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宋王朝


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宋王朝とは、中国の王朝である。

宋王朝(960~1279)は時代により北と南に分かれる。


概要


960年の趙匡胤(ちょうきょういん)の即位から、1279年のフビライハン侵略まで300年間続いた王。途中北方民族に都を追われ、南に遷都して以降を南。それ以前を北とも呼ぶ。

文官を重用した文治政治をとり多くの文化を発展させた一方、建以来ずっと北方民族に悩まされた王でもある。

日本史だと平清盛の日貿易や、栄西の来日や、宋銭の流入などで名前が出てくる。水滸伝や朱子学でも有名。


北宋の中国統一


当時、世は五代十国の戦乱の時代であった。960年、後周の将軍趙匡胤は北征伐を命じられ大軍を率いて軍を進めていた。当時の後周の恭はわずか7歳であったため、これを機会にと胤のブレーン趙匡胤に対して皇位につくように進言する趙匡胤はこれに応じ、恭から譲(平和的な政権譲渡)を受けて皇帝として即位した。これが宋王朝の始まりである。なお、号は趙匡胤臣時代に任官していた帰徳軍節度使が、旧の地を管轄した事に由来する。(の創健者が、皇帝になる前に封じられていた場所を名にするのが、中国お約束なため)

趙匡胤普のアドバイスを受けて、五代十国時代を支配していた軍人政治を脱却する文治国家を建造する方針を固める。その第一歩として趙匡胤は唐代から戦乱を度々引き起こしていた節度使年金と土地を与えるかわりにその地位を捨てさせ、優秀な将兵は皇帝直属軍隊「禁軍」に編入して契丹やタングートなどの異民族に対する軍隊を作りあげた。

963年、太祖となった趙匡胤は武による統一に乗り出す。皇帝率いる軍はまず荊南、続いて楚を定し、965年には後を倒した。更に南を滅ぼし、974年に江南の大、南唐に軍を進めた。軍は1年近くにわたって南唐の都、陵を包囲したことにより南唐の煜は門をひらいて降伏した。

976年、趙匡胤突然死したので、義が二代皇帝太宗として跡を継いだ。太宗は自ら軍を率いて残る対抗勢、北を倒しここに全国統一を果たした。しかし、長年の悲願であった十六州の奪還はついにかなわなかった。

政府科挙を重用し、科挙制度を整えた。首都開封には貢院と呼ばれる試験場を作り、科挙による役人の登用を増やしていった。科挙で1番の成績を修めたものは状元、二番は榜眼、三番は探と呼ばれ、将来の出世が約束された。科挙は基本的にはでも受けられるが、小作農や商人の子、犯罪者家族や親族は受験資格がなかった。また科挙に合格するための塾も地方にできて、広く人材が集められた。


澶淵の盟


997年には太宗が亡くなり、その跡を継いだ三代皇帝宗は文治義を継続した。中央には民政をる中書省、監察をる御史台、軍事る枢密院、財政をる三と呼ばれる機関を設置し、地方では転運使とよばれる役人を派遣して州や県を治めさせた。それらの政治の中心となったのは科挙出身の官僚達であった。

しかし1004年に30万の大軍を率いて南下を開始する。宗は、陵へ退避するか、州(せんしゅう)に親征するか逡巡した後に、大臣である準の意見を取り入れて出を決意する。軍は河を渡り軍と対峙するも和議を結び両軍撤退する。その時に結ばれたのが淵の盟である。その内容は、

これはの臣下か属となったような条約であり、民族にとっては屈辱的な内容であった。しかしに歳幣(さいへい、毎年の贈り物のこと)を送ることによって平和が保てれば、軍事費を他に回ることができるので、にとっては好条件なものであった。澶淵の盟により首都開封は大きな発展を遂げることとなる。薬局や本屋、外食屋が立ち並び、皿回し、曲芸、影絵などのエンターテインメントした。

しかし、宗の次の仁宗の時代になるとオルドス地方チベット系タングート族が建した西の領内に侵入してくる。は大軍を出してこれを迎え撃つも長いこと実戦から遠ざかっていた軍は勝つことが出来ず、和議を結ぶが、それで西との紛争は絶えることはなかった。


王安石の改革


1045年、一人の青年科挙に合格。これが後の王安石である。仁宗の治世後半には増えすぎた官僚と軍人によりの財政は逼迫していた。王安石はこれに対して、勤務先の江寧府(現在の南)から仁宗に万言の書と呼ばれる長文政治革の建書を送るも、仁宗はこれを重んじなかった。しかし、6代皇帝宗がこれを発見し、王安石は首都開封に召還される。王安石は皇帝の要請に応じて様々な革を開始した。

1069年王安石は皇帝直属の政策を審議立案する機関をもうけ、政治革に意欲のある若手の官僚を集めて新しい法案を練り上げていった。これらの人々を新法と呼ぶ。また王安石の革に反対する人々を旧法を呼んだが、皇帝が新法を推したため旧法は次々と地方に左遷されていった。

