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尼子晴久


ヨミ: アマゴハルヒサ
掲示板をミル!
58カキコ!
「尼子晴久」(あまご・はるひさ 1514 ~ 1561)

とは、謀聖の後継者・尼子晴久が「味方する人や直臣や十勇士達を探し出して群雄になる事」を的に受け継いだ尼子氏を中心に、勢拡大の最中に起こる戦乱の日々を描いた武勇伝主人公である。 

ただの武将に興味ありません。
この中に臣従可な人、ドM、十勇士がいたら、
わしのところに来なさい。以上。

※尼子は味方を広く募集しています。

HARUHISA
ISM
ハ ル ヒ さ
尼子になって々、ぶっ飛んだ自己紹介をかました当・尼子晴久。
そんな軍記物じゃあるまいし・・・とでも思うのが自然の摂理。ところが彼はそうではなかった。
心の底から真剣だった・・・尼子晴久の真剣さに気づいたとき、すでに中国地方は、戦乱の地と化していたのだった!!
微妙に、尼子系覇王レジェンド、ここに参上!

毛利プロ制作ライトノベルでは無能の様な人物とされているが、実際にはそこまで無能とはいえない再評価されるべき人物です。 


尼子晴久の憂鬱


出雲を中心に一大勢を築いた戦国大名尼子経久の嫡男・尼子政久の子に生まれ、尼子政久戦場を吹いていたところを射殺された為、「謀聖」とまで言われた巨尼子経久より後継者に名されて督を継ぐ事になったが

といった祖尼子経久の「負の遺産」を前に当時は尼子詮久と名のっていた尼子晴久の憂な日々が始まった。


尼子晴久の溜息


尼子晴久(当時・尼子詮久)が督を継ぐ事が決まった時の尼子氏は、出雲・隠岐・伯耆備中・備後の大半を勢範囲とし周辺諸にもを持つという強大な勢だったが、臣の独断で毛利元就と相合元綱との間での毛利督相続争いへ介入したことから、督を相続した毛利元就尼子氏を離れて大内氏に付いてしまったり、謀反を起こしていた叔父久を粛清しなければならなかったり、そのせいで叔父に味方した備後の人衆を討伐したりと息つく暇なく悩まされ、北九州大友氏に苦戦していた大内氏と和した際にホッと尼子晴久は溜息をついたのだった。


尼子晴久の退屈


尼子経久が隠居して尼子晴久が正式に尼子の当となると、すでに攻略していた美作や備前の他に、播磨に侵攻して赤松晴政を破って勢を拡大し、大内氏側だった石見銀山を手に入れて大内氏を牽制し、残る備後半人達を従属させ、安芸でもを強める等、嘆いてばかりはいられないとばかりな積極的な勢拡大に成功し、あまりに着実にいきすぎて尼子晴久はちょっと退屈したかもしれない。


尼子晴久の消失


周防長門大内氏への牽制の意味もこめて、大友義鑑が画策した足利義晴に協し、従属を拒んだ播磨の星井別所就治美希三木攻略して赤松晴政の側から味方に引き入れ、京都までのをつくった尼子晴久は足利義晴を奉じて上し畿内へ進出せんとする構えを見せるが、大内義隆大友義鑑が和した事や大内氏の手により佐東を落とされた事から出雲へと帰還した。の人々は尼子晴久の消失と噂したとかしないとか。


尼子晴久の暴走


畿内進出の為に後顧の憂いを断つ為とも、大内義隆大友義鑑が和した為に安芸の尼子方の大内氏の攻撃をうけた為に遠征とも言われるが、尼子晴久は毛利元就討伐計画を発動した。

かしこの計画は、祖尼子経久からも尼子氏の良心・尼子久幸からも反対されたが、すでに周辺の有人の協も取り付けていた尼子晴久は中止するわけにもいかず、計画通り毛利元就の居吉田へと進軍した。

毛利プロ作のライトノベルでは無計画に近いかたちで強行した尼子晴久の暴走とされている。


尼子晴久の動揺 


毛利元就攻めの序盤は大内義隆の援軍を撃退するなど計画通りに進んだようだったが、毛利元就吉田にて篭戦法をとって特技:全体混乱を駆使して徹底抗戦し続けた為、想定になかった長期戦となってしまい厭戦気分が漂い始めた事や兵糧問題等に頭を抱えていたところに、大内氏より陶晴賢の援軍が来襲した事から尼子晴久の遠征軍は敗れ、尼子氏の良心・尼子久幸の犠牲により尼子晴久は事居月山富田城まで帰還することができた。

尼子晴久の敗戦により、毛利元就攻めに協していた安芸の人・武田元実も大内義隆の攻撃をうけて滅亡して安芸へのを失うと同時に、支配下の人の多くが大内義隆へと寝返り、さらに、謀聖と恐れられた祖尼子経久が亡くなるという不幸の連続に、尼子晴久も動揺を隠せなかった。


