や出張所の責任者)となったが、豊や上を統括する沛県の役人からは軽蔑されていた。その中の一人に曹参がいたのかもしれない。 

劉邦はの都である咸陽において労働する人間たちを率いて連れて行った時、たまたま始皇帝行列を見ることがあった。この時、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやいたと伝えられる。 

ある時、沛に移住してきた持ちの呂にそのすぐれた人相が見込まれて、呂の呂雉(りょち)と婚姻を結んだ。 

また、幼馴染であり劉邦が罪を犯した時に一緒に逃げ隠れをしてくれた盧綰、沛県の御者でありながら劉邦にけがを負わされながらにつながれても劉邦をかばいつづけた夏侯嬰の精と販売を生業としており、呂雉のの夫にもなった剛勇の樊噲といった友人・子分にも恵まれていた。 

さらに、沛県の族である王陵も直言を好み、劉邦を分であると認めていた。 

劉邦の人生それなりに順調に見えた。 


転落


しかし、再び、咸陽に労働する人間を送る際に大勢の脱走者が出てしまう。法律ではこのまま到着しても全員死刑であった。劉邦は十数人とともに脱走する。 

途中、大蛇を切って劉邦を先に進んだ。この時の大蛇をあらわすの子であり、これをった劉邦はの子であったとするおつげを大蛇が告げたという伝承が史書に記されている。 

劉邦は芒と碭という地方にある山や沢に隠れ続けた。呂雉は劉邦をさがしあてて、劉邦はその支援を受けて、仲間の人数も増えていった。 


挙兵


の圧政に対し、ついに陳勝という人物が反乱を起こした。劉邦は蕭何のとりなしで、沛の県に呼ばれたが、沛の県は途中で心変わりする。劉邦が夏侯嬰を使者にして沛の人々に呼びかけると、沛の県は殺された。劉邦はに反乱を起こすために挙兵し、責任者となって失敗した時に家族が皆殺しになるのを恐れた蕭何曹参ら沛の人物に挙げられ「沛」を名乗る。 

この時、夏侯嬰樊噲、周勃、盧綰らも正式に部下となった。さらに呂雉の一族も加わり、二、三千の兵を集めた。旗は赤色を用いた。 

劉邦は沛県の上位の役所である泗水軍と戦う。泗水軍はまず、劉邦の故郷である豊を攻めた。劉邦はこれを打ち破った。そこで劉邦は、豊を雍という人物に任せ、泗水を統治する守の軍を打ち破り、守を討ち取る。 

しかし、陳勝の部下であった周巿しゅうふつ)という人物がで自立を図り、雍を勧誘する。雍に寝返り、豊はの領地となった。劉邦は豊を攻めたが落とすことができず、病気となり、沛に引き返した。 

この頃、陳勝の反乱軍将軍である章に敗れ、陳勝は戦死していた。章はさらに反乱軍討伐のため、劉邦のいる沛を含めた東の地へ軍を進めていた。 


張良との出会い


一気にを失った上に章からの侵攻を受けた劉邦は、楚王を名乗る駒という人物に従属する。しかし、攻めてきたの章に対して、駒からの援軍とともに戦うが敗北する。 

この頃、駒のところに行こうとしていた、に滅ぼされたの宰相の子であった張良と出会う。劉邦は張良の説く兵法に理解を示し、その策略に従う。張良も初めて己の兵法を理解する人物があらわれたことに感動し、劉邦のことを「授の英傑」と評価する。 

劉邦は章がいなくなった碭を攻めとり、さらに五、六千人の兵を集めた。劉邦は駒から離れ、楚の名将・項燕の子である項梁に従属することに決める。項梁からさらに五千人の援軍を得て、劉邦はついに豊を奪回した。 

項梁が楚の王族の子孫を探し、楚の懐王を立てると、張良の復のために劉邦のもとから離れていった。 


項羽との共闘


項梁の武将に、項梁の甥(おい)にあたる項羽がいた。その項羽は剛勇無双の名将であった。劉邦は項羽とともに項梁の軍の武将として、章を敗走させた。 

さらに、項羽とともに軍の由(の宰相である斯の長子)と戦い、打ち破る。由は曹参が討ち取った。 

劉邦は項羽義兄弟の契りをかわす。後の宿敵となる運命を知らぬまま。 

しかし、劉邦と項羽勝利に気をよくした項梁は油断し、章の奇襲を受けて戦死する。劉邦はこのことを聞いて、項羽とともに彭まで移動する。楚の懐王も彭に移ってきた。劉邦は懐王によって、碭長、武安侯に任じられた。 

