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坂本龍馬


ヨミ: サカモトリョウマ
掲示板をミル!
238カキコ!

何?坂本龍馬のことが聞きたい?

ずつと昔ブン屋に話したやうな事の繰り返しになるかも知れんが、よいかノー

槪要

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坂本龍馬は保六年(1835年)十一月十五日に生まれた。諱を直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)とえておる。

の生坂本。才谷屋と言ふ商から分して、わざわざ薄給の士身分になつたはり者の一族だ。

長男とは年が二十一も離れており、このとの千鶴乙女といふ三人のがおつた。

十二の頃母親の幸が亡くなり、その後はの後妻であるに育てられた。

幼少期は何やら冱えない感じで、尿の癖のある洟垂れ小僧だつたらしく、この繼三女乙女には特にしく躾けられた。

乙女は身の丈5尺8寸(176cm)、重30貫(113kg)といふ堂々たる格で、「坂本のお仁王」と呼ばれる女傑だつた。

が亡くなる前後に、一度下町の塾に入門したが、上士の子と喧嘩したのが原因でやめてしまつたため、それ以後は乙女から問や術を習つた。

嘉永元年(1848年)、十四の頃に近所の小栗日根野場に通い始めてからは、人がはつたかの如く稽古にみ、周りの者たちの見るはつていつた。

場へは心機一おねしょうも、泣きも一ぺんに飛んでしもうた。
はまっ先に、夕べは最後まで、飯を食わんでもの稽古一筋。愉快でたまらん、おもしろうてたまらん。
そんな氣持ちでなんぼでもやる。
坂本もうよかろう』というと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる」
(詰延『坂本龍馬の師匠』)

嘉永六年(1853年)、十九の時に日根野場にて「小栗流和兵法事」を授けられると、更なる修行めて江へ行く事になつた。

さて、嘉永六年といふと何の年か分かるかね?まあそのは追々、といつてもすぐ話す事になるだらうヨ。

注 誕生日11月15日と斷定しているが確定ではないことに注意。

黑船來航

日根野場でを得た後、は土佐から十五ヶ修行を認められて、修行の爲江に赴いた。著いたのは四月もしくは五月と言はれておる。

では北流の千葉場に通つていたが、六月利加の艦隊が江にやつて世情々しくなつてきた。この時は土佐の警備隊として出動していて、船が去つた後、九月十三日付で手紙を書いている。

一筆啓上仕り
氣次第に相々御機嫌(よく)御座成らせらる可く、出度千存じ奉り
次に私儀異に相暮申し 御休心成下らる可く
御許にアメリカ沙汰申し上げに付、御覽成らせらる可く
先ずは急用御座候に付、書御推覽成らせらる可く
船御手宛の儀は先ず免ぜられが、は又人に加わり申す可く在じ奉り

  恐惶謹言
  
 九月廿三日

 尊
下せられ、有難き次第に在じ奉り
金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候
々にへば、軍も近き内と在じ奉り
其節は異の首を打取り、仕る可く かしく
(『嘉永六年九月十三坂本直足宛 坂本龍馬書』)

「異人の首を打ち取る」など隨分勇ましい事を書いておるノー。後年のからは一寸想像が付かないが、あのご時世ぢやこのぐらいの氣槪はあつて然るべきだらうヨ。際にやるかだうかは別だがノー

この後十二月に西洋砲術ぶ爲、佐久山の塾に入門しておる。この佐久と言ふのは奇妙なつきをしたちよこちよこした男でノー識に任せて相手を脅しつけるやうなところがあるから、もこの男に習ひ事をするのは苦したんぢやないかネ。

高知にて

嘉永七年(1854年)六月は一旦修行を終えて土佐に戾つた。戾るとすぐに高知下有の知識人と評判だつた河田と言ふはり者と面し、時勢をり合つている。好奇心が强かつたのだらう。

「時態の事にて君の意見必ずあるべし、聞きたし」

が問ふと河田

「如何ともして、一艘の外船を買いめ、同志の者を募り之に附せしめ、東西往客官私の荷物等を運搬し、以って通便を要するを商用として船中の入費を賄い、上に練習すれば、航の一端も心得べき小口も立べきや」

と答えた。この答えには手を打つて喜び、は船の購入を、河田は有志となる人材の確保をお互いに約束した。河田子である近藤長次長岡謙吉新宮馬之助など、後に援隊の同志となる人材がの下に集まつていく事になる。

しかし、この時分から既に蒸氣船を利用した貿易をす志を持つていたなら、やはり夫ではあるマイよ。

再び江戶へ

安政三年(1856年)七月、二十二になつたは再び江に向かい、以前通つていた千葉場で再度修行んでいる。安政五年(1858年)の正月には『北流長兵法』を授かつた。技もなかなかのものだつたやうだ。

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千葉周作、定吉、重太に混じつて女性の名前のあるのが分かるだらう。これはたつての願いといふ事で師である定吉が書き加えたものだ。定吉も滿更でもなかつたやうで、名前の載つている佐那の證言によると、自分との緣組のため手紙を書いたりしていたさうだ。

…何?が授かつたのはではなく薙刀ではないか?

