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始皇帝とは秦王にして中国を統一し最初の皇帝になった人物である。
本名は嬴政(えいせい)。
昔々、中国はたくさんの国々に分かれて戦乱の日々を送っていた。そんな戦国時代の末期、西の大国の秦は商鞅(ショウオウ)という法家の指導によって国家改革に成功し、昭襄王(嬴政の曾祖父)の下で大躍進を遂げていた。
しかし嬴政は元々王になる予定の存在ではなかった。嬴政の父親である子楚は王孫ではあったが秦の敵国である趙に人質として送られた日陰の存在であったのだ。そんな彼に目をつけたのは大商人の呂不韋であった。呂不韋は「奇貨おくべし(珍しいものに金をだし後で利用しよう)」として自らのもつ財産を子楚に投資し、また秦の宮廷に賄賂を送り子楚を見事皇太孫にすることに成功した。その後、子楚と嬴政は秦に呼び戻されることとなる。
昭襄王はとても長生きだったため、跡を継いだ時点で既に高齢だった嬴政の祖父は即位3日で死に、その子王(子楚)も3年で崩御した。それによって嬴政はわずか10歳で秦王に登ることとなった。当然子どもに政治などできるはずもなく、秦の宮廷は彼の即位に恩のあった呂不韋に牛耳られてしまった。呂不韋は相国を名乗り嬴政を軽んじた。
しかし呂不韋は嬴政の母親(秦の皇太后)と不倫関係にあるというスキャンダルをもっていた。皇太后は元々呂不韋の女であり、子楚にそれを譲ったという経緯があり、それゆえに嬴政は呂不韋の子なのでは? という疑惑も当時から存在していた。
呂不韋はスキャンダルが明らかになってはまずいと、チンコを車軸にして車輪が回せるほどチンコのでかい嫪毐(ロウアイ)という男を宦官に仕立て上げ皇太后の相手をさせた。しかし嫪毐は皇太后と子を作り反乱を起こしてしまった。反乱は鎮圧されたが、呂不韋はその罪に連座して失脚。後に毒をあおって自害した。こうして嬴政の親政が始まる。
嬴政が親政を始めた年に、秦の灌漑工事を行っていた鄭国という人物が実は韓のスパイであったという疑惑が流れた。そこで嬴政は外国人を国外へと追い払う逐客令をだしたが、秦の重臣であった李斯らに諌められ思いとどまる。その後、嬴政は逆に楚出身の李斯や、韓の王族である韓非子、魏出身の尉繚子などを重用し、国力の増加を促した。
もともと昭襄王の時代から秦の力は他国から抜きん出ており、秦はまず韓を、ついで趙を滅ぼした。趙には有能な軍人であった李牧がいたが、尉繚子による離間の計が成功し、既に除かれていた。嬴政にとって辛い少年時代をすごした趙の首都、邯鄲を陥落させると、嬴政は昔自分を虐めていた人達を生き埋めにしている。
ついで秦は燕の国に攻め込む。燕国の太子の丹は嬴政の幼なじみであったが、大人になるにつれて嬴政を恨むようになり、刺客の荊軻を差し向けるも失敗。嬴政は激怒して燕の首都、薊(けい、現在の北京)を攻滅ぼし、住人を皆殺しにした。燕王は遼東に逃亡し、丹の首を嬴政に届けるが無視され後に捕えられた。
それから魏、楚、斉を滅ぼし、前221年に嬴政は中国史上初めての中華統一を成し遂げる。統一秦王となった嬴政はこれまでの王よりも更に抜きん出た存在として皇帝と名乗り、一人称を朕とした。これが始皇帝であり、清の宣統帝溥儀に至るまで約2000年続く中国の皇帝政治の始まりであった。始皇帝は皇帝位は代々受け継がれ、自らの子は二世皇帝、孫は三世皇帝と名乗るべしとした。
昔、殷を倒した周王は土地を自分の親族や功績のあった部下に分け与えて統治する封建制をとった。しかしその結果各地の王族が力をつけ、結局天下は乱れてしまった。そこで始皇帝はすべての中華を直轄地にする郡県制をとった。始皇帝は国土を統一するだけでなく度量衡や通貨、言語なども統一し現在の中国統一イデオロギーの基礎を作りあげた。
始皇帝は法支配による政治を目指しておりそのために邪魔な、また怪しげな言葉で人民や皇帝自らを惑わすとした方士たちを生き埋めにし、また占い、農業、医学以外の思想書を燃やした。これが世に謂う焚書坑儒である。古代中国の思想弾圧事件の一つであると共に、始皇帝の政治スタンスがみてとれる。
中国を統一した始皇帝であるが、それでも北方民族である匈奴にはまだ歯が立たなかった。始皇帝は武将の蒙恬を皇太子である扶蘇につけて北方に派遣し、防衛に務めさせた。このときにかの有名な万里の長城が築かれているが、これは明代に作られた現在見られる長城とは違うものである。また長城を作ったのは始皇帝が最初ではなく、戦国時代に趙や燕も長城を作っていたことも押さえておきたい。
この世の全てを手に入れた始皇帝は次に不老不死を目指した。徐市(ジョフツ)(あるいは徐福(ジョフク)とも)いう怪しげな方士に投資し、蓬莱山の仙薬をとりに行かせたりもしている。しかし徐市は始皇帝の元に帰ってくることはなく(一説には現在の日本に来ていたとも言われる)、始皇帝は代わりに水銀を妙薬として服用していた。いうまでもないが水銀は猛毒である。
万里の長城や、始皇帝の宮殿である阿房宮の建設、そして始皇帝の墓である始皇帝陵を建設するための負担は民衆に重く伸し掛り、秦の滅亡を速めることとなる。さらに始皇帝は巡遊好きでもあり、中国の色んな場所を巡遊したが、行く先々では住人に様々な義務が課せられ、始皇帝への恨みは高まっていった。
始皇帝は4度目の巡遊中に死んだ。史記によるとその死は隠され、首都である咸陽に帰還したのちに公表された。皇位は末子の胡亥が継ぎ、二世皇帝となった。この時、本来皇帝を継ぐはずだった皇太子扶蘇は宦官の趙高の陰謀により殺されたといわれている。
多くの負担と厳しい法律による民衆の不満。そして始皇帝の死後は宮殿は悪宦官の趙高に牛耳られ、秦王朝の命運は風前の灯火であった。結局、陳勝呉広の乱を発端とする戦乱によって始皇帝の築き上げた秦王朝は実質的に二代で滅ぶことになる。秦にトドメを刺したのは次世代の英傑、項羽と劉邦であった。
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