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吉田義男


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吉田義男(よしだ よしお1933年7月26日-)とは、京都府出身の元プロ野球選手である。

阪神タイガース永久欠番選手(23)であり、阪神タイガース監督としてはただ一人3度の監督を務め、阪神監督日本一を達成した人物である。

現役時代はその麗な守備から「牛若丸」の異名で呼ばれた。また1990年1995年にはフランスの代表監督も務め、フランスでの野球の普及に大きく貢献した。


概要


阪神タイガース #23
吉田義男
基本情報
日本
出身地 京都府京都市
生年 1933年7月26日
身長
体重
167cm
56kg
選手情報
投球・打撃 右投右打
守備位置 遊撃手
プロ入り 1953年
経歴
選手歴
監督コーチ
プロ野球選手テンプレート

幼少時代は食糧難で、両親のほかに吉田一人・二人・一人と大所帯だったため非常にひもじい生活を送っていた。
野球中学時代に始め、とともに野球中になった吉田は勉強もあまりせず、には大変怒られた。

高等学校進学後もと共に野球を楽しんでいたが、高校一年の年にが相次いで亡くなる不幸に見舞われ、計のために吉田野球をあきらめようとするが、の「好きなことをやりなさい」という遺言と、の「おまえは野球を続けろ」という言葉を受け、吉田は引き続き高校に在学し遊撃手レギュラーとして甲子園にも出場した。

高校卒業後は立命館大学に授業料免除という好条件を提示されたため入学を決意、また入学前の東京遠征に同行した際はのちのライバルである早大の広達朗とも出会っている。
立命館大学では1年から四年生を押しのけ遊撃手レギュラーとなるが、1952年10月から阪神阪神青木一三スカウトの猛アタックを受け、当初はそれほど乗り気ではなかった吉田だが、スカウトの「藤村富美男さんも金田正泰さんも君ならプロで十分やっていけると言っている。」・「親会社阪神電鉄があるから野球もやめても食いはぐれない。」という殺し文句を受け、吉田大学中退して阪神に入団することを決意。実は前者は全くのウソで、藤村金田の両者は最初に吉田を見たとき、その細い体つきから新しいマネージャーだと思ったらしい。ともあれ吉田1953年阪神契約50万・給3万で契約、この年の同期には小山正明三宅秀史らがいた。

阪神時代

入団後初めてのキャンプ吉田は、阪神監督でありノックの名手でもあった松木謙治郎と臨時コーチであった岡田三郎底的に鍛えられ、当時の正遊撃手が肩を痛めたこともあって新人ながら守備範囲の広さを買われてレギュラーに抜される。しかしながら吉田は遊撃という重要なポジションを任されながらもエラーを連発し、度々投手や当時慣れない一塁を守っていた藤村富美男を怒らせたが、監督松木は「人は失敗して覚える」という考えの元、吉田を辛抱強く使い続けた。結局プロ1年1953年は38もの失策を記録、2年1954年51盗塁盗塁王を獲得する活躍を見せるが失策30を数えた。


1955年、遊撃でエラーをしないように吉田は常にボールとグラブを持ち歩き、ボールをグラブにぶつける動作を何度も何度も繰り返して守備を善、またこの練習で手首が鍛えられたためか、打撃も147安打リーグ最多安打を記録。オフには来日したニューヨーク・ヤンキースとの日米野球メンバーに選ばれ、1分15敗というフルボッコ結果に終わるものの、二塁のビリーマーチンや遊撃のギルマクドナルドプレーを奪われたという。


1956年50盗塁で二度盗塁王を獲得。


1957年には24歳で結婚し、1959年には覧試合に出場するなどすっかり阪神に欠かせない選手となっていった。


1960年は初めて打率が.250を切ったため、大徳寺という寺でのちに終生の師と仰ぐ盛永宗師の下で修業に励み、何があっても集中してやり通す、いわゆる「する」ことが大事と教わり、打率が.228とさらに低下した1961年には、自宅に練習場所を作り、近所の人にトスをしてもらうという形で練習を重ねた。
その猛練習が功を奏したのか、1962年打率を.261まで引き上げて阪神の初優勝に貢献した。


1964年には打率.318と生涯一のシーズン三割を記録した他、179打席連続三振という当時の記録を打ち立て、またもや優勝を経験した。


1966年藤田平が入団すると状況は一変、1966年こそレギュラーは死守したが、1967年には遊撃手の座を藤田に奪われて二塁にコンバートされる。
慣れない二塁守備に苦戦した他、年齢による衰えもあり、結局吉田1969年限りでに現役を引退した。

