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北条時房


ヨミ: ホウジョウトキフサ

北条時房11751240)とは、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した武将である。


概要


北条時政足立遠元の間に生まれた、時政の三男。通称は北条五郎

1189年に元し、治承・寿永の乱には参戦しなかったものの、その総仕上げである州征伐には従軍している。その後は源頼家の側近として活動し、後白河院の寵臣で太鼓持ちエピソードに事欠かない知康に名前を北条時連から北条時房に変えさせられ、北条政子を怒らせた逸話でおなじみである。頼のその後から北条時政に送り込まれたスパイ説もあるが、実際のところはっきりしたことはわからない。

企氏の乱後は源実朝に変わらず仕え、1205年の畠山重忠の乱では和田義盛とともに大将軍を務めている。そのまま北条義時とともに時政から離反し、時政失脚後は遠江守、ついで駿河守に任じられ1207年には武蔵守に転じる。さらに1213年の和田義盛の乱では甥の北条泰時とともに若宮大路を防衛し、奮戦した。一方、歌や蹴をたしなみ、後鳥羽上皇から信頼されるなど、京都とのパイプも持ち合わせた人物であった。

源実朝の暗殺後、1220年に上し皇族将軍を要請したが、結局後の九条頼経を連れて戻ることとなる。承久の乱では北条泰時足利義氏三浦泰村千葉胤綱らと東海道を進軍し、戦後泰時とともに六波羅に入って戦後処理を行った。この結果泰時とともに六波羅探題の任につく。

1224年の北条義時の死没によって賀氏の変が起きると、足利義氏とともに鎌倉に戻り、北条政子とともに事態の鎮静化を図った。その後は再度京都に戻り、息子・北条時盛と北条泰時息子・北条時氏のサポートを務めた。しかし、政子の死後再度鎌倉に戻り、連署として泰時をサポートする役を担う。以後も幕政に従事したが、1240年に病で亡くなることとなった。

時房の子孫は佐介流と大仏流に分かれていくが、大仏宣時の連署就任などで、北条義時の子孫ではない傍流もいいところの大仏流は格上昇していき、寄合衆の一を担うこととなった。


関連項目



最終更新日: 18/10/02 22:56
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