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客観的教会論


ヨミ: キャッカンテキキョウカイロン
掲示板をミル!
22カキコ!

客観的教会論とは、果たしてニコニコ大百科に必要なのか、と、言いたくなる記事である。


概要


キリスト教会、ことローマカトリック教会教会論のことである。簡単に言えば、「教会という『存在』にが宿る」ということ。あるいは、現世と上のを繋ぐ二の教会としての役割を説明するための論(二、と書いているのは、あくまでカトリック教会が自称しているからに過ぎない)。

教会という組織にこそその体があるため、その成員の人格、徳性とは関係に教会は存在するということになる。


客観的教会論



教会の客観性を示す上での秘蹟論


そもそも客観的教会論が必要になるのは、この秘に関する問題に対して、教会が自己弁護を行う必要性があるからである。

とは、『洗礼、堅信、餐、婚姻、終油、叙階、告解』の七つであり、これを七秘という。それら一つ一つには明確な意味を持つ。洗礼はキリスト体とつながる事を意味し、堅信は、自由意志においてキリスト教信仰を受容するか、そして受容したものにたいして行われる秘餐はキリストの血をその体内に授け、婚姻男女婚姻が正当なものであり、解消されないことをによって明確化させ、終油は死に際して救いを得るために行われる最後の秘、叙階は教会エラキーの中での位置づけをによって授けるもの、告解は個人が犯した罪を教会が聞く事によってその罪に対して赦しを与えることである。

この七つの中でも最も重要なのが洗礼で、それは既に述べた意味を持っている。ただ、問題なのは幼児洗礼である。幼児には自由意志がいため、親の思考によってそれが取り決められる。そのため、そこにはキリスト教信仰を行うための『カリスマ宗教的情熱)』が存在しない。にも拘らず、キリスト教信仰の内に取り込むのは信仰として正しいのか、という問題がある。だが、この七秘が定められた古代において、幼児の死亡率はきわめて高く、洗礼を受けないまま死ぬ事は、すなわちそれが地獄での永遠の苦しみと直結するものであった。故に幼児をその地獄から救うために行われるものであった。カトリックでは現在も幼児洗礼を行っているものの、堅信にこそ重きを置いており、堅信を受けるか否かは本人の自由意志に基づいている。カトリック教会の立場は現在、「量より質」である。


問題点


に関する意味的な問題は既に述べたが、更に問題なのがそれを執り行う職者の問題である。この事について教会に対して問題を提起したのは、4世紀ごろ北アフリカにて生まれたドナートゥス(ドナティスト異端)であった。

ドナティスト異端―問題の出発点

4世紀というのは、すなわちキリスト教会が世俗権と結びついた時代である。これによってキリスト教認され、さらには教化されるに至ったのだが、ドナティスト異端はそれに異を唱えた。彼らは叫ぶ「キリスト教は王侯と何のかかわりがある、教は宮廷と何のかかわりがある?」。世俗君と結びつく事とは、ドナティストにとって『堕落』を意味した。教会とは本来と人とを繋ぐのみであるはずだ、と。更に言えばこの時代、職者の中でも、厳しい迫を受けて一時期キリスト教信仰を捨てるものも居た。彼らが再びキリスト教信仰に戻る事が、ドナティストにとっては許しがたい悪であったのだ。故に彼らは教会を否定し、「与えるべきものを持たない者が、どうして与える事ができようか!」「悪人の洗礼は、そこにがいない。その洗礼には、罪人の罪によって穢れている」といった。これはすなわち教会の秘の否定である。

彼らのめると、秘授与は、授与者の徳性にその体がある、ということである。これを主観的秘論という。この主観的秘論は極めて分りやすい。授与者の人格が優れていれば、それはとのつながりを持っているものである。故に、そのとのつながりを持つものであれば、それが例え俗人であっても、秘の授与は可である。というものである。

この問題に対して教会アルル会議314年)において次のように述べる。「アフリカ人については、彼らが再洗礼という彼らだけの定めをもちいているので、異端である。異端のある者が教会に来た時は、彼の受けたシンボルが問いただされるべきである。もし彼が、三位一体の御名において洗礼を受けた事が分ったならば、ただ手のみが加えられるべきである」。この回答は、秘本質は「三位一体への呼びかけ」によるものであるという事になる。これはすなわち職者の具性を意味し、職者の人格は、秘の効は関与しないということになる。

また、もう一つの問題が、再洗礼である。再洗礼とはすなわち、『消えるはずのい刻印(秘)に、上から更に刻印を重ねる事』である。もしこれが許された場合、教会の権威は失墜する。故に、その刻印は消えないとし、重要なのはその三位一体への呼びかけであるとした。これは一見すれば教会の自己弁護である。しかしながら、同時に重要な問題を秘めており、それが叙階に関する問題である。

