ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


吉川広家


ヨミ: キッカワヒロイエ
掲示板をミル!
18カキコ!

「吉川広家」(きっかわ・ひろいえ 1561年~1625年)とは、戦国時代江戸時代初期の武将、大名である。周防岩の初代


概要


は西の雄である毛利を支えた名将吉川元春は猛将熊谷信直の新庄局」。
や長の死後に督を継いだ吉川広家は、毛利の重臣となり君の毛利輝元を支えて活躍した。
(次はすでに他を継いでいた)

関ヶ原の戦いでは西軍を支持する安国寺恵瓊と対立。
吉川広家は東軍に内通して決戦当日は毛利軍の参戦を阻止した。


豊臣政権の寵児


吉川広家はたちと共に、豊臣秀吉九州征伐や九州人一との戦いに参加して活躍した。
父親と同様に優秀な武将であり、秀吉で当代随一の名将だった豊臣秀長からも期待された。
小田原征伐の前には軍勢を率いて尾に駐留し、徳川家康を脅かした。
唐入り(大陸出兵)でも大活躍して、石田三成や軍監たちから賞賛を受けた。戦地で吉川広家が病気になった時、秀吉は吉川広家に書状を送って帰示する気遣いを示した。

吉川元春吉川元長は共に九州征伐中に中で病没しており、秀吉は負いを感じていたのかもしれない。
ただし吉川広家が秀吉から厚遇されるには十分な功績を挙げたのは事実である。

豊臣秀吉の期待に応えて活躍した十年は吉川広家にとって栄の時代だったらしく、待遇が悪くなってからも広自身は秀吉からの信頼を疑わなかった。
関ヶ原の戦い後、諸大名が徳幕府に遠慮して豊臣との交際を控えるようになってからも、吉川広家は豊臣の人々と交流を続けた。


黒田家との絆


吉川元春黒田官兵衛は、毛利織田信長が争っていた頃、それぞれ毛利輝元羽柴秀吉豊臣秀吉)の代理として度々交渉を行い、吉川黒田の間では付き合いがあった。
の交流は吉川広家がの死後に督を継いだ後も続いた。

1587年、九州各地で大規模な人一の反乱が起こり、黒田が治めることになった豊前でも人衆が各地で黒田を攻撃した。
この時、黒田官兵衛は肥後に出中だった。
豊前一の勢いは盛んで、留守を守る黒田長政の軍勢は苦戦を強いられた。
報せを受けた吉川広家は兵を率いて豊前へ出、一の軍勢を撃破して黒田を救援した。
この時の吉川軍の活躍は、黒田子だけでなく豊臣秀吉、秀長兄弟からも賞賛された。
吉川広家は黒田を救った恩人になったのである。

1590年の小田原征伐で秀吉下を統一した後、毛利では吉川広家の所領の大きさが問題視されるようになった。
毛利が諸勢と争っていた時代に吉川が担った役割とそれを果たすために与えられた権益を、天下統一による内静謐(日本の内戦の終焉)が実現した後も認めるかどうかが問題となったのである。
この時、黒田官兵衛毛利にとって部外者だったが、吉川広家に味方した。
黒田官兵衛吉川の所領を下人である秀吉からも認めてもらおうと、働きかけを行った。
結果として秀吉の一により吉川広家は14万石の所領を安堵された上、豊臣政権から重用され続けた。

豊臣政権の大功臣である黒田官兵衛の後ろを得て、吉川広家の地位は安泰となった。
しかし吉川豊臣秀吉を繋ぐ取次役が黒田官兵衛から石田三成に交代すると、秀吉吉川に対する扱いが悪くなったらしく、吉川広家は黒田に送った手紙愚痴を書き記した。
その内容は、

秀吉会いたい石田三成に頼んでも、なかなか会わせてもらえない。
秀吉に会う機会を作ってもらえなかった。
下人に御見えすることは、人生吉川の将来を左右する一大事)
秀吉は諸大名に形見の品を遺し、吉川広家の分も用意した。ところが奉行たちは秀吉の死後、形見を吉川広家に渡すのを忘れていた。

また秀吉没後に吉川広家が豊臣政権の奉行筆頭である浅野長政を憎悪することになった事件があったらしく、君である毛利輝元毛利の重臣たち、さらに黒田長政がその件で吉川広家に自重を促す手紙を送った。
秀吉の形見分けの件だろうか?)

