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またこれを原作として、NHKにおいて2009年から2011年まで大河ドラマの最終回後に放映されたNHKスペシャルドラマでもある。ここでは後者を中心に述べたい。
▲小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。たれもが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、教師にも、軍人にも、成り得た。この時代の明るさは、こういう楽天主義(オプティミズム)から来ている。
今から思えば、実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。 財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。が、ともかく我々は三人の人物の跡を追わねばならない。
四国は、伊予松山に三人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇跡を遂げた。もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、 その中興の祖となった俳人・正岡子規である。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
物語の舞台となるのは明治時代。明治維新を経た日本は「近代国家」として歩き出し、日本人は藩の「領民」から「国民」となった。そして1868年を物語の始まりとし、四国は、伊予松山藩出身の三人の男を主人公とし、物語は進む。
主人公となるのは、日露戦争において、世界最強と言われたロシア帝国海軍のバルチック艦隊を壊滅する作戦を立て、日本海軍の名将と謳われた秋山真之。そして、真之の兄であり、日露戦争において、史上最強の騎兵と言われたロシア陸軍のコサック師団を撃破した日本陸軍の騎兵の父、秋山好古。そして、俳句や短歌といった現代につながる日本文学の中興の祖となった俳人、正岡子規である。
そして彼らの青春時代や壮年時代、子規の死を経て、物語は日露戦争へと突き進む。
なお、原作においては文庫版全八巻のうち第三巻の半ば(国交断絶、宣戦布告)から第八巻(秋山兄弟の死)に至るまで五巻にわたって児玉・東郷・乃木を三名を中心とした日露戦争および大日本帝国陸軍・海軍のことを述べており、日露戦争の代表的小説と呼んでも過言ではない。
なお、ドラマ版では同じ著者、司馬遼太郎の「殉死」を採用しているシーンもある。
▲秋山真之(あきやま さねゆき 1868-1918) 演:本木雅弘
主人公(ドラマにおいてはメインの主人公)の一人である。幼名は淳五郎(じゅんごろう)であり、知り合いからは「淳さん」と呼ばれている。ドラマ版においては、彼の出生から物語が始まる。少年期にかけては悪がきであった。しかし、中学校を中退した後においては、英語の能力が高かったり、東大予備門の試験の法則を推測したりするなど、学才はあるとも言える。兄の経済的支援の下、松山中学校を中退後、上京。神田の共立学校において英語等を学び、東京大学予備門に入学する。しかし入学後は、自分の道に苦悩し、最終的には予備門を中退。兄から自主独立し、生計をなす為に、海軍兵学校に入学。卒業後、巡洋艦・筑紫の航海士(その当時の階級は少尉)として日清戦争に出征。部下の戦死など苦難を乗り越えて、武官としてアメリカに留学。戦術参謀として、さまざまなことを学ぶ。その後、任地を変えイギリスに向かうところで第一部は終わる。(第一部終了時点で海軍大尉)
