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吉田茂


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吉田茂(1878年9月22日生~1967年10月20日没)とは、昭和期の政治家である。第454851内閣総理大臣を経験した。


概要


内閣総理大臣に5回名されており、歴代最多である。合計の在任日数2,616日(第一次吉田内閣368日、第二~五次吉田内閣2,248日)は太郎(2,886日)、佐藤栄作(2,798日)、伊藤博文(2,720日)に次ぐ歴代4位の長さであり、連続の在任日数2,248日は佐藤栄作(2,798日)に次ぐ歴代2位の長さである(ちなみに小泉純一郎は1,980日で合計で5位、連続で3位)。孫は第92内閣総理大臣麻生太郎サンフランシスコ講和条約、安全保障条約を結び、戦後日本の外交路線を決定付けた人として、教科書で紹介される(吉田路線)。大日本帝国憲法のもとでの最後の内閣総理大臣貴族院議員として組閣の大命を受けた)。また、戦後日本において内閣総理大臣を辞任後、再び内閣総理大臣に返り咲いた人物は吉田茂、安倍晋三の2人のみである。


内閣総理大臣時代


第一次吉田内閣―第一党の自由党から首相を選出(1946年5月22日~1947年5月24日)

幣原内閣から吉田内閣に政権が移行したのは、敗戦後初の議会選挙の結果によるものであった。しかし、その以降は決して円滑とはいえなかった。67歳の吉田茂が、初の内閣を発足させるまでには、約1ヶ政治混乱が続いた。

第一に、新たな選挙制度のもとで占拠が行われる直前、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)により、職追放が行われたため、戦前選挙推薦された議員は自動的に追放されてしまった。

第二に、4月10日に行われた総選挙の結果、どの政党も過半数に満たなかった。敗戦後すべての政党は解散し、進歩党(日本進歩党)が戦前政治会系の議員によって、自由党日本自由党)が政治会とは一線を画した鳩山一郎らによって、さらに協同組合義を唱える議員らにより日本協同党が、そして社会党戦前無産政党グループ)が結成された。しかし、最大議席を獲得した自由党でさえ、466議席中140議席にしか過ぎなかった。

第三は、選挙の結果下野するものと思われた幣原内閣が、第一党になった自由党も過半数に満たないことから、政権維持の意欲をみせていたことであった。首相自身、憲法改正問題もあり政権を放棄する訳にはいかないと考えた。しかし、この政権居座りには批判も強く、芦田均厚生大臣が辞任する事態に発展したため、ついに4月22日に総辞職した。そこで第一党になった自由党鳩山が組閣するものと思われたが、5月4日に追放されており、同じ自由党吉田にお鉢が回ってきたのだった。鳩山追放の背景には、総部の意向(ニューディールに共感する総部の民生部が、社会党政権を期待)なども関係していたと言われる。

吉田は、首相および自由党の総裁を引き受けるにあたり、政党の人事に関わらない、政治は作らない、嫌になったらいつでも辞める、鳩山の政界復帰の際には政権を返すとの四条件を示したと言われるが、その偽のほどはともかく、後にこのことがさらなる政治混乱を招くことになる。

経済政策

吉田内閣経済政策上の課題は民への食料供給に加え、工業生産の回復の為のエネルギー素材の確保であった。戦争中には軍需的用途で、戦後においては工業復のために必要とされた粗鋼の生産量のピークは1943年の765トンであった。それが敗戦時にはその3割にも満たない196トンにまで減少し、46年にはピーク時の8ほどにまで落ち込んだ。他方、エネルギーである石炭も、戦争中に増産され41年に5647万トンに達していたが、45年には半減し2986万トンとなった。

石炭生産減少の理由の1つには、戦争中に採炭を担っていた朝鮮半島中国からの労働者を敗戦により当てにできなくなったことがあげられる。鋼生産も必要な石炭が枯渇したため、減少せざるを得ないという悪循環に陥っていた。「傾斜生産方式」によってこの問題解決のために取り組んだのが、46年8月に発足した重要経済政策の企画立案と総合調整を的とした経済安定本部である。

経済安定本部発足前から、日本政府は、幣原内閣末期3月に発表した預封鎖などを柱とする緊急経済対策を効果的に実施するための推進本部設置を検討していた。しかし総部は、経済政策の実施が効果的となるような経済官庁の設置を示唆し、結局、内閣経済安定本部が設立されたのである。