吉川広家と奉行衆の間に確執があったのか、または黒田官兵衛のおかげで吉川に過剰な厚遇が与えられていただけなのか。
ただし当時の慣例として秀吉は取次役を通じて諸大名に意向を伝えた。秀吉と諸大名を仲介する取次役は、その恣意を大名たちから疑われやすい立場だった。
つまり秀吉が自分の意志で決めたことでも、秀吉に会う機会が少ない大名は「取次役が讒言をした」と考える場合があったのである。

ちなみに黒田官兵衛豊臣秀次秀吉の甥、後継者)の相談役を務めたが、豊臣秀次秀吉粛清されると黒田官兵衛も一度失脚した。
秀次事件の後、16名の大名や側近が秀吉に忠を誓う文書を連署で提出した。
加藤清正叔父小早川隆景など錚々たる顔ぶれに交じって、吉川広家も末席に名を連ねている。

秀吉没後に政権内で大規模な政争が生じてからも、吉川黒田の交流は続いた。
黒田長政はいち徳川家康を支持し、毛利を味方に付けようと吉川広家に説得を頼んだ。
さらに家康から毛利輝元に直に協めたこともあって、毛利輝元家康の支持に回った。
背後を固めた家康は諸大名の軍勢を動員して会津上杉討伐へ向かった。

ところが家康が東へ去ると、毛利輝元は挙兵して五万人の大軍を動員。
家康討伐をする宇喜多に続いて毛利が挙兵したことで、家康が率いる東軍に合流する予定だった西の大名たちは、石田三成が結成した西軍へ参加した。
吉川広家は毛利秀元(毛利輝元の養嗣子。広従兄弟)に従い西軍の一員として畿内へ向かった。

毛利変に驚いた黒田長政や徳の重臣たちは吉川広家に問い合わせの手紙を送り、さらに毛利が方針を変えるよう説得してほしいと何度も依頼した。
黒田如水(官兵衛)は豊前に留まり息子留守を守っていたが、強大な毛利の圧されることとなった。
黒田如水は吉川広家へ送った手紙の中で敵味方に別れた不運を嘆いたが、黒田吉川は何があっても不滅であることを誓った。


『吉川家文書』が伝える関ヶ原の戦い


関ヶ原の戦いから二日後に、吉川広家が書いた手紙(の素案)が『吉川文書』に収められている。
素案には関ヶ原で決戦が行われることになった経緯が詳細に記されている。


9月14日小早川秀秋が(西軍に対して)反逆した(西軍のものだった松尾山の砦を占拠)。

西軍が大垣赤坂から撤退、西の関ヶ原へ急行

東軍が追跡を開始。
しかし西軍を追いかける前に、南宮山の軍勢を攻撃してきた。
(南宮山にいたのは毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊長曾我部盛親、長束正家の軍勢。この記事ではまとめて南宮山軍とする)

南宮山麓の軍勢が応戦して東軍の先鋒部隊を撃退。
東軍と南宮山軍の決戦が始まる前に吉川広家が駆けつけて、東軍と停戦交渉を行った。

交渉が成立し、本多忠勝井伊直政戦後毛利事を保する誓を吉川広家、福原広俊宛てに提出。
福原広俊は毛利の重臣で、毛利秀元に従い参戦した)

を受け取った後に、吉川広家と福原広俊が吉川福原の関係者を人質として東軍に送った。

東軍は西へ向かい、翌15日に関ヶ原で西軍と決戦を行った。

決着がつくと、南宮山にいた長束軍と長曽我部軍が毛利軍に断りなく去って行った。

ここで重要なのは、
1.西軍が関ヶ原へ向かう際、南宮山軍を置き去りにした。
2.東軍が西軍を追撃するよりも南宮山軍への攻撃を優先した。

つまり西軍も東軍も、南宮山軍を味方だとは考えていなかったのである。
下を二分した東西両軍から敵視された南宮山軍は、それまでどのような行動をしていたのか。


<西軍を裏切った毛利

毛利の挙兵後、畿内で西軍と合流した毛利秀元、吉川広家の軍勢は伊勢へ向かった。
伊勢の西軍は東軍の攻略後、北上して美濃国へ入った。
伊勢方面軍の内、宇喜多秀家の軍勢は直ちに大垣へ向かい石田三成たちと合流した。
毛利吉川長曾我部、長束、安寺の軍勢は大垣ではなく南宮山へ移動した。

石田三成大坂にいた増田長盛宛ての手紙の中で、南宮山は孤立した土地であること、そんな場所に篭った諸軍を信用できないと批判した。
実際、南宮山はこの時点で想定される東西両軍の戦場からは遠く離れていた。
石田三成は西軍に合流するようにと南宮山軍に催促したが、南宮山軍は動かなかった。
南宮山軍の協を欠いた西軍は兵数で美濃に集結した東軍に劣ってしまい、そこへ徳川家康の到着と小早川秀秋の敵対行動によって窮地に追いやられた。
西軍が関ヶ原へ向かう際に南宮山軍を置き去りにしたのは、当然のことだったと言える。

さらに毛利輝元の行動も、西軍首を不安に陥れた。
毛利輝元毛利秀元、吉川広家たちの軍勢を東へ送り出した後、自身は毛利軍のを率いたまま、権者不在の大坂城に居座った。
石田三成たちは毛利輝元に出を促したが、毛利輝元大坂城から動かなかった。
(前述の石田から増田宛ての手紙も、毛利輝元の出を促すよう増田に依頼したもの)
毛利輝元が動けば南宮山の毛利軍も動くので、その時点で西軍の優勢は確定したかもしれないが、毛利輝元は遂に出しなかった。
大坂城淀殿には毛利輝元を引き留める権も理由もなかったことから、大坂残留は毛利の判断だったと考えられる。

