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西郷隆盛、木戸孝允と共に「維新三傑」と称される。通称は正助、一蔵。雅号は甲東。
天保元年(1830年)、薩摩国鹿児島城下の高麗(これ)町にて、御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる下級武士集団に属する大久保家の長男として生まれる。幼少期は薩摩藩特有の師弟教育である郷中(ごじゅう)教育を受けて育つ。
弘化3年(1846年)、16歳の頃、藩の記録所書役助に就任するが、嘉永3年(1850年)、藩主島津斉興と、その世子島津斉彬との間に起きた、後継者争いに端を発する高崎崩れ(お由羅騒動)と呼ばれる事件に連座して、父利世が島流しにされ、大久保自身も職を解かれ謹慎処分を受けたため、安定した生活を送っていた大久保一家は一転、無収入の貧困生活にまで落ち込む。
謹慎中は勉学に励みながら、友人の西郷隆盛ら同志と『近思録』の研究会を開くなど交流の日々を送る。この時に集まった面々は後に精忠組と呼ばれ、薩摩藩内部の有力勢力の一角として台頭していく。
高崎崩れ後の巻き返しに成功した斉彬が藩主に就任して2年経った嘉永6年(1853年)5月、ようやく謹慎を解かれて復職する。
▲藩主に就任した斉彬は、幕政への積極的な介入や集成館事業など斬新な政策を打ち出していく一方、見込みのある下級士族からの人材登用を行い、安政4年(1857年)には西郷と共に大久保も御徒目付に取り立てられている。
安政5年(1858年)、違勅調印による通商条約の締結と、安政の大獄に反発した斉彬は、5000人の藩兵を引き連れ上洛し、朝廷に攘夷論を放棄させたうえで幕政改革の勅許を引き出す計画を立てるが、7月に急病により死去する。
斉彬の死により、その実父で斉彬の政策に否定的だった斉興が藩政に復帰し、集成館事業をはじめとする斉彬の政策がことごとく中止、あるいは縮小されていった。
この事件は斉彬の諡号にちなんで「順聖公崩れ」と呼ばれている。
藩全体に閉塞感の漂う中、大久保の属する精忠組の人々は、脱藩して大老・井伊直弼ら幕閣を襲撃する突出計画を立て始める。その一方で大久保は、斉彬の遺言により藩主となった島津茂久の父で、斉彬の異母弟・島津久光への接近を試みる。
まず久光が趣味とする囲碁の相手であった寺の住職と親しくなり、そこから久光がどのような人物なのか、何を欲しているのかを探り始めた。
ある時、住職から久光が読みたがっている本について聞き出した大久保はその本を用意し、住職を介して久光に提出した。その本の中に自らの時勢に関する意見や精忠組について書いた紙片を挟み込み、自分たちの存在を示した。
安政6年(1859年)、斉興が死去するといよいよ脱藩計画が本格的に企図され始めたが、11月5日、大久保達の動きを察知した久光は、藩主茂久の名義で慰留するための論告書を出した。
方今世上一統同様、容易ならざる時節にて、万一時変当来の節は順聖院様御深志を貫き、国家を以って忠勤を抽(ぬき)んずべき心得に候。 各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、我を輔(たす)け、国名を汚さず誠忠を尽くし呉れ候様偏に頼み存じ候。
藩主から存在を認知された事に感動した大久保ら精忠組一同は突出計画を思いとどまる。
この後、久光と初めて面会するまで合わせて都合3回ほど突出計画があり、その度に久光は自重論を唱えたが、そのやり取りの中で、精忠組という有志を擁する大久保の才覚や、斉彬の遺志を継ぎたいという自らの思いとの一致を見、藩主後見人とはいえ、藩内権力を掌握する足がかりを持っていなかった久光はむしろこれを利用するべきと考えるようになった。
ここに両者共に事を成すための利害が一致した。
万延元年(1860年)3月、大久保は初めて久光と面会し、閏3月には勘定方小頭格に任命された。
桜田門外の変後、国中に攘夷の雰囲気が蔓延する中、久光は尊敬していた斉彬の意向を受け継ぐ形で率兵上洛計画を立て始める。