東京大学教授有沢らが吉田内閣に働きかけたと言われる傾斜生産方式は、石炭と鋼の増産にあらゆる政策を傾斜させるものであったが、より具体的には「石炭の生産量を重点的に鋼増産に投入し、その増産された鋼鋼材を石炭増産用に振り向け、石炭の不足分を輸入重油で補しながら、石炭と鋼の傾斜的増産の効果を段階的に諸産業に及ぼしていく」という方策であった。

この政策を融面から支えたのが、47年1月に発足した復庫であり、貸出残高の約4割を炭鉱など鉱業が占めた。復庫の要な資は復債(復融債)であり、日銀引き受けによっていた。この結果通貨増発を誘発し、この時期のインフレをさらに加速させることになったのだが、石橋湛山蔵相はその点を予測して復庫を設立したのであった。石橋は、「不全雇用のもとでは政府を散布して生産活動を刺したために若干の物価騰が起きても、それはインフレーションではない」とし、石炭をはじめ鋼、肥料、住宅建設など、当面の重要産業に資を供給することが政府責任としたのである。

当時の国内政治状況

民の不満はインフレの昂進や配給が滞るほどの食糧事情の悪化に伴い、募るばかりであった。一方、労働組合設置など総部による民主化政策の推進は、人々の不満のはけ口としての直接的行動に訴えさせることになった。46年の5月1日、11年ぶりのメーデーでは皇居前に約50万人が、ついで5月19日に開かれた食糧メーデーでも25万人が集まり、口々に吉田反動内閣反対、民主戦線結成を訴えた。各企業ストライキも盛んで、東京電気日本鋼管などでは労働組合が直接生産管理をするほどの勢いであった。

未だソ両営による冷戦は明確な形をとっておらず、この時点では総部も共産党日本共産党)や社会党による抗議行動を容認していたのである。しかし、47年1月2月1日のゼネストの計画が明らかになるや、総部も事態の深刻さに気が付き、ゼネスト中止を行った。ゼネストは、電ガス鉄道、電信電話の各分野で行い、吉田内閣を倒し、社会、共産両党を中心とする人民戦線内閣を作るという計画であったといわれる。

しかし、こうした蓄積された民の不満は、総部が吉田内閣に強く支持していた選挙の結果に反映されることになった。ダグラス・マッカーサーは、ゼネスト中止をし当面吉田を救う一方、民意を問うことをめたのであった。4月25日に実施された選挙では、社会党143自由党131、進歩党の後継組織である民主党日本民主党126、協同党(日本協同党)31共産党4、その他31という吉田には厳しい結果となった(この選挙の直前に選挙法が正され中選挙区制に戻されている)。書記長の西尾末広が、社会党勝利の一報を聞いて「えらいこっちゃ」と漏らしたエピソードで有名である。

つまり、当時の民は急進的な共産党の政策を肯定することは出来ないが、物価の上昇の沈静化を見いだせない吉田内閣にも強い不満を持っていることを明らかにしたのだった。吉田は、民主党との連立による政権維持を模索せず、第一党になった社会党に政権を明け渡した。社会党片山委員長共産党を除く四党連立を考えたが、吉田社会党を敬遠し、下野した。こうして社会党委員長を首班とする片山内閣が発足した。

当時の国内政治・経済・社会の動き

第二次吉田内閣―議会を解散し、政権基盤を強固に(1948年10月15日~1949年2月16日)

二次吉田内閣は不安定な少数内閣として船出した。既に70歳になっていた吉田茂は、それでも意気軒昂であった。この政治的に不利な状況は賭けをしてでも、変えなければならない、そう考えていた。11月15日の施政方針演説で「まず信を民に問うがために冒頭解散する」こと、それが「政治常識であり、また野の輿論となっておる」(野=世間)と述べたのは、まさにそうした理由からであった。しかし、吉田の思惑通りにはなかなか進まなかった。昭和電工事件は、吉田周辺が仕掛けたとみた総部の民政局(GS)が頑として解散を認めなかったからと言われている。GSは同事件で少なからず打撃を受けた中道が、選挙になれば敗北することを怖れていたのである。ついに問題は出来たばかりの憲法論争にまで発展する。GSは、憲法第六十九条内閣不信任案でのみ解散できるとした。他方、吉田側は「内閣の助言と承認により天皇民のために出来る事行為」として、憲法七条第三項を根拠に解散出来るとした。

