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尼子経久


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「尼子経久」(あまご・つねひさ 1458 ~ 1541)とは、

であり、謀略に優れた逸話を残しながらも

欲正直の人」

と言う評価が残っていると言う戦国時代最強の「謀聖」。

近年では、NHK大河ドラマ毛利元就」での緒形拳の名演や、作中での

「名将と呼ばれるものは、みな悪徳と背中合わせに生きておる」

「わしは、良いジジイで死ぬぐらいなら、血飛の中で、地獄に落ちるのが本望だ」

「謀事多きは勝ち、少なきは負ける。戦いの世に生きる男の有様だ」

といった台詞、そして「謀聖」の異名から黒い人物だと想像されてしまう事も多いが、物に執着しない逸話や文武両に優れ自画像も残している事などから、ドラマ中で緒形拳が見せた太陽の様な笑顔も併せ持った好々爺であったのではとも思われる傑物。


失敗からのスタート


出雲守護代・尼子清定の嫡男に生まれる。

尼子氏は、極氏の支流。婆娑羅大名の佐々木道誉の孫で近江尼子に居住した佐々木高久の次男・佐々木持久が、守護を務める極氏より守護代として月山富田城派遣された事から始まる一族。

幼年の頃は、京都にいる君・政経の元に人質として送られて当時としては高準の教育環境で過ごし、所領の通行税について君と協議する等才覚を発揮し、政経の「経」の字を賜って尼子経久と名のって元した。

出雲に帰して督と守護代職をついた尼子経久だったが、君・政経の寺社領を横領し、それまで免除されていた段銭が幕府により徴収対にされたにもかかわらずこれを怠ったことによる怠慢と、尼子氏の勢増大を危惧された事から守護代の職を剥奪されてしまう。さらに追討を出されてしまった事から居月山富田城を包囲され、を追い出されて浪人の身となってしまった。

後に「謀聖」と呼ばれる傑物の人生は失敗から始まったのだった。


大名復帰


尼子久幸を安芸守護の武田元繁に預けて放浪のに出た尼子経久は、放浪生活を送ったとされているがそのを現す史料は軍紀物にしか存在しない。

あくまで謀聖のイメージを重視した場合のその後のストーリーとしては、次のようになる。

旧臣達100数名を集めると共に、祭礼や正月に芸を演ずる芸集団「鉢屋衆」を味方に引き入れた尼子経久は、正月の年賀を祝って兵の気がゆるんでいる中、自ら月山富田城の裏手に潜み、内部からの放火と火爆発させた音で兵の注意を別の方向へと向けると、中に切り込んで100人程の手勢で450人ほどを討ち取った。

と言われている。

かしこ武勇伝は、真田信繁真田幸村に仕立て上げた実績もある軍紀物からの出典と言うことや、当時の出雲は元君の政経が滞在していた事や、嫡男の尼子政久が「政」の字を拝領している事から、実際には血生臭い事をせずに許されていたとする説もある。

政経は、尼子経久の月山富田城奪還後に、極宗督争いに介入する為に上しており、対抗するだけの兵は保有していたと思われる事も、穏便に復帰した説の後押しとなっている。

その後は、自らの追放劇の首謀者であった三沢氏をターゲットに定め、心を送り込んで2年間三沢氏で奉させるというレフ・トロキーの最期の様な謀略を用いて虚報により誘い出した三沢氏を包囲して撃退した事から、他の人・氏や三屋氏らも下に収めて、出雲事実上の支配者となり、近江での政争に敗れて出雲へ下向した政経が没すると、正式に出雲守護代に任じられて極氏からの独立を果たした。 

月山富田城を取り戻して極氏からの独立を果たすと、その才を見込んだ「吉川」こと吉川経基を娶った。吉川夫人との間には、尼子政久尼子国久久らをもうけた。


毛利元就との出会い


戦国大名としての独立を果たした尼子経久は、出雲近隣の伯耆備中・備後・美作・安芸・石見に侵攻したが、「も実もある勇将」と評された期待の嫡男・尼子政久が戦地にて士気高揚の為に得意の横笛を吹いているところを射殺されたり、三男の久が反乱を起こす等悲運も重なった。

また、大内義興の安芸での拠点・攻略の際に、安芸・毛利氏の当毛利幸松丸の名代・毛利元就にその攻略を命じた。毛利元就である蔵田房信の叔父・蔵田直信を裏切らせて、蔵田房信を自害に追い込んで落させり、羽衣南条宗勝や山名澄之を打ち破ったり、長門大内義興と争ったりくっついたりする等して勢の拡大に尽した。

※蔵田直信は後に殺されているが、NHK大河ドラマ毛利元就」にて印的なシーンの犠牲者として登場している。

その後、毛利元就は尼子経久が背後にいるとも言われた・相合元綱との内紛を、を殺する事で対処した後に、尼子経久から大内義興に所属変更した為、安芸での軍事バランスは再度変更されることとなり、陶晴賢に敗れる等したが、経久は孫の尼子晴久を美作に再度侵攻させ、大友と結んで大内包囲網を形成する等していた。