文久元年(1861年)11月、久光は藩内の上洛反対派を更迭すると大久保を御小納戸役に任命。小松帯刀らと共に大久保が藩政の中枢に躍り出る。
翌文久2年(1862年)1月、久光から朝廷工作を任じられた大久保は、島津家と縁戚関係のあった近衛忠房と面会して協力を求めるも拒絶される。
藩内においても上洛反対論が根強いところに、更に別の問題が持ち上がってきた。精忠組の過激派達が率兵上洛を利用して討幕運動の端緒にしようと画策し始めたのである。当時の大久保や久光の考えは公武合体論であり、討幕は考えていなかったが、このまま計画を実行に移すと過激派の暴発が起きる可能性が生じていた。
ここで過激派達に顔の利く人物である西郷隆盛待望論が浮上する。大久保は島流しになっていた西郷の帰還を久光に進言し、受け入れられる。
2月、帰還した西郷に対して小松ら藩幹部と共に計画への協力を求めるが、逆に西郷から事前準備の不備の指摘を受け反対される。更に久光に面会した際にも真っ向から反対論を唱えた為、久光の勘気を被るが、大久保の執念の説得で何とか西郷の協力を取り付けることに成功した。
文久2年(1862年)3月13日、久光はまず先発隊として西郷を下関に向かわせた後、3日後に藩兵1000人余を率いて上洛を開始した。大久保、小松もこれに随伴している。
各地の攘夷派志士がこれに呼応して大阪・京都に集まり、精忠組の過激派もこれを機に討幕挙兵にまで持ち込もうと久光の到着を待ち構えていた。
過激派の動きを察知した西郷は、待機命令を無視して大阪に赴き鎮撫していたが、命令無視に加えて過激派を扇動しているのではないかと疑惑を持った久光に対し、大久保が西郷の様子を探りに行く許可を得て大阪に向かう。
過激派の鎮静に努めていた西郷を確認し、戻り久光に報告したものの怒りの収まらない久光は厳罰を科す事に決めてしまった。
西郷が処罰を受け入れず、過激派と共に暴走する事を恐れて切羽詰った大久保は、命懸けの芝居を打つ。西郷を浜辺に連れて行き、服罪するつもりがなければ今ここで共に死のうと申し出た。
かつて僧月照と心中を図って蘇生した事を天命と考えていた西郷は、ここで自分たちが死ぬのは犬死にだと言い、甘んじて処罰を受けると答えたという。
「篤と申含め候ところ、従容として許諾、拙子もすでに決断を申入れ候に、何分右の通りにて安心にてこの上なし」 (『大久保利通日記』上巻 P118)
西郷が鹿児島に連れ戻され、過激派を抑えられる人物が居なくなると、有馬新七らが京都伏見の旅館・寺田屋に集結し、和宮降嫁に協力的だった関白・九条尚忠や京都所司代の屋敷への襲撃を画策する。
久光が京都に到着した4月16日から4日後の20日、大久保は鎮撫のために寺田屋に遣わされて説得を試みるが効果無く、その後も藩士による説得は続けられたが、23日に計画実行が決定されると上意討ち已む無しとなり、同日夜、文字通りの同士討ちが起こった。
この事件によって計9名が死亡、生き残った薩摩藩士は国元へ送還、他藩の関係者は引渡しとなり、薩摩藩内部の尊攘激派は壊滅した。
なお、この事件で薩摩藩に護送される途中に海上で殺された田中河内介父子の件について、殺害を指示したのは大久保と断定される事があるが、証拠は特に無い。
寺田屋での過激派鎮圧により朝廷から信任を得た久光は、朝廷への建白で幕政改革と称し、越前福井藩の松平春嶽を大老に、徳川慶喜を将軍後見職へ就任させる為の勅命を要求した。
一方大久保は、朝廷の有力公卿である岩倉具視と初めて面会して協力を求めている。
5月21日、久光や大久保の周旋が実を結び、念願の勅許が下る。この勅許は「三事策」と呼ばれている。内容は以下の通り。
三事策のうち、薩摩藩の要望は3のみであり、1は尊攘派とその背後にいる長州藩、2は岩倉具視による発案である。
1については、徳川家茂を京都に呼びつけて攘夷決行の勅命を下そうという尊攘派の、2は薩摩藩の独走を牽制する岩倉の思惑に基づいている。
22日、公卿の大原重徳が勅使に任命され、これを護衛する形で久光率いる薩摩軍が江戸下向を開始した。
なお、この間5月20日に大久保は御小納戸頭取に就任している。これまでの活動が評価されての昇進だった。