もし罪にある者が叙階された場合、あるいは叙階されたものが罪を犯した場合、その人間の与えた秘は有効か否か、という問題である。もしも、この人間の秘効であると仮定すると、その人間による叙階は意味を成さなくなる。これがもし教皇であった場合、全ての職者の秘効化するということになってしまう。これはすなわち、カトリック信仰を為す者全てが、その信仰を否定されることを意味する。信徒はこのような状態に成ると、最途方にくれるしかなくなるのである。教会はこの極限状態を仮定し、それに対して次のように答えた。「聖書、あるいは器をわたし、あるいは仲間の名を告げたといわれるものについては、その任を解かれる。また、彼らが単に言葉だけではなく、の行為において、裏切りが探知されるものについても任を解かれるべきである。だが、そういった罪人が既に叙任をしていた場合、その被叙任者が、職にふさわしい人間であるならば、その叙任は有効である。なぜならそれは三位一体によるものだから...」。これは叙階の秘についても洗礼と同じ事が言える、ということである。

これによってドナティスト異端は退けられた。アルル会議コンスタンティヌスによる認の翌年であるから、キリスト教徒への迫はなかったが、しかし、ドナティストに対しては迫が続いた。にも拘らず、ドナティストは存続し続け、問題はなお提起され続けた。

この事に対して政治的に解決したのはホノリウスであったが、学的な解決を行ったのはアウグスティヌスであった。

客観的教会の確立

アウグスティヌスという人物は、世界史を学んだものであればであっても知っている人間である。彼による教会論の確立によって、古代は終焉し、時代は中世へと遷るのである。

また、彼の生きた時代は帝国の終焉の時期でもあった。彼が生きたアフリカのヒッポとてその例外ではなく、ヴァンダルが移動をし続けて、しい混乱をもたらしていたのである。あたかも黙示に記されたかのような混乱の中にも拘らず、教会の成員は今がまだ黙示のときではいと確信していた。なぜなら、「全世界に福音が述べ伝えられるまで」黙示の日は来るはずがいからである。よって彼ら職者がなすべきことは一つ、この世の信徒を如何に繋ぎ続けるか、である。だが、そこには問題が有り、前述のドナティストから続く、極度の理想義、それと対立する国家との対応であった。教会はこの問題に対して、その名『普遍』からは想像も出来ないような(そもそも普遍が意味するのはそういうことじゃないんだが)、柔軟な対応をする必要があったのである。この時代の要に答えつつも、キリスト教としての組織と教義を大系的に作り上げる必要があったのだ。アウグスティヌスは正にそれを成し遂げた。最大の教の名は、伊達じゃない。

教会とは本来、の施設である。の施設はイエスパウロに『鍵』を託したことに始まり、その施設の第一の的は『救済』である。故に教会には明確なる秩序と教え(これらをオルドーという。キリスト教、ことカトリックを学ぶものにとって、カリスマとオルドーという二つの存在は非常に重要である)は絶対必須のものであった。この必要からして、教や職者は人ではなく、によって任命される。故に、彼らの教権(宣教、秘等々)には、現世的で偶然的な、人格はなんら、何一つ全く全に意を為さない。

さて、ここで前述の秘の説明と、ドナティストの論、及びそれについての教会の回答を思い出してほしい。アウグスティヌスによれば、ドナティストが異端である因は、秘と秘同一視した事によるものであるとされている。アウグスティヌスは秘と秘を明確に区別する(アウグスティヌスの論が極めて優れているのは、その区別によるものである)。例えば洗礼の場合である。ドナティストは、洗礼を授けたものに洗礼の体があるとしたが、論争において洗礼は三位一体)によるものとされた。アウグスティヌスは更に、この洗礼という行為について、行為と効果を区別し、「は恩寵による秘を、悪人を介してさえ与える。だがしかし、恩寵そのものは、みずからによるか、あるいはその者を通してしか与えられない」とした。すなわち、秘行為そのものが有効であったとしても、その効果(恩寵)は、の施設である教会にのみ生み出せるものである、と述べたのだ。これは仮に異端者が居たとしても、教会に一致した場合(すなわち悛)、それはすなわち、正統への復帰を意味し、秘がその効果を発揮する事ができるのである。逆に言えば、カトリック教会の外にある場合、それが例え『カトリック信仰のようなもの』であったとしても、秘に効果はなく、救済は得られないのである。

さらにアウグスティヌスはこの教会について、それが可視的な、単純なものではないとしている。すなわち、教会とはの恩寵に満たされた職者の共同体によるものであり、それら個々の集合としてのカトリック教会にこそ、恩寵はある。すなわち、アウグスティヌスにおいて体となるのは常に教会なのである。

アウグスティヌスによって、ドナティスト異端の論は全に退けられ、ドナティストは次第に職者個人、あるいは教会の俗権との妥協という『現世的ではない』問題以外にその論点を失うのである。