第二部では、イギリス駐在武官として海軍と深く接することとなる。その後、少佐に昇進し、海軍大学校の戦術教官となる。第一部において自らの指令が結果として、部下の戦死を招いたことにより「一番犠牲が少なく、敵を撃破する作戦が良い」というモットーを持つ。晩年の子規のもとを見舞い、子規の死を知った時は、子規庵を出た子規の棺を、葬列の外からただ見守った。その後、胃腸を患い入院し、後に妻となり一度面識のあった稲生季子が見舞い、戦術の話をした。後に季子と結婚し、日露戦争勃発直前に旅順艦隊の侵攻を防ぐため、連合艦隊参謀として佐世保から出征する。出征後、同僚の有馬良橘の講ずる閉塞作戦に対して、犠牲が多すぎると反対するも、閉塞作戦は実施された。閉塞作戦を実施する以上、真之は犠牲を少ない策を講ずるなど訂正を加えたものの、二回に及ぶ閉塞作戦は失敗。海軍大学校の先輩・広瀬の死に対し涙を流した。広瀬の戦死の直前、アリアズナ宛の手紙を受け取っており、その手紙を中立国経由で、アリアズナの元へ送った。(第二部終了時点で海軍少佐)
第三部においても、連合艦隊参謀(この時の階級は少佐)として東郷のもとで働く。上記の閉塞作戦失敗により、旅順艦隊を追い出すことも撃沈させることもできなかった。旅順艦隊とバルチック艦隊の合流の可能性が出てきたため、これを阻まんと画策する。陸軍将校との会談において、旅順要塞を重視する陸軍に対して、旅順要塞は堅牢であるから、ロシア艦隊を追い出すために二〇三高地を攻めてほしい、と提言するも陸軍からは旅順の占領が最優先として却下される。この後、第一回旅順総攻撃で、陸軍第三軍が6日間で1万6000人の莫大な死傷者を出した上に、要塞が攻略できなかったと知るや激怒した。前述で述べたとおり、劇中において彼は「一番犠牲が少なく、敵を撃破する作戦が一番良い」という理念を抱いており、莫大な犠牲者を出したにもかかわらず乏しい戦果しか揚げられない伊地知ら参謀を中心とした陸軍首脳部に対して怒り狂った。そして激昂のあまり、部下に「陸軍将官に進言する為に、上陸艇を出せ」と怒鳴り散らすと、聞きつけた参謀長・島村速雄少将に殴りつけられ「敵を見間違うな」と諭される。その後、陸軍が二〇三高地に攻撃拠点を移すと、「ようやってくれた」と感謝している。しかし二〇三高地を占領後に敵に奪取され、部下が陸軍の作戦を「そろそろ攻撃中止作戦が出る頃だ」などと他人事のように評すると、「どんなに犠牲が出ても二〇三高地は落とさねばならん」と、部下に掴み掛かり激怒した。この怒りは陸軍海軍の問題のみならず、日本の存亡という命運をかけた戦いであることを熟知した彼であるからこそ言える言葉である。満州総攻撃の終結後、昇級し中佐となる。そして自宅のある青山に久々に帰宅し、妻と、滞在していた義姉・姪・甥・母と再会する。
以下の日本海海戦の終結後、亡き母と対面する。そして今まで多くの人々の死を見たことで、出家して戦没者を弔いたいということを泣きながら季子に言った。それから数日後、亡き子規の墓参りに行った。
そして兄・好古と故郷を訪れ、釣りをするシーンでは「お前はようやった。ようやったよ。」という言葉を兄から受ける。
1918年2月4日、盲腸の悪化による腹膜炎により病没。享年49。最期の言葉は「みなさんお世話になりました。あとはひとりで逝きますから」であった。
<第三部(1905年)以降における連合艦隊および真之の行動(東郷らも含む)>
1905年2月20日に、バルチック艦隊撃滅のため佐世保より連合艦隊参謀として出征する。この時、連合艦隊中枢部においてはバルチック艦隊について「対馬経由」か「津軽海峡経由」かで揉めており、艦隊を対馬沖から津軽沖に移すことを検討していた。実際、バルチック艦隊は遅れていた。そこで亡父が遺した「短気は損気。急がば回れ。」という言葉を思い出すが、耐え切れず業を煮やした。最終的に、東郷・島村らの提言で対馬に待機することに合意し、その翌日の5月28日、バルチック艦隊が対馬海峡沖に出現。そこで大本営への電信の際に「本日晴朗ナレドモ波高シ」の一文を加える。そして東郷とともに三笠の艦上で決戦に挑む。そして敵前で大回頭を行い、砲弾が炸裂する中で自らの提案した「丁字戦法」の戦果を確認することとなる。