は楚が弱体化したものと思い、北のを攻めるために軍を進めた。楚に対し、から援軍の要請が行われた。 


関中への進撃


楚の懐王は軍を二つに分ける。軍は義・項羽・范増・黥布が率い、を攻めている軍を率いた章・王離に向かい、支援軍を劉邦が率いることになった。(史書には劉邦はの本拠地である西に関中に向かうことになったとされているが、研究によると、当初は明らか軍の支援的である)。 

楚の懐王が「まっさき関(関中の東を守る関所)を抜けて、関中を定したものを関中王にしよう」と約束する(後世、「懐王の約」と呼ばれる)と、項羽は劉邦とともに支援軍を率いたいといったが、懐王の部下の反対があり、項羽軍の副将となった。 

劉邦は支援軍の役割を果たし、地方軍と王離の別動隊を撃破した。一方、項羽軍と戦おうとしない義をり、楚軍の将になるとに向かい、王離を打ち破り、章と対峙する。 

劉邦は、先ほどの「懐王の約」を果たし、項羽より先に関中に入り、関中王になろうとして、関中に向かうため西へと進軍する。(劉邦の判断なのか、懐王の示であるかは諸説分かれる。また、当初は章の後背を攻撃しようとしていた意図があったことも考えられる) 

途中で独立であった彭越と合流して共闘するが、なかなか前進できずに苦戦する。その苦はたずねてきた儒者の酈食其(れきいき)に救われた。儒者嫌いの劉邦は横柄に対応するが、理をさとされて、一転して酈食其を礼遇することにして、酈食其のである酈商(れきしょう)とともに重く用いることにした。酈食其の働きにより、が守る陳留は落ち、兵糧を得ることができた。 

兵糧を得た劉邦は軍勢とともに進撃し、軍に苦戦しつつ、守りが固いところを避けながら、西へと進む。項羽の配下となっていたの武将である司馬卬(司馬懿の先祖)の進撃をとめるが、軍に陽で敗北する。そこで、関から進むのをあきらめ、関中の南を守る武関を突破しようと南下する。の復していた張良とも合流した。 

項羽と戦っていた章は降伏寸前であった。すでに時間の余裕はなかった。 

しかし、項羽の奮戦により、軍の抵抗もまた弱まっていた。劉邦は宛を落とし、張良の計略と酈食其・陸賈の交渉により、武関と嶢関を突破し、関中に入ると、軍を壊滅させた。この時点の劉邦軍は二万人程度であったが、すでに、参謀に張良、補給と後方支援蕭何、外交官に酈食其・陸賈、軍の揮に曹参樊噲・周勃・夏侯嬰・酈商と、テロリスト田舎役場の管理職・田舎町の変人学者・刑務官・葬儀屋・売り・商人・の運転手・変人学者のといった綺羅星のような多様な人材が集まり、歴戦を重ねた劉邦の揮のもと勝利を重ねるようになっていた。劉邦は王・子の降伏を受け入れて、略奪を禁じる。また、樊噲張良の進言を受け入れて、の都である咸陽に入ることもせず、の財物が入った蔵を封じておいた。 


法三章


劉邦は老たちを集め、「お前たちはの過酷な法に長年苦しんできた。話し合うだけでさらし首になるような法はやめる。法は三章だけにする。人を殺すものは死罪、人を傷つけるものは罰する、人のものを盗むものも罰する、この三章だけにしよう。わしはお前たちのを除くために来たわけであり、乱暴なことはしないから恐れることはない。今、軍営を構えているのは諸侯とこのことを約束するためである」と宣言する。の人々は歓喜して、劉邦軍の兵士たちを迎えようとをもちよったが、劉邦は「民に負担をかけさせたくない」と言って断る。の人々は劉邦が関中王となることをこいねがうようになった。 

しかし、項羽が降伏した章を雍王(雍は関中の古い名で、関中王と同じ)に封じており、諸侯の軍60万人を連れて関中に向かっていると聞き、項羽が来たら関中王になれないことが不安になった。劉邦は参謀の一人の進言に従い、関を守らせ、項羽ら諸侯を関中にいれないようにして兵を集めることに決める。(史書には項羽が章を雍王に封じたことの許可を懐王にとった記録もないが、劉邦が項羽たち諸侯を拒絶することの許可を懐王にとった記録もない。) 