阪神監督時代

第一期

引退後は解説者を経て、75年に阪神監督に就任、キャンプでは自らノックを行い選手たちを鍛え上げ、当時19歳だった掛布雅之を三塁のレギュラーに抜し、広島から安仁屋宗八、かつてロッテに所属していたアルトマンを獲得。
シーズンでは田淵幸一が43本塁打を放って本塁打王を、安仁屋が66試合に登板して12勝5敗7セーブ防御率1.91の活躍でカムバック賞を獲得し、広島中日しい優勝争いを繰り広げるが9月半ばで広島に離され3位に終わった。

1976年1月吉田チームエースであった江夏豊南海放出するという思い切ったトレードを実行する。
これは江夏が不摂生な生活を続けたことで患った心臓疾患や、長年の勤続疲労により発症した血行障により今までのような活躍を期待できなくなったほか、もともと江夏自身が一匹のような性格で度々首などと対立することがあったためである。
吉田南海監督であった野村克也に「江夏いりまへんか?」と持掛け、阪神側が江夏豊望月充、南海側が江本紀・野育夫・長谷川勉・池内豊という2対4のトレードが決定。
しかし吉田は球団から「監督は知らないことにしておいたほうがいい。」という方針に従い、何を聞かれても知らぬ存ぜぬで通したため、結果的にマスコミ及び江夏との間に大きな裂を作ってしまった。
この年は新たに助っ人としてラインバックブリーデンを獲得して打線を強化し、前年本塁打王田淵、三塁のレギュラーに定着した掛布が打ちまくり、チーム総計で193本の本塁打を放つが、張本勲などを獲得した巨人に僅差で敗れ2位となった。
また、守備に衰えが見えてきた田淵の起用の問題で対立したヘッドコーチ佳紀が退団し、その後のの暴露が原因でますますマスコミ吉田かれる羽になる。

1977年は前年同様チームは総本塁打数で一位を記録するが、総得点は最下位と繋がりにかけ、投手も振るわずに4位となり吉田はこの年でいったん監督を退任する。

第二期

吉田が再び阪神監督に就任するのは1985年、前年4位で退任した安藤統夫の後を受け、大洋から首位打者を獲得したこともある長崎啓二を獲得、守備の問題から解雇されそうになっていたランディ・バースを「絶対に必要な戦」として残留させ、外野に回っていた岡田彰布を二塁に、替わって二塁・遊撃を守っていた真弓明信を外野にコンバートしてセンターラインの強化を図り、捕手木戸を固定して捕手への育成を考えた。
シーズンが始まると3番ランディ・バース・4番掛布雅之・5番岡田彰布クリーンナップが爆発4月17日巨人戦では槙原から「バックスクリーン三連発」が飛び出し、その後の原・クロマティホームランなどでピンチを迎えるも前年あまり登板機会がかった中西清起が後続を抑え6-5で勝利
この試合をきっかけに1番真弓明信・2番田澄男・3番ランディ・バース・4番掛布雅之・5番岡田彰布・6番佐野仙好・7番平田勝男・8番木戸の強打線は止まらなくなり、投手先発ゲイル・池田親興中田は打たれ気味ではあったが、中継ぎの福間納やこの年11勝19セーブの成績を残した中西清起、終盤でアキレス腱断裂で離脱するものの5勝11セーブの活躍を見せた山本和行のダブルストッパーの奮闘により、巨人広島とのしい首位争いを繰り広げ、9月には広島巨人が急降下する中阪神は13勝5敗1引で突き離し、引き分けでも優勝が決まる10月16日ヤクルト戦ではスタンド黄色一色に染まる中、阪神は2点リードで迎えた6回の裏にヤクルトの猛攻を受け一気に4点を取られるが、9回に掛布雅之尾花高夫か2ランを放ち同点に追いつくと、10回裏は中西が抑え、時間切れ引き分けと阪神優勝が決定する。
優勝が決まると吉田阪神ナイン胴上げされ、掛布・バースがこれに続いた。
関西テレビの視聴率は50%え、間では75%近い数字を叩きだしたほど、全阪神ファンは実に21年ぶりとなるタイガース優勝に酔いしれた。なお優勝が決まった日、カーネル・サンダース人形は「バースに似ているから」という理由でに投げ込まれてしまった。

終わってみればこの年の阪神リーグ1位219本塁打731得点と圧倒的な打撃を見せたほか、犠打数でも141と当時のリーグ記録も作っており、意外と手堅い野球でもあった(ただしのちにバースはこのバント戦術をあまりにも単純と批判している)。
当然打者一人一人の成績も圧倒的で、特に3番のバース打率.35054本塁打134打点という成績でリーグ三冠王を達成、4番の掛布は打率.30040本塁打108打点バースには見劣りするがそれでも4番として文句なしの結果を残し、5番の岡田打率.34235本塁打101打点とこの年の確変で自己最高成績を収めた。


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最終更新日: 20/10/19 18:31
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