勅使の大原は家茂に対して勅命を下し、久光、大久保は幕閣への勅命受け入れを求めるが、外様の、しかも藩主ですらない久光が朝廷を動かして手に入れた勅命を幕府が容易に受け入れるはずも無く、交渉は難航した。
薩摩藩としての要望であった徳川慶喜の将軍後見職登用と、松平春嶽の大老登用は特に強く要求されたが、春嶽の登用はともかく、慶喜の登用については、かつての将軍継嗣問題のように火種になりかねないと、老中板倉勝静をはじめ幕閣一同が強く反対した。
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老中との交渉にイラッときた大久保は埒が開かないと判断、一計を案じる。
6月26日、大久保は大原に対して老中殺害を示唆し、大原が板倉と脇坂安宅の2老中に、勅命に応じねば「変に及ぶとの事」と伝えると板倉らは顔面蒼白し、29日、ついに勅命受け入れを決定。松平春嶽は大老の代わりに新設された役職である政事総裁職に、慶喜は将軍後見職へそれぞれ就任が決まった。
「数十年苦心焦思せし事今更夢之様な心持、皇国之大慶は言語に尽きし難き次第なり」
(『大久保利通日記』上巻 P164)
斉彬以来の薩摩藩の方針であった幕政改革が成功し、久光、大久保らは歓喜のうちに8月21日に江戸を後にした。
だがこの時の大久保達は、その行動が自分達の意思とは裏腹に、幕府の脆弱化と尊攘派の付け入るスキを露呈してしまったことにまだ気づいていなかった。
ここで少し時間をさかのぼる。
5月、久光一行が勅命を得た時、朝廷から長州藩と連携するようにと命じられていた。当時江戸には長州藩主のそうせい公が滞在しており、久光も江戸に着いたらそうせい公と一緒に活動しようと意気込んでいた。
ところがこのそうせい公、久光と会うのを嫌がるかのように江戸から京都に向かってしまった。これに大原と久光は強い不信感を持ち、後の8月18日の政変や禁門の変に至る薩長対立の発端となる。
久光が感情を害したことを気にしていた長州藩重臣の周布政之助は、6月12日、接待の場を設けて融和を図ろうとした。この接待に大久保と、精忠組の同志である堀小太郎が招かれていたが、この席で一悶着が起きる。以下は超意訳。
周布「いやー悪かったねェうちの殿様のアレ。でもうちも別に私心でやってるわけじゃないから許してチョンマゲ♪嘘だったら切腹しちゃう(^Д^)ギャハ!」
堀「へーじゃ今すぐ切腹しろや、検分してやるから。つーか何がチョンマゲだよこの薄らハゲ(^▽^)ゲラゲラ」
周布「・・・(l% &д・ )あ”ぁ”?」
大久保がたしなめた為その場は収まったものの、堀の挑発的な態度に怒った周布は酔っ払うと抜き身の刀を振り回して踊り始めた。長州側で同席していたヒゲモジャ老兵来島又兵衛も刀を寄せて薩摩側を睨み付けた。
いつ斬り合いが始まってもおかしくない、そんな殺伐とした状況に策士・大久保が立ち上がった。
大久保「いかん!このままでは殺し合いになりかねん…」
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_ (m) _ピコーン
|ミ|
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∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・∀・∩<そうだ、あれをやろう!
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大久保「不肖大久保、芸を御覧に入れる!」
周布・来島「!?」
おおくぼはおもむろにたたみをひっぺがし、なんとてのひらでまわしだした!
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ヽ |::|i ´Д`) / 秘技、畳み回し!
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(^Д^;)(`Д´;)
周布 来島
大久保の意外な行動に一同毒気を抜かれ、何とか無事に宴会を終わらせることが出来た。