王安石の革には以下のようなものがある。

また科挙カンニングを取り締まり、試験科から作を除いて散文を重視する科挙革にも取り組んだ。

王安石の革によりの財政は安定を取り戻したかのようにみえたが、その裏では革に対する反対の勢も高まっていた。

1074年に河北地方が大魃に見舞われると、農民達は田畑も捨てて開封に流れ込んできた。これをきっかけに司馬や宣仁太后らの反対の反撃が始まり、王安石はこれに応じて職を辞した。


靖康の変


1093年に宣仁太后がなくなると新政をはじめた7代皇帝哲宗は旧法をしりぞけ、新法復活させたので両の争いはますますしくなった。

1100年、哲宗の後を受けて徽宗が即位した。徽宗は絵や書には天才的な才を発揮したが、政治手腕は拙かったので、宗の皇后であった向皇太后が摂政として若い皇帝を助けた。向皇太后の死後は蔡が宰相として政治を担って、宦官の童貫と共に旧法の大追放を行い、また旧法の著した書物を焼いた。

しかしその頃、北方では新が勃し、1115年、完顔阿骨打ワンヤンアグダ)はとの戦いに進出。これを倒して東地域を占領した。は対対策として、と結んでを挟み撃ちにするため大軍を派遣することを決定する。一方、内では1120年、方臘(ほうろう)が重税と地の悪政に苦しむ農民を率いて起し、これに応じて浙江省南部の農民100万反乱軍に加わった。は軍隊を引き帰らせて方臘の乱の鎮圧に臨むが、これにより江南は荒れ果ててしまうことになる。また水滸伝モデルになった梁山泊にを慕った傑らが集まり開封をすも、政府軍の伏兵にあい鎮圧される(ただし、実際にはなかったという説もある)

が方臘の乱や江の反乱に苦しんでいる間には再びを攻め、1122年に北京)を占領し、1125年にはついにを滅ぼした。と同盟を組んでいた軍は思っていたほどの戦果を上げられなかったので、事もあろうかの残党と手を組んでを滅ぼそうとしたが、その事実が発覚。その背信に怒り狂った軍は南下を開始。徽宗はこれに対応するがないと自ら認め、皇太子趙桓に皇位を譲った。これが北最後の皇帝となるである。宗はと和しようとするも、の要はあまりにも過大であり、には支払いがなかった。1126年の末、開封を包囲したの大軍は総攻撃を開始して場内に侵入をはじめ、徽宗や宗をはじめとした王族や重臣、妃や女官など3000人が捕われた。これを靖康の変と呼ぶ。翌年には捕虜を北に強制連行し、徽宗と宗はの五閉されてしまった。こうしては建から167年で一度滅んだ。


南宋


靖康の変が起こり徽宗や宗が捕われると、宗の構が跡を継いで高宗となり、河南省の南府で即位し、宋王朝を再した。これが南である。これを知った軍が南下を再開したため高宗は杭州から明州(寧波、にんぽー)へ、さらに船で温州にまで逃げて行った。軍は中原の暑さに耐えきれず、やがて北へ引き返した。

では対戦略で、交戦岳飛と和(しんかい)がしく論を戦わせた。1138年には和を結ぶも1140年に約束を破って再び南進を始めてしまった。岳飛は河南平原の各地で軍をやぶり開封に迫ったが、檜はとの和を強く望み、皇帝に進言して岳飛を呼び戻してしまった。は和の条件として岳飛の処刑をめ、南はこれに応じたので岳飛息子の岳と共に処刑されてしまった。この出来事により岳飛は今でも悲劇の将軍檜は売国奴として中国に伝わっている。
1161年に、陵王が和条約を破って侵攻するものの、南軍は撃退に成功。陵王が兵変によって殺され、いくらか有利な条件で和条約を結び直したことによって、ようやく平和が訪れることとなった。

高宗の後を継いだ考宗の治世下で、南の新首都、臨安はかつての開封に勝るとも劣らない発展をみせ、また豊かな農業生産を背景や陶磁器などの産業と、それを取引する商業がやいだ。しかし、考宗の退場と共にお決まりの政治抗争が勃発して、下り坂に向かっていく。

1206年、当時の権者であった(かんたくちゅう)がの衰えを見て、北伐を開始するが、弱ったはずの軍に負けたあげくに、政変を起こされて殺されるという事件が発生する。この頃に、朱子学の祖である朱熹が現われるが、その朱熹の学説は当時は偽学として非難されていた。

13世紀に突入しても南との戦いをなんとかぎつつ、それなりに平和で豊かな生活を送っていた。しかし、その一方で北原に一つの勢が現れ始めていた。後のモンゴル帝国の祖、チンギス=ハンの出現である。


関連項目



最終更新日: 20/05/10 10:42
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