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十・十空襲


ヨミ: ジュウジュウクウシュウ

十・十空襲とは、大東亜戦争中の1944年10月10日に発生した那覇市への襲である。
別名「那覇襲」。


概要


1944年10月10日マーク・A・ミッチャー率いる第38任務部隊によって南西諸及び那覇市(現在際通りから側までの旧那覇市)への襲が行われた。これは沖縄が受けた最初の、そして大規模な攻撃であった。のべ1396機の艦載機によって那覇地は焼き払われ、死者668名と負傷者768名を出した。


背景



アメリカ側の動き


圧倒的な物量を武器日本まで戦線を押し上げてきたアメリカ軍は、次なる標をフィリピン奪還に定めた。ちょうど沖縄フィリピンへの経由地であり、のちの1945年3月にはアイスバー作戦(沖縄上陸)も計画されていた。フィリピン奪還と上陸作戦を容易なものにするため、大規模な襲を行う事に決定した。1944年9月29日、1機のB-29沖縄に飛来。高高度から空撮を行い、第32軍(守備隊)の部隊配置や飛行場の位置を特定した。しかしに阻まれ、判然としない部分もあった。


日本側の動き


10月5日台湾の第10方面軍はフィリピンより北上する機動部隊を確認。沖縄の第32軍に「台湾と南西諸に何らかの攻撃を行う可性が高い」と警告を発し、海軍も同様の警を促した。10月7日には台湾東方に敵機動部隊が確認され、翌8日に戦備レベルを丁号から号へと引き上げ。高射砲部隊は配置につき、燃料や弾薬洞窟へ移動させたり、分散配置した。各警察署を通じて一般にも告知されたが、末端兵士や住民には伝わっていなかった。一方で第32軍は攻撃が近いと予期していながら、すぐには来ないだろうと楽観視している節があった。10月9日牛島満中将催の宴が沖縄ホテルで開かれ、兵団長独立隊長が招かれた。

読谷村に2基の電探を擁した安武隊が配備されていたのだが、このとき電探は2基とも故障しており、事前に敵機動部隊の接近を探知できなかった。つまり十・十空襲は軍にとっても不意打ちだった訳である。


十・十空襲


10月10日午前5時45分、沖縄南東に展開した第38任務部隊は空母17隻から次々に艦載機を発進させた。攻撃標は奄美沖縄本島、先など南西諸全域に渡った。

午前6時40分、約240機の敵艦載機が那覇市に到達。が物顔で旋回する米軍機を見て、住民や兵士演習と勘違いしたという。かが「敵機来襲、敵機来襲!」と絶叫した事でようやく住民たちは現実悟りクモの子を散らすように防壕へと逃げ込んだ。揮系統の乱れから命が届かず、現地の高射砲部隊が独断で迎撃を開始するも命中弾は出なかった。午前7時警報が発され、号戦備を開始。第32軍全体が戦闘態勢に入った。敵機は然と内を撃していく。第一波攻撃では完成したばかりの飛行場が集中的に狙われ、警報が発される前に、小、読、嘉手納に編隊が殺到。爆弾、焼夷弾、機弾が叩き込まれた。当時沖縄には約50機の軍用機が駐機していたが、初動の遅れからどが発進できず機掃射の的になり、迎撃に上がれたのは僅か2~3機に過ぎなかった。飛行場大隊が対を撃ちかけるが、それを嘲笑うかのように敵機はひらりと回避し、上へと飛び去った。またバンカーヒル所属機は近にいた日本潜水艦2隻にも爆弾を投下している。攻撃の余波は那覇港にまで届き、停泊中の船舶も襲に巻き込まれている。同港には台湾から入港した輸送船団が停泊しており、格好の標的だった。

第一波攻撃が終了した後、陸軍独立飛行第23中隊の索敵機が北飛行場を離陸。近に潜む敵機動部隊の索敵を行った。午前9時には残っていた10機全てが出撃し、反撃を試みた。しかし不運にも第二次攻撃に向かうグラマンの大群と遭遇してしまい、6機が撃墜。命からがら3機が飛行場に戻ったものの不時着大破、最後の1機は事着陸したが、直後に機掃射で破壊されてしまい全滅した。

第二波は午前9時20分より始まった。約220機の敵機が襲来し、飛行場、高射砲地、港湾施設を攻撃。その最中、集積されていたドラム缶が引火して大規模火災が発生。消防団が消火にあたったが、物資窮乏のせいで消火ポンプや消防車が不足しており延焼が続いた。