つまり南宮山軍の西軍に対する非協的な態度は、東軍に内通した吉川広家の独断ではなく、大坂城に留まった君の意志あるいは毛利の総意に沿ったものという可性も考えられるのである。
そもそも毛利秀元は吉川広家の傀儡になるような人物ではなかったので、決戦当日だけ吉川軍が毛利軍の行く手を遮るだけならまだしも、数日に渡って毛利軍の西軍合流を吉川軍だけで押し留めるのは理な話だった。

ただし小早川軍の松尾山砦占拠をきっかけにして西軍と東軍がそれぞれ移動した結果、決戦当日になって南宮山軍は東軍を背後から襲うことが可になった。
そこで南宮山軍(長曽我部軍や長束軍)が東軍との停戦(吉川広家たち毛利軍が東軍と約束した)を反故にして東軍を攻撃しようとして、毛利軍あるいは吉川広家がそれを阻止した――のかもしれない。


徳川家康を騙した毛利

秀吉没後の政争の最中、下を狙う徳川家康毛利に接近して毛利輝元の支持を得ていた。
しかし徳川家康が東へ去った途端に、毛利輝元は挙兵した。

安国寺恵瓊を除いて毛利の重臣たちは西軍への参加に反対し、吉川広家は東軍に内通して人質を東軍に送った」
というのが通説だが、人質の受け渡しの経緯が上記の9月17日付け文書に記された内容通りだったとしたら、毛利と東軍の関係は実際はさらに複雑だった可性が考えられるのである。
毛利はただ挙兵しただけでなく大軍を率いて畿内に乗り込み、許では毛利領周辺の東軍拠点を攻撃することまでしていた。
また安国寺恵瓊は彼を重用した豊臣秀吉が存命の頃も、吉川広家たち他の重臣を黙らせて毛利を操るほどの権は持っていなかった。

黒田長政や徳の重臣たちが何度も吉川広家に書状を送ったことは吉川広家が東軍に接近していただが、書状の内容は「毛利が東軍に味方するよう説得してほしい」「東軍に味方する約束を守ってほしい。吉川殿を信じているが・・・」というもので、東軍諸将は毛利の行動を不審に思い焦っていたことがえる。
吉川文書』(9月17日付け文書)の内容が正しいという前提の話だが、東軍が決戦前のに南宮山軍を攻撃したのは、彼らが吉川広家との約束を決して信じてはいなかったことを示している。
人質の受け渡しの経緯も、「戦う前から人質を出した」と「戦った後に停戦交渉が成立して人質を出した」では大きく異なる。

さらに徳川家康は西軍との決戦に臨んで、東軍諸将の中で特に信頼を置く池田輝政浅野幸長の軍勢合わせて1万人の大軍を後方に配置した。
これは明らかに南宮山軍への備えであり、家康は南宮山軍が襲ってこないとは信じていなかったのである。

池田輝政家康婿浅野幸長は豊臣子飼いの武将だったが、家康を強く支持して諸大名を東軍へ引き込んだ。また両将の所領は旧徳領だった。
戦後池田浅野が転封された播磨と紀伊は、豊臣領に隣接する重要な土地だった。

東軍は南宮山軍が味方につくかを疑い、西軍は南宮山軍が東軍に内通していないかと疑った。
そのため東軍は背後を襲われないようにと先ず南宮山軍を攻撃して東軍に従わせようとした。
南宮山軍は西軍が救援に来ることを期待できなかったので、吉川広家は東軍の攻撃から現地の毛利軍を守るために東軍と交渉して停戦した――『吉川文書』に記された経緯からは、そのような事情があった可性が考えられる。


東西両軍を脅かした毛利の意図は不明だが、第三勢したとすれば褄は合う。
吉川広家は安国寺恵瓊と争って君を惑わせたのではなく、の戦略に沿って行動し、決戦の東西両軍の移動によって戦略が狂ったため現場の判断を下したのかもしれない。
この二人の名前がよく挙げられるのは知名度があるからで、当時の毛利運営には他にも多くの一門衆や重臣が参加しており、毛利を二分する閥があって吉川・安寺がそれぞれの領袖だったというわけでもなかった。
関ヶ原前後の諸交渉でも、吉川広家だけでなく他の重臣たちも活動した。
ちなみに毛利輝元の側近を務めた堅田元慶は、戦後に徳からの強い要江戸に抑留された。

吉川文書』には関ヶ原の戦いから一年後に作成されたとみられる、関ヶ原の戦い末を記した文書(の素案)も収められている。
そちらは通説とほぼ一致する内容になっている。


戦後


関ヶ原の決戦後、西軍の諸将は大坂城に入らずそれぞれの領地へ引き揚げた。
逆に毛利軍は領地へ帰らず、大坂城に集結した。
その上で吉川広家は東軍と交渉を行い、東軍諸将からめて毛利事を保する文書を受け取った。

吉川広家は、
毛利を西軍に参加させた罪は安国寺恵瓊一人にある。元は分別がなく、安寺に騙されただけである」
した。
その安国寺恵瓊大坂城に入った毛利軍に同行しておらず、京都で潜伏中に東軍に捕縛されて後に処刑された。


次へ»
最終更新日: 16/07/26 14:23
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