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吉川経基


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吉川経基(きっかわ・つねもと 1428 ~ 1520)とは、安芸の武将である。吉川氏11代当(安芸を本拠としてからは7代)。戦国時代きってのチート爺の先駆けである。


概要


安芸の小族・吉川之経の嫡男。吉川元信、吉川経清。子に吉川経、石野経守、江田経純、経、茂経法。尼子経久の妻(吉川夫人)がいる。

吉川」「まな板吉川」の異名をとる猛将であり、応仁の乱を初めとした数々の戦で武功を挙げた。その一方で、文学や和歌にも精通したパーフェクト人間である。老いてもなお戦場に立ち続け、93歳の長寿を全うした。

彼の登場により、安芸の一人に過ぎなかった吉川氏は山陰・山陽のみならず広くその名を知られるようになり、吉川氏中の英君」として名高い。


生涯


吉川之経が14歳のときに誕生。当初は吉川元経と名乗っており、のちに経基名する。「経」は吉川氏の通字

1460年、室町幕府の有守護大名である河内畠山氏において督争いが起こる。畠山の死後、庶子の畠山義就と甥の畠山政長が後継の座を巡って争ったのだ。この時は8代将軍・足利義政の命を受け、畠山政長に加勢するため出している。

この畠山の争いなど複数の要因が絡み合い、1467年に応仁の乱が勃発すると、と共に東軍に属した(※畠山政長も東軍である)。特に1468年8月「相寺の戦い」における彼の活躍は覚ましかった。畠山義就率いる西軍相手に、一時は劣勢に追い込まれていたが、これを死守して戦況を覆す、まさに獅子奮の働きを見せつけ吉川」「また吉川との異名をとった。なお「まな板」とはくっ的な意味ではなく、顔も体も全身傷だらけにも関わらず、びくともしないその精強さを称えたものである。

応仁の乱が終結した1477年に63歳で死去し、50歳で督を継ぐ。(ってまだ継いでいなかったのか……)

吉川経基の武勇は応仁の乱を経て全に知れ渡り、備後山名氏で争乱が起こるとこの討伐を命じられた。次々と武功を挙げた事で恩賞を受け、安芸の領地は拡大。一方で、を同じチート爺である出雲尼子経久がせるなど、周辺の大名・人との関係も強化して、吉川氏の地盤を大きく固めた。

その武勇は朝廷宮中にまで届いており、ときの天皇より招待を受けるまでになった。内裏にて盃にをいただいた経基だったが、その時偶然にも大きな蜘蛛が盃の中に落ちてきてしまう。だが経基は「蜘蛛如きに驚いての盃を頂かないのは武士の恥」と、蜘蛛ごとを飲みほしてしまった。さすが吉川である。

一方で教養にも優れており、多くの和歌を献上している。で古今和歌集を書写するなど、同じく吉川の異名を取ることになる子孫・吉川元春(戦太平記を書写)は経基のDNAを受け継いでいるのだと感じられる話も多い。

1509年、82歳になってようやく嫡男・経(当時67歳)に督を譲ったが、その後も戦に立ち続けた。毛利元就初陣である有田中井手の戦い(1517年)にも出したという。まさに文武両・知勇兼備、吉川氏の誇る大柱は1520年に93歳で病没した。


補足


信長の野望」(PCシリーズにおける吉川経基の力一覧。 

1520年没のため、蒼天録PKのみ登場。応仁の乱などの大活躍によって統率がとても高い。1443年元時扱いのため、1495年シナリオ1507年シナリオでは更に強化成長されており、1507年シナリオでは統率100になっている。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天 統率 88 知略 47 政治 50
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治

関連項目



最終更新日: 16/02/20 14:53
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