午前11時45分、第三波襲が行われた。この攻撃では港湾施設が狙われ、那覇渡久地、名護、運、泡瀬が被害を受けた。運港では潜航艇基地が攻撃され、潜航艇2隻、魚雷艇13隻、158輸送艦58駆潜艇、特務艦立、掃特務艦新丸が撃沈。同時に火災も発生し、軍、警察消防団、学徒が協して消火に当たった。

午後0時40分より第四波襲が開始。約110機による那覇市への集中攻撃が行われた。米軍機はに付く大きな建物(学校役所、教会など)に爆弾を投下し、それが終わると町並みに機掃射を加えた。那覇市からは既に住民が避難しており、消火活動に当たるものはいなかった。そこへ焼夷弾がのように降り注ぎ、地は業火に包まれた。沖縄県史第8巻「沖縄戦通史」によると、「燃えるべきもの全てが火を発しているようだった」と残されている。上が吐き出す煙に覆われ、軍事施設や工場では何本もの火柱が上がった。

続く第五波襲も那覇市が標的になった。約170機が上に出現し、その一部が低で侵入。ありったけの250kg爆弾と機地に撃ち込んだ。那覇港に停泊していた十数隻の輸送船が撃沈され、桟に積んであった500万発の機弾や30万袋の玄米などが全て焼失してしまった。また沖縄北方の瀬底には潜水母水上機母艦神威が停泊していたが、こちらも熾な波状攻撃を受けて大破着底ないし撃沈している。日が沈む頃、十・十空襲は終わった。

この日の襲は、まさに最大級のものだった。攻撃回数1356回、652発のロケット弾、21本の魚雷541トン爆弾が投下された。日本軍機23機が撃墜され、88機以上が地上撃破の憂きを見た。貨物船20隻、小船舶45隻、小潜水艦4隻、駆逐艦1隻、潜水艦1隻、掃海艇1隻、その他多くの船舶が撃沈。軍民合わせて150隻が失われた。対するアメリカ軍21機を喪失し、戦闘機パイロット5名と爆撃機パイロット4名が戦死した。猛攻を受けた那覇市は翌まで燃え続け、災戸数は1万5648戸のうち1万1440に達した。那覇市庁舎は焼失し、重要書類もと化した。琉球王国時代の重な文化遺産も失われている。安里の養蚕試験場にあった第32軍の部が焼けてしまったので、首里城の地下へ部を移動して要塞化が始まった。

あまりの被害の大きさに第32軍の参謀長が責任を取ろうと進退伺いをしたり、特に多くの被害を出した部隊長は処罰された。


その後


那覇襲により、地の90が壊滅。民間人や軍属を含む668名が死亡し、768名が負傷した。米軍機は非軍事施設や非戦闘員まで攻撃していて、この差別襲は明らか国際法違反であった。日本政府スペインアメリカ大使館を通じて抗議し、統合参謀本部が調に乗り出した。調の結果、差別攻撃があった事は認めたものの、「襲だし、住民が巻き込まれるのは仕方ないね(意訳)」と抗議を黙殺した。

十・十空襲は文字通り那覇市をジュージューに焼いてしまった。もはや沖縄は安全な後方地域ではない事を如実に示していた。これまで沖縄県民は本土への疎開を拒んでいたが、この襲を機に疎開希望者が続出。避難民の増加に伴い、帝國海軍軍艦を投入して疎開船とした。恐怖自暴自棄になったのか、十・十空襲をに第32軍の軍紀が乱れ始めた。き巣や畜の強奪を行う兵士が現れ始め、中には婦女子陵辱したケースもあった。

襲翌日の10月11日、第32軍は「集中的に焼夷弾を投下されると、警防団や隣組消火活動はほぼになる。都市の劇的善をむ」と政府に向けて打電している。一方で大本営は「敵機約400機中26機以上を撃墜」と発表し、被害は「地上及び船舶に若干の損あり」とした。

十・十空襲のあと、しばらく沖縄への攻撃はかった。しかし1945年1月3日から襲が再開され、4日、21日、22日、3月1日と頻繁に行われるように。3月23日以降は上陸に備えて毎日のように襲を受けた。十・十空襲の教訓はしっかり活かされ、警警報が発せられると防壕で寝起きするなどして以降の襲では犠牲は減っていったという。


関連項目



最終更新日: 20/08/07 19:49
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