謀聖死す


嫡男の尼子政久を失った際に、一度は尼子久幸督を譲ろうとしたものの、尼子久幸が固辞した為、孫の尼子晴久が正式な継承者となった。

尼子晴久督を譲った後も後見を続けて、後に尼子を滅ぼす遠因となる石見銀山ゲットしたり、安芸・備中・備後・美作に進撃する等、尼子晴久が後に

  1. 出雲
  2. 石見
  3. 隠岐
  4. 因幡
  5. 伯耆
  6. 安芸
  7. 備後
  8. 備中
  9. 備前
  10. 美作
  11. 播磨

の11州の太守と言われる事になる礎を築こうと老年ながらも戦い続けた。

しかし、大友氏が大内氏と和解して、大内氏に石見銀山を奪われる等、大内氏との関係は悪化の一途を辿っていた。そのような中で発生した吉田の戦いでは大内の援軍を得た毛利元就尼子晴久30000にも及ぶ大軍を撃退されてしまう。

のちに「謀神」と称される毛利元就が勢を拡大し始めていた頃、「謀聖」尼子経久は月山富田城で没した。享年84歳。中国地方の謀将も世代代わりの時期であった。

※その他「尼子経久」の詳細についてはWikipediaの該当記事[外部]参照の事。


尼子晴久の憂鬱


尼子経久から督を継いだ尼子晴久だったが、

といった尼子経久が残した「負の遺産」に苦しめられることになる。

歴史上の勝者である毛利により無能で傍若人でダメダメな人物だと吹聴されている尼子晴久だが、これだけの偉大な先代でも処理できなかった事案の処理を行って、尼子氏最大の版図を築いたのだからダメ当であったとは考えにくい。
むしろ、戦国初期の「地元の土着有者達の盟」といった旧来の戦国大名像の元祖とも言うべき尼子経久が導者であった時期があまりに長すぎ、かつ先代当という事もあって、時代に合わせた「絶対者としての大名を頂く中央集権組織」という後期戦国への移行が、他以上に難易度が高かった上に、大内の勢を取り込みつつもすでに革を了していた毛利の存在、さらにその革の途上での死にという不幸が重なったという事が大きく、むしろ革に着手できず追放されたり謀殺される例も多い体勢の革を実施しつつ、行して尼子の最盛期を築いたというあたり、むしろ優秀な後継者であったと言える。


無欲の人・尼子経久


尼子経久は物に対するこだわりがく、褒められると着ていた着物や高価な身の回りの品をホイホイ与えていたといわれている。

あまりにホイホイわけあたえてしまう為、なのに着ているが小袖一着になっていたりした為、臣達が遠慮して褒めなくなったのだが、尼子経久の機嫌でも損ねたのかさすがに庭のの木なら大丈夫だろうと、庭のの木を褒めると、尼子経久はそのの木を引き抜いて与えようとしたと言う。さすがに慌てた臣のとりなしで、の枝を与えることになったのだが、尼子経久はまったく気にしておらず、の木を与えられなかったのを残念がったらしい。

これらは、「所領」と言う一番大きなものを一度は失っている尼子経久からすれば、身の回りのもの等、分け与えてしかるべきものだったのかもしれないのかもしくは褒められると調子にのってしまう単純な人物だったのか・・・なんにせよ謀聖の意外にお茶な点と言える。


趣味人・尼子経久


当時の教育を受ける上で最高準だった京都で幼き頃を暮らした尼子経久は、

といった教養豊かな人物に育ったといわれ、

 あきあげは とみたからにあひのりて おもふことなくながいきをせむ

といった和歌を詠んでいる。(ただ、これに関しては最近は久が詠んだものということが判明している)

また出雲大社の修築を行う等、芸術・文化に理解を示していたと言える。 


戦国大戦


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が謀略から逃れた者はおらぬ」

そんな彼が戦国大戦にもVer1.2から参戦した。他(尼子)として。
いかにも老獪な手練という貌に謀聖という二つ名もそのままである。
は2.5コストとしては最低ランクの6だが統率は貫の11の足軽、そして魅・伏兵・制圧と特技は3つ。

計略の「謀聖の閃き」は、味方の武が上がり、範囲内の敵には時限式カウントダウンを与える。カウントダウンが0になると、その敵武将は一まで戻される。
防戦時や大筒奪取戦では強制帰とその効果時間も相まってかなりの時間が稼げる計略と言えるのだが反面自分がリードされている状態で敵で使っても戦場距離が近いため時間稼ぎも出来ず、武上昇値が控えめなため士気相応の効果は得がたい。
更に言うと、カウントダウン形内に敵が居続ける限り減るが一でも出てしまうとリセットされる。故にローテーションである程度やり過ごせる敵手前ではまずゼロにまでならないためそういう意味でも使いづらい。

更に悪い事に、同軍に謀将こと宇喜多直家が士気+1でカウントダウン効果が撤退させるになった「謀将の殺意」という計略を持っているため、「じゃあ宇喜多でいいや」というが多発。当時不遇な計略同士だった謀神こと毛利元就と共に本スレコンビとして筋肉マンの四次元殺法コンビAAネタにされる運びとなった。

Ver1.20B以降繰り返し上方修正を受けたが、武が重視される環境下では日のを見辛いカードであり、今後の研究が期待される。


関連動画


▼「尼子歴史シリーズ」と呼ばれる歴史替え歌に登場している。

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最終更新日: 15/06/04 01:21
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