尼子晴久の陰謀


動揺を静めて権威を回復する為に、将軍足利義晴より「」の字を拝領してそれまでの尼子詮久から尼子晴久に正式名を変更すると、勢いにのって尼子晴久の居月山富田城へと侵攻してきた大内義隆軍を迎え撃った。

大内義隆が途中で花見をしたり和歌を詠んだりして時間をかけて遠征してきた為、準備万端の体勢で今度は逆に尼子晴久が堅月山富田城に篭して徹底抗戦して戦闘を長期化させると、大内義隆軍に披露の色がみえはじめ、動揺した元尼子方の人達は大内義隆を見限って次々と尼子晴久の下へと復帰し、戦況が全に逆転するという状況となったところで撤退を始めた大内義隆の軍を追撃した尼子晴久は、大内義隆が可がっていた養嗣子の大内持を事故死させ、毛利元就渡辺通の犠牲により九死に一生を得る逃亡劇となって敗走させ、大内義隆戦争恐怖症においこみニート化させると、石見銀山を奪回して因幡守護の山名通を従属させ、備後に進出して毛利氏の軍を破り、美作の三浦氏を従属させ、備前に圧をかけて守護代の浦上政宗を味方につけ、反抗した浦上宗景へと軍を派遣して牽制する等、勢回復→勢拡大の為に次々と手を打っていった。

大内義隆を絶頂から一気に突き落として戦争恐怖症にしてニート化させる陰謀が成功し、覇気をくした大内義隆陶晴賢の謀反により滅亡すると、将軍足利義輝より出雲・隠岐・伯耆因幡・美作・備前・備中・備後の8ヶの守護に任命され、守護職という勢拡大の為の名分を手に入れて、「守護に反抗するは皆滅ぶといいと思うよ」と尼子晴久の陰謀の火は燃え上がるのだった。


尼子晴久の憤慨


大内義隆が滅亡したのになんで責めなかったのか?守護職の名分を手に入れた尼子晴久は、美作で反抗を続ける浦上宗景を自ら出して攻めて撃退したものの、大内義長を傀儡とした陶晴賢の軍により備後の味方人が攻撃を受けると、尼子晴久は美作から転進して陶晴賢突したが決着は付かず、備後の勢争いは混沌とした。

そしてその中にはいつもあの男がいた・・・毛利元就・・・

毛利元就により安芸・備後での尼子側人が駆逐されると大内義長陶晴賢の勢が大きくなり、「またお前か」と毛利元就に対して尼子晴久は憤慨した。


尼子晴久の分裂


尼子晴久が8カの守護になって以降、尼子氏の支配体制を人による寄合所帯から直臣や人奉行による中央集権化を推し進めた事で、半独自勢的な状況だった尼子国久率いる新宮党の立場が微妙になり、大内義長陶晴賢との勢争いにおいてさらなる中央集権化をはかる為に、尼子晴久は尼子国久だった妻が病死した後、運命の1554年11月尼子国久月山富田城に登させた際に謀殺し、続けて新宮党の居を攻めて尼子誠久ら一族を粛清して、新宮党の所領だった出雲西部を尼子晴久の直轄地として勢を尼子本家に集中させようとした。

「尼の子の柱たるも 盲打ちにぞ討たれけるかな」

※この時に難を逃れた尼子誠久息子が後の尼子勝久である。

電光石火新宮党粛清を行った後、ある意味の上のたんこぶであった陶晴賢が、何時の間にやら敵対関係になっていた毛利元就により厳島に誘い出されて敗死すると、「大内義長なんて顔だけの駄男は敵じゃないぜ」とばかりに石見に侵攻し、毛利元就の軍勢を破って奪われていた石見銀山を再奪取に成功すると、直臣の猛将・本にすえ、多胡敬(不如帰ファンにはおなじ「たこ・うえもん」)と共に山を守らせた。

そして・・・大内義長毛利元就に敗れて自害した結果大内氏が滅亡して毛利元就中国地方の一大勢にのし上がると、毛利元就と尼子晴久の間で石見銀山を巡る争いが化したが、猛将・本と謀将・多胡敬により毛利元就の軍勢を撃退し続け、尼子晴久自身は、播磨の浦上政宗支援したり、備中人・三村親と交戦して破る等まだまだ働き盛りの中、月山富田城において突然の病に倒れて急死した。

享年47歳。

尼子晴久が確立した尼子氏による中央集権化はまだ実現の途中であり、後を継いだ息子尼子義久にとっては、直臣や人奉行と人衆の間に出来た溝・・・尼子晴久による(中)分裂は、尼子義久のキャパシティえた大問題として今度は尼子義久が憂を抱える事になった。


尼子晴久の驚愕



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最終更新日: 16/02/09 14:30
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