確かにその通り。だが、前述の佐那の證言として「さんを塾頭に任じ、北を授けました」といふのもあるからノーに現存していないだけ、といふことも有り得る。マアそんな詮索は福澤みたいな者に任せておけばイイサ。

安政五年(1858年)九月してからしばらくのはこれといつて立つ活動はない。土佐過激派に呼び出されてしたことくらいしか記つていないやうだ。

の活動についての記が再び確認できるのは文久元年(1861年)、土佐勤王の結成まで待つ必要がある。

注 平成27年(2015年)、薙刀以外に『北流兵法皆』を取得していたことを示す文書が見つかったと報道された。リンク[外部]照。

土佐勤王黨

この一年前、ち安政七年(1860年)の三月三日、江で大事が起きた。いはゆる櫻田門外のだ。井掃部守が登中に薩摩の浪士に暗殺され然、各地の血氣盛んな浪士達も觸されて鬨のを上げ始めた。

おれはこの頃利加に渡つていたんだが、して賀に上陸した途端いきなり幕吏が現れて「の者はいるか」などと聞くから「利加には人は一人も居ないから直ぐれ」と冷やかしてやつたよ。しかし、櫻田について聞いた時分には幕府はとても駄だと思つたサ。

武市半平太

さてだが、この年土佐ではその後の政局にはる出事が起こつている。土佐勤王足だ。首領は武市瑞山、通武市半平太といふ男だ。この者は江場で術師範を勤めたほどの達人で、土佐でも場を宰しており、土佐士達から多いに人望を集めていた。また友人でもありお互いに「武市アゴ」「のアザ」と呼び合うくらい仲がよかつたといふことだ。

その武市士達を糺合して文久元年(1861年)の八月に結成したのが土佐勤王だ。勢190名以上が血判し、土佐内の一大勢を形成した。はこの血盟書の九番に署名している。

勤王に加盟した十月十一日に讃岐の丸修行に出向いている。土佐士・樋口吉の日記『遣倦』にある「坂飛騰」といふやつだ。その後、長州久坂玄瑞と面するため萩に向かつた。讃岐に赴いたのは表向きの理由は修行だつたが、的は各地の情勢視察と武市の書を久坂に屆けることだつたやうだ。萩に著いたのが翌年の正月十四日と久坂の日記『江』にある。

度、坂本君御出浮在らせられく御談合仕り頃、委曲御聞取り願い奉り。竟に諸恃むに足らず、卿恃むに足らず、莽志士糺合義の外には迚も策之き事と私共同志中申し合い居り事に御座候。失敬乍ら、尊も弊も滅亡しても大義なれば苦しからず」

(久坂玄瑞『江』)

越な尊攘論者で知られる久坂と話し合い、何か思ふところがあつたのかも知らん。この後は土佐に戾り脫することになる。

脫藩

文久二年(1862年)二月末、高知還した。その頃地元では武市政・吉田東洋して盛んに勤王論を建していたが、吉田は書生論として取り合はなかつた。そこで吉田を暗殺しやうといふ動きが勤王で持ち上がつてきた。そして三月廿四日、は土佐を離れ、脫浪人と相成つた。

何故が脫といふ思い切つた行動に出たのかについては諸あるが、おれは勤王の過な路線に違和感を感じたんぢやないかと思ふヨ。古今暗殺で大業を成す者はおらんからネー。

因みにこの時の有名な逸話で、が猛反してを隱し、次女のおを授けたといふのがある。だがお化年(1844年から1847 年)、つまり脫の十五年以上も前に亡くなつていることが分かつている。おそらく後世に誤つた承がえられたのだらう。

話を戾す。その後の路だが先に脫していた澤村惣之といふ男がを迎えに内海を渡り、廿九日に下に到著。商・白石正一の屋敷に泊まつてから九州に向かい、薩摩に入ろうとしたが入できなかつたため、斷念して大坂に向つたとはる。「はる」といふのは、この時期のの足取りには確かな證がなく、聞に基づくらざるをえないのだ。

の動が確認されるのは七月樋口吉の日記に「つて一を贈つた」とある記述がそうだ。

松平春嶽

樋口はこの時分大坂に居たから大坂に居たのだらう。

いて九月、土佐士の崎滄浪が江滯在中に書いた書の中に登場する。七月から九月までのに江に移動していたやうだ。この後また京都と江を行きしている。

十一月、今度は久坂玄瑞日記に現れる。日付は十一月十二日で、久坂の他高杉作と武市瑞山居合はせてんだとある。中々愉快な面子ぢやないか。

十二月五日、今度は大膽にも越前松平春嶽の元を訪れている。これには崎滄浪と近藤長次も同行していたやうだ。この時大坂防策について意見を述べた後、おれへの紹介を書いてくれとんだ。そして十二月廿九日、文久二年の大晦日はおれの元を訪れたワケだ。

注 坂本龍馬脫の理由をっているが、これはあくまでもの1つと見た方がいい。

勝麟太郞

勝海舟

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最終更新日: 21/06/26 17:32
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