吉田がここまで解散に固執したのは、勝利を確信していたことに加え、敗戦後選挙でどの政党内閣の安定に不可欠な過半数をえる議席を得られず、を異にする連立内閣が誕生せざるを得なかったことに不満を持っていたからといわれる。吉田摘にもかかわらず、実際には経済政策においても、連立内閣は一定の成果を上げてきたのだったが、吉田自身はその他の政策を含め、政策の効率的遂行には強内閣が必要だと信じていた。結局ダグラス・マッカーサーの調停で話し合い解散が実現し、1949年1月に行われた総選挙では、吉田の期待通り民自党(民主自由党)の大勝利となった。

民自党264民主党69、社会党48共産党35民協同党14の民意が示され、議席数過半数をえる政党バックにした内閣がついに誕生したのだった。この選挙吉田は官僚を多数立補させ当選させた。この中には、池田勇人(大蔵次官)、佐藤栄作(運輸次官)、岡崎勝男(外務次官)ら、後に首相の座にまで上り詰める者を含め重要な役割を果たす政治家がおり、後に吉田学校と呼ばれる人脈を形成した。吉田政治家として実に強かであった。連立政権の問題を摘する一方、実際の組閣では引き続き参議院では与党が少数であること、また党内の鳩山を封じ込める的などから民党と連立した。

第三次吉田内閣(1949年2月16日~1952年10月30日)

総選挙大勝利により吉田は第三次内閣を発足させ、その後6年余り日本首相として君臨することになるが、外相は自ら兼任し、講和条約締結問題の決着に意欲を見せる一方、大蔵大臣には当選したばかりの池田を抜した。吉田がその後の対折衝などで池田を重用したことはよく知られている。運が良かったのは、選挙で多数を占めたことだけではなかった。際情勢も吉田に味方した。ソ対立はますますしさを増し、アジアでは48年中頃には相次いで南北両朝鮮独立し、49年の10月には共産党率いる中華人民共和国が誕生した。国民党台湾国民党政府が有していたものの、社会大陸を支配した共産党政権を現実のものとして認めつつあった。イギリス速新中国を承認した。他のアジアでも、共産主義の台頭は顕著な形で現れつつあり、米国政府の不安は次第に募りつつあった。

吉田は「今こそ日本は連合に対して、その存在意義を認めさせ、日本経済を確実のものとし、講和条約を締結しなければならない」と考えていた、とされている。負けたとはいえ、日本戦前アジアでは一の工業教育準も高く、人口も多い。何より地政学的にみても、戦略的にみても枢要な位置にある。米国としても、日本共産主義化は悪夢に違いなかった。

こうした論見は当たり、第二次吉田内閣発足直後の4810月に決まった米国政府の対日政策の新方針は、これまで既に明らかにした占領政策の漸進的な緩和策を、正式に認めたものであった。芦田内閣時代の3月に、ジョージ・ケナン日本沖縄を訪れ作成したその内容は、連合軍が占領を継続しつつも、日本政府にその権限を段階的に委譲すると共に、経済の必要性を摘していた。しかしそのことは、日本を西側営に引きこもうとする政治的、軍事的観点からのメッセージであり、吉田日本経済政策を条件に、かつ全面的に認めるというものでは全くなかった。日本を弱体化する財閥解体など、過度な民主化政策にブレーキがかかるのに時間は掛からなかったが、米国から見て日本の復に必要な経済政策は、遠慮なくしてきたのである。

物価上昇の解消(ドッジ・ライン)

鉱工業生産は徐々に回復していたものの、物価上昇解消の処はたっていなかった。48年央を100とする卸売物価は、年末には200に近づくほどの狂乱ぶりであった。消費者物価も卸売物価ほどではなかったが、同様の傾向にあった。こうした状況のもとで、ハリー・S・トルーマン米国大統領は、吉田衆議院の解散に打って出る直前の4812月、総部に日本経済安定九原則を示した。

  1. 政経費の厳重な抑制と均衡財政の期編成
  2. 徴税の強化
  3. 機関の融資の厳重な抑制
  4. 安定の実現
  5. 物価統制の強化
  6. 貿易為替統制方式の善強化
  7. 輸出の最大限の振標とした物資割り当て配給制度の
  8. すべての重要産原料と工業製品の生産の増大
  9. 食糧供出制度の効率化

がその内容であった。


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最終更新日: 14/12/25 05:47
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