そしてアウグスティヌスによって確立された秘論は、その後も長くカトリック教会公式見解となるのである。

こうして確立された教会客観的な秘論は事効論という。


新たなる問題


ここまで教会客観論、および、客観的秘論を見てきた。

だがしかし理論現実に当てはめるのは、当然のことながら甚だ愚かしい行為である。現実から理論は生み出される。故に、この理論が新たな展開を迎えた時期を見る必要がある。それすなわち、中世における最重要問題、グレゴリウス革である。

改革の起点

グレゴリウス革は、すなわち、教会と世俗君との間に起こった問題、叙任権闘争を含め、教会性と絶対性をもたらすために行われた論争であった。結論から言えば、この革は、ハインリヒのローリング土下座などを経て教会勝利に終わる。しかし、同時にそれは教会客観性を揺るがす大問題を抱えていた。

高校教科書や、一般見解においてグレゴリウス革は、叙任権闘争に終始している。だが実際のところ、この革は教会内部の革でもあった。グレゴリウス革前の教会は極めて、堕落していた。職者はその徳性を失いつつあり、そして、俗権の介入、すなわち世俗君による職叙任は教会の腫瘍であった。そこでこの革は起こる。革に従事した教皇、こと、その中心人物であるグレゴリウス7世は教会性の回復と、俗権の介入を底的に排除しようと試みる。その中で玉に挙げられたのがシモニアであった。
「シモニア
とは、職を銭によって売買する行為である。

グレゴリウス革はその論上において、的を達成するためにある論理を持ち出す。それすなわち、ドナティスト異端の論である。簡単に言えば、「シモニア等、キリスト教において悪とされる行為によって職者は直ちに排除せらるるべきである。なぜなら彼らの秘には悪があるのだから」ということである。あくまで簡単に言えば、だが。

改革以前の教会

さて、グレゴリウス革ではドナティスト異端の再臨が見られるのだが、それ以前においてはどうだろう。

既にったように、教会は基本的にはアウグスティヌスによる客観論を貫く。だが一方で、その権闘争(的な意味で)は時としてこの客観論を否定するのである。

ここで一つ、分りやすい例がある。769年、ローマにて会議が開かれた。その議題は違法による教皇即位を果たしたコンスタンティヌスが叙階した20名の職者の処遇である。教会としては、違法によって即位した教皇の叙階である以上、その叙階の秘効にしたいところだが、効にした場合、明らかなアウグスティヌス論との対立であり、誤謬である。教会は岐路に立たされた。会議には、当時まだ皇帝ではなかったカールの支配するフランク王国からの使節を交えて行われた。そして、会議の決定は意外なものとなる。「20名の職者の叙階は、侵奪者コンスタンティヌスによるものである。故に効」。それが決定であった。そして同時に、叙階された20名の職者については、『あたかも彼らが叙階された事がなかったかのように』めて正統なる教皇ステフヌス3世の叙階を受ける事となった。この決定はすなわち教会法において誤謬であり、異端である。その手続きに不備がなければ、「違法であったとしても有効」なのだ。更にこの決定が誤謬である理由は、コンスタンティヌスの行った洗礼を認めた、ということである。

これはすなわち客観教会が、主観的秘論の立場をとったという事である。また更に言えば、この当時、一流の学者であってさえ、政治的対立の問題に関しては主観的秘論の立場に立っているのである。

これらのような、教会論の退は、アウグスティヌスから僅かな期間の内に起こった。そして、それはすなわち、現実教会はいまだその教会論を安定させる事が出来て居なかったのである。とはいえ、これがグレゴリウス革につながるとは言いがたいのかもしれない。事実、こういった主観的な論が述べられた後には必ず客観論への修正が試みられているからである。そしてまた、一見して主観義の立場をとっていたとしても、それの意が必ずしも主観的秘論に踏み込んだものでい場合があることも理解しておかねばならず、それら個別のケースについては、私はその説明を為すだけの量を持っていない。関連商品から『正統と異端』という本を買う事をお勧めする。

ともかく、グレゴリウス革において示されたドナティスト異端の復活は、教会がアウグスティヌスによる教会論の確立にも拘らず、極めて不安定な時期にあった時から常に継承されてきたものであったのである。故にこそ、グレゴリウス革はその論争に一定の終止符―終止符とはすなわちインノケンティウス3世のフランチェスコとの出会いといってよいだろう―を打つに至る重大な革であったのだ。なぜなら、グレゴリウス革がに終わりを迎えるのはカノッサでの一件の時ではなく、インノケンティウス3世による革の法制化のときなのだから。

改革への道筋

グレゴリウス革は既に幾度も述べてきたように、「と俗との間にある相応しい秩序」を教会導によって規定する一大革であった。この革は1048年に教皇座に座ったレオ9世より始まる。


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最終更新日: 19/02/07 19:37
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