劉邦は10万人の兵を集めたが、項羽をはばんでいた関は項羽の部下の黥布の奮戦により、すぐに陥落する。 

項羽の軍は途中で降伏した兵を埋めにして、40万人に減っていたが、兵差がある上に項羽中国史上有数の軍事の持ちである。勝ちはなかった。 

さらに劉邦の部下の曹傷が裏切って劉邦に自立の意図があったことを項羽へ伝える。 

劉邦は絶体絶命の窮地に追いやられた。 


鴻門の会


劉邦は事前に相談していなかった張良項羽おじ・項伯にとりなしたことにより、鴻門の会において項羽に謝罪を行う機会が与えられた。項羽の参謀である范増は劉邦を殺しようとしたが、項伯の働きにより事、生還する。劉邦は曹傷をった。 

項羽は咸陽を焼き払い、略奪を行った。 


漢王・劉邦


項羽は楚の懐王に報告すると、懐王は「懐王の約どおり、劉邦を関中王に封じるように」という返事を行う(「懐王の約」については後述)。項羽は懐王を義としてまつりあげるとともに、その命に従わなかった。項羽が論功行賞を導して、劉邦は中・の王である「王」に封じられ、左遷させられてしまう。項羽は西楚の覇王名乗り、章は雍王に封じられ、黥布も九江王に封じられた。王の臣下であった張良ともここで別れることとなった。 

王となり、中におもむいた劉邦は、張良の進言によって通ってきた桟を焼いて、項羽に東にもどる意思がないことを示した。劉邦の兵は三万人にまで減少していた。また、当時の中は地であり、いくことを拒み、劉邦の下から逃げ出すものも多かった。劉邦は、中原への出口を雍王・章ら三(滅ぼされたの生き残りが封ぜられた)と過酷な山に塞がれてしまう。 

しかし、項羽の配下の中から、劉邦の配下になるために新たに参加するものいた。その中の一人に韓信がいた。蕭何韓信天才的な軍略の才見抜き、全軍の大将推薦する。劉邦は蕭何の進言に従い、韓信を軍の大将軍に任じる。韓信は劉邦に、劉邦の長所と項羽の短所を摘し、東に帰りたがっている兵の士気を利用し、項羽覇権を争うように進言する。劉邦の決意は固まり、ついに決起した。 

まずは、の名将であった雍王・章が戦うことになる。 


楚漢戦争勃発


劉邦は故という使われていなかった古い桟を使って関中に侵入する。韓信の進言通りになり、かつては敗北を喫した章を打ち破ることができた。また、かつてとして仕えていた王陵も部下に加わわった。劉邦が関中を制覇すると、君である王が項羽に殺されて王を失った張良も劉邦を頼ってきた。 

ここに、劉邦のもとに、蕭何張良韓信という漢王朝の三傑が勢ぞろいした。元々は、田舎役場の管理職、テロリスト無職というメンバーである。 

勢いにのる劉邦は・殷・河南王を捕らえるか、降伏させる。項羽配下であった陳も新たに参謀に加わった。 

この時、項羽によって義(元の楚の懐王)が殺されていたことを地元の老から告げられる。劉邦は、時期的にすでに間違いなく知っていたがおおげさに芝居して、片肌をぬいで大いに泣き、喪にす。劉邦は項羽を大逆と呼び、下の諸侯に項羽の支配する楚の討伐を呼びかける。や斉も劉邦に賛同する。楚は孤立した。 

ついに、劉邦の軍勢は56万人にたっした。さらに張良の策謀も功を奏し、項羽は北の斉の討伐に赴いていた。 

劉邦は、関中を蕭何に任せ、張良・陳を参謀に、韓信大将軍に、曹参樊噲夏侯嬰・周勃・酈商らを将軍に、さらに王・河南王・殷王まで引き連れて、楚軍を撃破しながら、項羽の本拠地である彭に進撃する。 

これで敗れることはありえるはずはなかった。 

だが、覇王項羽の圧倒的大軍であった軍を撃破した実績は、決してまぐれでも奇跡もなかった。 


危機からの脱出


 項羽は彭が落とされたと聞くと、三万の軍勢で引き返す。劉邦は彭の東と北に防衛線をってはいったが、項羽はこれをくぐりぬけて、西から劉邦を攻めた。防衛の薄いところから攻められた劉邦軍は大敗する。殷王・河南王は戦死し、20万以上の兵を失い、劉邦のと妻・呂雉は捕らえられて人質となった。さらに、王・は離反し、斉とも自立をする。

 劉邦は、呂雉との子である息子劉盈(のちの恵帝)ととともに、夏侯嬰に乗って逃亡した。絶体絶命であったが、呂雉のである呂沢が率いた軍と合流し、西への逃亡に成功する。

 さらに、随何という臣を送り、項羽配下の猛将であった今は九江王となっていた黥布を離反させ、味方につける。


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最終更新日: 21/03/01 20:51
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