真之の丁字戦法は、真之が独自に考案した策であった。丁字戦法は、簡単に言えば「─」に並んだ戦艦が、「│」に並んだ戦艦を前から順に集中砲火させることで。しかし船が戦法のために旋回する時間は、ほぼ無防備状態となり、敵にとっては静止同然の的を射撃するとたとえられるほどデメリットがあり、作中においてもその点が描かれた(約10分間射撃できない状態となり、バルチック艦隊の司令官ロジェストヴェンスキーからは「黄金の10分」とまで呼ばれた)。しかしながら最終的には、連合艦隊側にもバルチック艦隊の砲撃により死傷者が出た。しかしロシア兵に比べれば被害は格段に少なく、バルチック艦隊側は30隻以上が集中砲火の巻き添えとなり炎上・大破あるいは沈没し、計り知れないほどの死傷者が出た。負傷したロジェストヴェンスキーに代わり、ネボガトフが指揮をとることとなった。ネボガトフは現在の惨状を考慮し、降伏を決意した。そしてバルチック艦隊側は砲撃を止め、白旗を掲げた。しかし前進をやめず、大砲を連合艦隊にむけていることから、東郷が砲撃を続行させた。その後、前進をやめたことろで東郷は「砲撃中止」を命じた。そして調停のため、真之がバルチック艦隊の旗艦に移動する。その際、黒焦げになった敵の旗艦の中で、横たわるロシア兵の遺体に手を合わせた。そしてネボガトフから降伏する旨を伝えられ、ネボガトフの要求により、沈没したバルチック艦隊の軍艦の名前をすべて教えた。
秋山好古(あきやま よしふる 1859-1930) 演:阿部寛
主人公の一人。真之の兄(三兄)。幼名は信三郎(しんざぶろう)であり、知り合いからは「信さん」と呼ばれる。弟、淳五郎(真之)の出生時に経済的な貧しさから父が寺にやるしかないと言ったとき、「おっつけウチが勉強してな、豆腐ほどの金、こしらえてあげるけん(ドラマ版)」と言い父を説得し、真之が寺に行くのを阻止した。その後、風呂屋で働きながら勉強し、小学校教員、大阪の師範学校を経て、陸軍士官学校騎兵科に入る。それ以後、弟・真之の学費を経済的に援助する。上記の台詞からわかるように、身辺を単純明快し、質素な生活を好み、また真之にも兄として厳しく叱咤激励する。福沢諭吉を敬愛し「一身独立して、一国独立す。」(学問のすゝめ)という言葉を、座右の銘に掲げる。後に陸軍大学校を経て、久松家(旧松山藩主家)当主・久松定謨(ひさまつ さだこと)の従者として、フランス留学をすることとなる。当時、日本陸軍ではドイツ式が主流であり、フランスに留学することは、昇進を諦める事に等しかったと言われる。しかしながらフランスの留学を通し、フランス騎兵の機動性が、ドイツ騎兵に勝ることを知った。後に陸軍本部は、好古の留学の諸経費を官費とした、すなわち好古は騎兵について学び、日本騎兵の育成を任せられるという大命を担うこととなった。そして騎兵大隊長(この当時の階級は少佐)として日清戦争に参戦。その後に陸軍乗馬学校長に任じられる。(第一部終了時点で陸軍大佐)
第二部においては、北清事変にも出征し、この時に清国民に対して暴行や殺害、略奪を行うロシア兵に対して、憤りを感じた。その後、清国駐屯軍守備司令官となり、清国軍の有力者・袁世凱と会談するなどした。その後、陸軍少将として千葉県習志野にある騎兵第一旅団長になる。日露開戦直前にロシア側から戦意喪失のために招待され、その意図を察しながらもロシアを訪れる。視察後にロシア騎兵と腕相撲などで戯れ、「互いに勇敢に戦おう」と宣言した。出征前、真之だけに名刺の裏で書いた「這回の役 一家全滅すとも恨みなし」という気概を示した。(第二部終了時点で陸軍少将)